以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Battery rationality」という記事を翻訳したものである。
9.11の後、テロ対策には「コストに上限はない」と言われるようになった。実際、米国はテロを終わらせるとの名目で、終わりなき戦争、体制転覆プロジェクト、秘密拘置所、誘拐、ドローン攻撃、強制収容所などに莫大な費用を投じた。
一方、帝国の内部では、我々全員が「コスト度外視」の「テロとの戦い」ゲーム(家庭版)をプレイさせられることになった。新たに、極めて侵襲的な空港セキュリティ対策が導入された。電話帳のように分厚い「搭乗禁止」リストが秘密裏に作成され、法的手続きも反論の機会も与えられないまま航空会社に配布された。突如として、罪を問うほどの証拠もないが乗客として搭乗させるには危険すぎる、という矛盾した理由で、無作為に選ばれた赤ちゃんや現職の米国上院議員までもが飛行機に乗れなくなった。
https://pluralistic.net/2021/01/20/damn-the-shrub/#no-nofly
二度とカッターナイフでコックピットに突入させまいとする取り組みとして、我々はマルチツール、編み針、医療機器など、多くのものを取り上げられた。当時、セキュリティの専門家ブルース・シュナイアーが繰り返し指摘したように、機内の飲み物カートにガラス瓶が置かれているうちは、テロリストは簡単に9.11のカッターナイフと同様の即席の刃物を手に入れることができた。
シュナイアーによれば、当時取られた意味のあるセキュリティ対策はわずか2つだった。コックピットのドアを強化したことと、乗務員に基本的な護身術を教えたことだ。それ以外は全て「セキュリティ劇場(security theater)」だった。この言葉は、TSAでの没収から、爆発物を検出すると謳われた無用の「化学物質探知」ブースが並ぶ倉庫に至るまで、このビジネス全体を表現するために作られた言葉だ。
https://www.motherjones.com/politics/2010/01/airport-scanner-scam/
セキュリティ劇場とは、意味のない対策を展開するだけでなく、実在しないリスクから自分を守ることでもある。2001年、「シュナボマー」ことリチャード・リードは靴に隠した爆発物で飛行機を爆破しようとした。このアイデアは、その愚かさゆえに失敗に終わったが、その後我々は四半世紀にわたって靴を脱がされることになった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Reid
2006年、アマチュアの化学者集団が飛行機のトイレの洗面台で爆発物を合成する計画を立てた。さまざまな試薬や前駆物質を手荷物として機内に持ち込み、飛行中に爆弾を作って飛行機を墜落させようと計画したのだ。「ヘアジェル爆弾テロ未遂事件」の実行犯ら(ヘアジェル・ボンバーズ)は実行前に逮捕されたが、仮に飛行機に乗り込めていたとしても失敗していただろう。彼らの液体爆発物のレシピは、硫酸と過酸化水素を混ぜた「ピラニア溶液」を作るところから始まるが、この溶液はごく低温で長時間保たなければ、即座に致死性のガスに変わってしまう。液体爆弾計画が実行に移されていたとしても、テロリストたちは溶けかけの氷に満たされた洗面台に顔を突っ込み、唇を青くし、肺を焼かれた状態で発見されていたに違いない。
https://en.wikipedia.org/wiki/2006_transatlantic_aircraft_plot
こうしたテロが完全に失敗したという事実によっても、セキュリティ劇場を運営する世界中の演出家たちが考えを改めることはなかった。我々は今でも空港の検査場で液体を没収されている。
なぜ我々は、失敗に終わることが繰り返し証明された想像上の攻撃から自分たちを守らなければならなかったのか? テロとの戦いには「高すぎるコストはない」と言われてきたからだ。シュナイアーが指摘したように、まったくもってナンセンスだった。たしかに、民間航空機へのあらゆる攻撃を防ぐ、100%効果的で確実な方法は存在する。航空機の運航を100%禁止すればいい。我々がそうしなかったのは、「高すぎるコストはない」が最初からウソっぱちだったからだ。あまりに高すぎるコストはいつだってあった。
だからこそ、2009年にウマル・ファルーク「アンダーウェアボマー」・アブドゥルムタラブがブリーフに隠した爆弾で飛行機を爆破しようとして失敗した後も、我々は下着を着けたままでいられる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Umar_Farouk_Abdulmutallab
