以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Writing vs AI」という記事を翻訳したものである。
私は教育者一家の出身だ――両親は生涯教壇に立ち、今は教育学博士課程の志望者を指導し、兄弟は学校を経営している。そんな家庭で育った影響もあり、自分が優れた教師ではないという事実を痛いほど自覚している。
とはいえ、良い教師ではある。優れた教師と良い教師の違いは何か。良い教師は学ぼうとする生徒を教えられるが、優れた教師は生徒に学びたいと思わせることができる。長年、あちこちで教えてきたが、優れた教師とは言えないまでも、確実に成長していると感じている。
昨年、新たな教職に就いた。コーネル大学のAD・ホワイト客員教授として、6年間にわたり1〜2年おきにコーネル大学(およびニューヨーク市キャンパスのコーネル・テック)を訪れ、授業や講演、面談、各種活動を行う役職だ。
9月にイサカで初めての赴任期間を過ごした際、まさに「最高の体験」と呼ぶほかない一連の出来事があった。研究者、教師、学部生、大学院生、コミュニティのメンバーたちとの対話は、どれも忘れがたいものばかりだ。今日は、その中でも特に印象に残った会話について書きたい。
教員同士の会合の場でのこと。同席していた一人が、学生の学習態度を調査した研究プロジェクトに携わっていた。その研究が明らかにしたのは、学生たちは知識を愛し、批判的思考を愛しているがゆえにコーネルに学ぶために来ている、という事実だ。しかし同時に、学業上の失敗がもたらす経済的な打撃への不安に常に苛まれているという。留年や退学で数万ドル、場合によっては数十万ドルを無駄にし、借金を抱えたまま学位もなく就職市場に放り出される――そんな恐怖に駆られ、知的なリスクを取ることを避け、最悪の場合は不正に手を染めてしまう。学ぶことへの意欲はある。しかし、悪い成績への恐怖がそれに勝り、学習よりも成績追求が優先されてしまうのだ。
同じ場で、コーネルの「フレッシュマン・コンプ」の担当教員とも出会った。フレッシュマン・コンプとは、大学レベルのライティングの基礎を教えるための科目で、どの大学にも存在する。私自身、こうした授業にゲスト講師として参加したこともある。最初は2005〜2006年、フルブライト・チェアとしてUSCに在籍していた時のことだ。
優れた教師とは言えない私だが、ライティングを教えることに関しては、まあまあの腕前だと自負している。幸運にも、ジュディス・メリルに師事する機会を得た(9歳の頃から!)。彼女は、ピアによるライティング・ワークショップへの参加の仕方を私に教えてくれた。
https://pluralistic.net/2020/08/13/better-to-have-loved/#neofuturians
高校時代には、才能あるライティング教師ハリエット・ウルフに出会った。彼女のライティング・ワークショップ(実はジュディス・メリルが数十年前に創設したもの)は素晴らしく、私は4年制の高校に7年間在籍し、ひたすらハリエットのワークショップに通い続けた。
https://pluralistic.net/2025/08/30/merely-clever/#rip-harriet-wolff
1992年にクラリオンSF&ファンタジー・ワークショップ(ジュディス・メリルがワークショップの手法を習得した場所でもある)を修了した後、クラリオンおよびクラリオン・ウェストで何度か教壇に立った。Viable Paradiseをはじめとする他のワークショップでも同様だ(現在はクラリオンの理事会でボランティアを続けている)。教える側と教わる側の双方を経験してきた私には、それなりに学んできたことがある。
私が経験した成功したライティング・ワークショップには、共通する特徴がある。それは、ライティングを必ずしも「楽しい」ものにするわけではないが(時に苦痛を伴うことさえある)、深く充実した体験にしてくれるということだ。毎週同じ仲間と集まり、互いの作品の問題点を掘り下げ、改善策を模索し、自分の作品についても同様のフィードバックを受ける。そのプロセスを繰り返す中で、自分の作品との向き合い方が変わっていく。漠然とした大きなアイデアを、構造化されたナラティブや論証へと変換する方法を学ぶのはもちろんのこと、浮かび上がってきた構造そのものが、最初からそこにあったにもかかわらず見えていなかった何かを教えてくれるということにも気づくようになる。
それはまさに啓示の体験だ。自分が何を知っているかを教えてくれる。自分の知識を自覚させてくれる。そして、自分が思っていた以上のものを知らせてくれる。それは錬金術のようなもので、新たな知識を生み出し、思い込みを払拭してくれる。思考を研ぎ澄ませ、語りを磨き、そして当然、書く力を高める。
長年教えてきたフレッシュマン・コンプの学生たちは、こうした話を聞いて驚いた――正直に言えば、半信半疑の様子だった。彼らにとって、ライティングとは完全に無意味な行為だったからだ。いや、ほぼ無意味と言うべきか。ライティングには1つだけ意味があった。それは単位を取得し、次の科目へと進むことだ。
これは驚くべきことでもなく、書く才能を持って生まれた人間と生まれつきそうでない人間がいるなどということでもない(多くのライターを教えてきた経験から言えば、誰がライティングに意味を見出すかなど、最初から見極められるものではない)。問題は、このような形でライティングを教えるのが、学部の上級レベル――学部最終学年か、より現実的には大学院レベル(それもMFAプログラムに限る)――に至るまで行われないという点にある。
それ以前の段階、特に米国の高校におけるライティング指導は、標準化されたテスト評価を中心に組み立てられている。学生たちは、世界最悪の文学形式とも言える「5段落エッセイ」を量産するよう訓練されているのだ。
https://www.smbc-comics.com/index.php?id=3749
5段落エッセイはあまりにも硬直した形式で、少しでも表現を豊かにしようとすると、採点の段階で実際に減点される。構成から逸脱すれば、学業上のペナルティが待っている。ソネットに匹敵する構造的制約を持ちながら、詩的な美しさは廃車機並みだ。