同様に、アブドゥッラー「アナルボマー」・アル=アシリが2009年にサウジの高官を殺害しようとして直腸に挿入した爆弾で胴体を吹き飛ばしたように、爆弾を尻に隠すことが実際にうまくいったにもかかわらず、飛行機に乗るたびにデジタル直腸検査を受けることはない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Abdullah_al-Asiri
航空の安全のためだからといって、全ての搭乗者のケツに指を突っ込んで調べるのは、やはり高すぎるコストなのだ。
演劇作品は長期公演されることもある(『ねずみとり』はロンドンで70年間上演された!)が、どんな舞台であれ、いずれ幕を下ろす時が来る。我々は今、セキュリティ劇場の千秋楽を目撃しているのかもしれない。
9月17日、イスラエル軍はレバノンで12人を殺害し、2,800人を負傷させた。ポケベルや無線機のバッテリーにPETN(強力な爆発物)を仕込んで爆発させたのだ。これは恐ろしい攻撃だった。我々はバッテリーを搭載する機器を大量に持ち歩いており、そのほとんどはネットワークに接続され、プログラム可能な電子機器であり、物理的な位置、特定の時間、遠隔信号など、様々なシグナルに基づいて起爆できるからだ。
さらに、PETNを仕込んだバッテリーは非常に簡単に製造でき、しかも検出は事実上不可能だ。この攻撃の数日後、伝説的なハードウェアハッカーのアンドリュー「バニー」・ファンが、開かれた地獄の門について解説している。
https://www.bunniestudios.com/blog/2024/turning-everyday-gadgets-into-bombs-is-a-bad-idea/
携帯電話、ノートパソコン、タブレット、モバイルバッテリーに入っているのは「リチウムパウチバッテリー」だ。世界中で製造されていて、大規模で高度な工場は必要ない。バッテリーの製造管理は事実上不可能だ。「研究開発規模」のバッテリーは約5万ドルで作れる。Alibabaでは、「パウチセル組立ライン」が約1万ドルで販売されている。もっとまともなベンダーでも、たった1万5千ドルで購入できる。
パウチセルは「ポリマーセパレータを挟んだカソードとアノードのホイル」を何重にも折り畳んで構成される。機械で折り畳んだ後、バッテリーはアルミホイルでできたパウチでラミネートされ、清掃、ラベル付けされて世界のサプライチェーンに送られる。
爆弾型バッテリーを作るには、PETNを「バインダーと混ぜてスクリーン印刷されたシート」を作り、バッテリーに挿入して折り畳む。その際、衝撃波を一点に集中させ、「デバイスの周りのケースを小型の破片手榴弾に変える」よう整形爆薬になるようにする。
その結果、バッテリーの容量は10%以下くらいは減少するが、通常のバッテリーでも見られる誤差の範囲内だ。バッテリー容量から検出されることが心配なら、バッテリー内部に爆発物シートを作った上で、シートを10枚追加してバッテリーの厚みを10%増やせばいい。これも通常の膨張の許容範囲内に収まる。
爆発物をラミネートし(注意深く清掃された)アルミパウチに封入すると、PETNの化学的特徴を検出する方法はない。パウチがすべてを密封してしまうからだ。PETNとバッテリーの他の成分は非常に似ているので、蛍光X線分析では検出できず、バッテリーの多層構造は空間オフセット型ラマン分光法による内部観察も難しい。
バニーによると、目視検査、表面分析、X線では爆弾型バッテリーを検出できないという。容量や電気化学インピーダンス分光法による測定でも見つけられない。高性能なCTスキャン(1回のスキャンに約30分かかる50万ドルのマシン)なら検出できるかもしれないし、超音波でも検出できるかもしれない。
リチウムバッテリーには「保護回路モジュール」――バッテリーの正常な動作を助けるチップを搭載した小さな回路基板――がある。PETNを仕込んだバッテリーを起爆するには、基板レベルでわずかな配線変更を行うだけでいい。バッテリーの標準的なNTC温度センサーという「第三の配線」を通じて電荷を送ることができる。
バニーは投稿でさらに詳しく説明している。率直に言って恐ろしい内容だ。これを読むと、あらゆるガジェットのあらゆるバッテリーが強力で検出不可能な爆弾になり得るという結論に到達してしまう。さらに、サプライチェーンのセキュリティは最悪で、バニーはターゲットのガジェットにこれらのバッテリーを仕込む方法をいくつか説明している。その方法は悪意に満ちたものから単純なものまでさまざまだ。「Amazonで大量に商品を購入し、バッテリーを交換して、パッケージとシールを元に戻してから倉庫に返品する」という方法もある。
バニーの指摘は、イスラエルがバッテリー爆弾の可能性を世界に示すことで、地獄の門を開いてしまったということだ。イスラエルはこれを最初にやった。そして、それが最後ではないだろう。「あらゆる紛争の前線があなたのポケット、財布、家庭に持ち込まれる」前に、何かを考え出す必要がある。
これは確かに恐ろしいことだが、ほぼ全ての航空旅客が持ち込む携帯端末と同種の小型電子機器を使用した、極めて成功を収めた、ほぼ防ぎようのない爆発物攻撃の後に、何が起こらなかったかに注目してほしい。9月17日以降、新しいセキュリティプロトコルは導入されていない。おそらく、誰も有効な対策を思いつけないからだ。
セキュリティ劇場が満員御礼で、靴を脱ぐのに2時間待ちの行列ができていたような時代には、そんなことは問題にならなかった。TSAのモットーである「困ったとき、迷ったときは、ぐるぐる走り回って、叫んで、わめく」が前面に出ていただろう。ペテン師が売り込む10億ドルの無意味なPETN検出ボックスに携帯電話を差し込むよう強制されたり、TSA職員に携帯電話の電源を入れてスネークゲームを11ラウンドクリアすることを命じられたり、毒が付着していないことを証明するために携帯電話を舐めるよう要求されていたかもしれない。
しかし今日、我々は冷静さを保ち続けている。何か恐ろしいものが存在するという事実は、確かに恐ろしいことではあるが、それに対する対策がわからないのなら、それが役に立つかどうかにかかわらず、やみくもに何かをするのは無意味だ。飛行機には携帯電話は持ち込めない、というふうにすることもできるが、そうなれば誰も飛行機に乗らなくなるだろう。安全のためなら「コストに上限はない」と本気で考えている人はいない。高すぎるコストは確かに存在するのだ。
先週、国際協同組合同盟の年次総会で基調講演を行うためにニューデリーにいた時、私はこのことについて考えていた。この総会は国連と共同で開催され、アントニオ・グテーレス国連事務総長の演説とともに、国連協同組合国際年の開始を告げるものだった。
ニューデリーに到着すると、ホストたちはやや動揺していた。インドのナレンドラ・モディ首相が開会の基調講演を行うと発表したばかりだったからだ。これは多くの日程変更や調整を必要とした――そしてさまざまなセキュリティ対策も必要になった。翌日の会議場には、バッジ、パスポート、ホテルの部屋の鍵以外は持ち込めないと言われた。ノートパソコン、携帯電話、予備のバッテリーは持ち込めない。ペンさえも持ち込めなかった(「刺殺を警戒している」ためらしい)。
モディ――極めて腐敗した権威主義的なジェノサイダー――には、自身のセキュリティを心配する理由がごまんとある。彼には時に爆殺を企む実在の敵がいる。もし彼らに殺されたとしても、暗殺で命を落としたインドの首相は彼が初めてではない。
しかし翌朝、ホテルのロビーに集まった講演者や代表団には、結局、携帯電話は持ち込んでよいと告げられた。当然だ。世界中から人々をインドに招いておいて、翻訳、地図、メモ帳、個人の日記、クレジットカードとして使用する端末の使用を禁止することなんてできやしない。そのコストは高すぎるのだ。
彼らはさまざまなセキュリティ対策を講じた。当然、全員が金属探知機を通過した。それから建物が封鎖されている間、1時間以上会場に閉じ込められた。部屋の周りには武装した男たちが配置され、部屋の外のバルコニーには狙撃手が取り巻くように配置されていた。
https://www.flickr.com/photos/doctorow/54165263130/
今まで見た中で最も屈強なボディーガードが常にモディの数歩先を歩いていたにもかかわらず、モディが部屋に入ってから出るまでの間、我々は席を立つことすら禁じられた。
https://www.flickr.com/photos/doctorow/54164805776/
それでも、個人用電子機器の小型バッテリーの兵器化という、極めて有効で、広く知れ渡ったデモンストレーションからまだ2ヶ月も経っていなかったのに、我々全員が携帯電話をホテルに置いていかなければならないということにはならなかった。
このような経験をすると、セキュリティ劇場の幕が下りて、その長期にわたる満員御礼の公演が終わりを迎えているのではないか、とも思えてしまう。暗い時代の中のわずかな光明だが、私はそう思うようにした。
Pluralistic: Battery rationality (06 Dec 2024) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: December 6, 2024
Translation: heatwave_p2p