5段落エッセイはひどすぎるため、フレッシュマン・コンプの教員の仕事の多くは、この形式をやめさせることに費やされる。それが終わったとしても、フレッシュマン・コンプのカリキュラムの多くは(多少の柔軟性はあるにせよ)依然として定型的だ。これは避けがたい問題でもある。フレッシュマン・コンプのクラスは通常大規模で、必修の新入生が多い。100人から2000人の学生を採点するとなれば、どうしても定型に頼らざるを得ない。
こうして、あのコーネルの教員の会合に話が戻ってくる。そこで我々が聞いたのは、学生は学びたいと思っているが失敗を恐れているという事実と、フレッシュマン・コンプの担当教員による報告――ほぼ全員の学生がチャットボットを使って課題のレポートを書かせているという現実だった。
9月以来、私はこの問題について考え続けている。もちろんあの学生たちはライティング課題で不正を働く――機械的な要件を文章で満たすことを求められ、文の構造、スペル、句読点を改善するように訓練されているのだから。彼らが学んでいないのは、ライティングを通じて自分の思考を整理し磨く方法であり、その思考をより上手く表現する能力だ。チャットボットのように書くことを求められているなら、チャットボットを使わない理由などどこにもないではないか。
学生たちに書くこと――単に文法的に正しい文を作ることではなく、本当の意味で書くこと――を教えるためには形式的で採点しやすい課題だけでは不十分だ。ライティング指導とは関係性に根ざした実践だ。学生同士が互いの作品や批評と深く関わり合わなければない。もちろん構造は必要だが、その構造は作品そのものにではなく、批評とその後の議論をどう進めるかに宿る。
こうした指導は大きな講義室ではなく、小さなセミナーで行うものだ。各学生が学期ごとに複数の作品を継続的に提出し、他の全学生がそれぞれの作品を精読し議論する必要がある。これは批判的思考そのものについて批判的に考えるよう学生を促す、濃密な体験だ。きめ細かな監督が求められる大変な作業であり、少人数のグループでしかうまくいかない。
何千人もの学生が受講するフレッシュマン・コンプをこの方法で運営するのは非現実的だ――そう思うかもしれない。すべての学校がイェール大学のようにはなれない。イェール大学のDaily Themesライティング・コースは、教員1人あたり学生2人という、高コストなプログラムだ。
https://admissions.yale.edu/bulldogs-blogs/logan/2020/03/01/daily-themes
しかし、この考えを私に促した2つの指摘を思い出してほしい。
1)ほとんどの学生は学びたいと思っているが、学業上の失敗が招く経済的破綻を恐れているために、非常に保守的な選択をする。
2)フレッシュマン・コンプの学生はほぼ全員、AIを使って課題で不正を働いている。
不正はできず、不正しようと思えないライティングプログラムに出会うまで、学生たちは何年もかけて、LLMを使わずにLLMのように書くよう訓練されてきた。不正が横行するのは当然ではないか! 学ぶより不正を選ぶ卒業生を育てたいなら、まさにこの方法を取ればいい。
フレッシュマン・コンプを文法・文章構造の講習として扱うことは、本質を見誤っている。学生のライティングは最初は粗削りで当然だ。支離滅裂で、誤りだらけだろう。学生の書いたものを読むのは、正直なところあまり楽しいとは言えない。しかし学生にとって、他の学生の文章を読み、何が問題でどう直せるかを考えることが、自分のライティングを向上させる最も確実な方法だ(ライティング・ワークショップの秘密を明かすと、他のライターによる自分の作品への分析よりも、他人の作品を批評する中で培われる批判的思考力の方が、自分の成長に役立つ)。
未熟なライティングの素晴らしい点は、改善しやすいことだ。経験豊富なライターの作品を磨くより、ずっと手がかりが多い。目立つ誤りを多く犯す初心者は、修正しやすい誤りを多く犯す初心者でもある。つまり、ワークショップの仲間たちは――自分たちもまだ始めたばかりであっても――そうした誤りを見つけられる。作品を批評される書き手にとっても、小さな修正で大きな改善を実感できる。こうして初心者は弾みをつけて成長でき、目に見える継続的な進歩から本物の達成感を得られる。
フレッシュマン・コンプを大学院セミナーのような小グループに置き換えるのはコストがかかり、想像しにくい話かもしれない。しかし、そうすることで、学生たちはAIにエッセイを書かせることを、誰かにおいしいピザを代わりに食べてもらうほど馬鹿げた行為だと感じるような世代に育っていくだろう。学生一人ひとりの人生を変えるような課題を出すこと、そしてそのようなエッセイを書く力を育てることを、我々は目指すべきだ。
フレッシュマン・コンプはかつて、信頼できる文章を作る人間を量産する機械だった――意味を作る人間を育てるアトリエではなかった。しかしAIがその構図を変えた。今日、学生がチャットボットにエッセイを書かせているのは、企業がチャットボットにカスタマーサービスを担わせているのと同じ理由――どうでもいいと思っているからだ。
https://pluralistic.net/2025/08/06/unmerchantable-substitute-goods/#customer-disservice
私の人生を変えたような小さなライティング・ワークショップが、すべての人に有効だとは言わない。しかし、採点に最適化された課題を大規模な講義室で教えるやり方が、誰の役にも立たないということは断言できる。
(Image: Cryteria, CC BY 3.0, modified)
Pluralistic: Writing vs AI (07 Jan 2026) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: January 7, 2026
Translation: heatwave_p2p