以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Market participation is exhausting」という記事を翻訳したものである。
ヒトという種は、認知の面で実に多様だ――思考の様式は人によって大きく異なり、得意なやり方も人それぞれである。私自身、多くのことはそつなくこなせるが、空間認識が壊滅的に苦手だ。縦列駐車もボールのキャッチもできないし、道に迷うことにかけてはほとんど笑い話のレベルである(家族のあいだではもはや定番のネタになっている)。
幸いなことに、妻は驚異的な空間認識力の持ち主だ。妻のアリスはバスケットボールコートの一方の端に座り、反対側のスコアボードを見て「右に1インチずれてる、時計回りに1度傾いてる」と言い当てる。そしてそれが正しい。射撃の腕も一流で、ゲームの実力も並外れている(彼女は英国Quakeチームの一員として国際大会に出場した、eスポーツ史上初の女性選手だ)。
一方、私には彼女が苦手とすることが得意な面がある。私は個人的な事務手続きや帳簿の管理をさほど苦にしないが、彼女にとってはそれが拷問に等しい。面白いことに、仕事関連の事務になると立場が逆転し、私が苦悶する一方で彼女は見事にこなす。私はオーディオブックを聴くのが好きだが、彼女はまったく集中できない。彼女はインストゥルメンタルの音楽を好むが、私はおおむね退屈に感じる。逆に私は素晴らしい歌詞の音楽を聴きながらのほうがずっと仕事がはかどる。
これは素晴らしいことだ。夫婦として、互いの弱点を補い、強みを引き立て合っている。もちろんこれは種としても同じで、我々は皆それぞれ異なることを異なるやり方で楽しんでおり、それは良いことだ。やるべきことは山ほどあり、しかもその中身は極めて多種多様だからだ。複雑でダイナミックな世界には、複雑でダイナミックな対応が求められる。
これはサイバネティクス――システム制御の学問――の基本原理でもある。「必要多様性の法則」はこう述べている。「効果的に適応するためには、システムの内部の複雑さは、それが直面する外部の複雑さに匹敵しなければならない」。
https://en.wikipedia.org/wiki/Variety_(cybernetics)
サイバネティクスの研究者やシステム設計者は、自分たちの仕事が一方では制御対象のシステムと同等に複雑なコントロール群を設計し、他方では制御可能にするためにそのシステムを単純化することだと理解している。データベース検索を過去1年のレコードの特定フィールドに限定すれば高速化できることや、Shiftキーを押しながら矩形選択ツールを使えば正方形が描けることを思い浮かべてほしい。
同じことは認知の領域でも起こる。出張の経費をまとめる程度なら誰でもできるが、経理担当者には全員分の経費を一日中処理できるだけの「数字に強い頭」が必要だ。だから我々は、一般人に求める経理作業の範囲を限定し、大変な部分は専門家に任せる。
フリーランスの私は、自分に欠けている認知的な強みを持つ人々を何人も雇っている。私の会計士は、単に税法に詳しいだけではない。私のすべての帳簿スプレッドシートの照合を、私よりもはるかに上手にこなし、しかも私が自分でやろうとすると味わう精神的苦痛なしにやってのける。
出版社との関係も同様で、コピーエディターや校正者を雇い、私の脳が見落とす誤字を見つけ出してくれる。そして校正済みの原稿が戻ってくると、私は母に目を通してもらうこともある。母はプロが見落とした誤字を見つけてくれるからだ。
私と出版社の間には、複数のエージェントが入っている(英語圏の版権担当、海外版権担当、メディア担当、講演担当とそれぞれ別々だ)。彼らを好きな理由の1つは、彼らが優秀であるほど私の住宅ローンの支払いが楽になるからだが、とりわけ好きなのは、私が大嫌いなことを彼らが心から楽しんでやっているからだ。すなわち(1)報酬を要求すること、(2)価格を交渉することである。
私にとって、価格交渉は(うまくいっても)気まずいし、最悪の場合は屈辱的だ。いつだって疲弊する。ところが、エージェントたちにとってはむしろ活力の源だ。交渉成立後にビデオ通話でつないでみると、彼らは生き生きと輝いている。認知的多様性、情動的多様性、神経多様性――なんと呼んでもいい。エージェントと私にはそれがあり、それが双方にとって良い結果をもたらしている。
そして、こうした世界一流の交渉人たちの素晴らしい点がある。彼らはスイッチを切れるのだ。競争心は強烈で、タフな交渉を好むが、これが繰り返しのゲーム[iterated game]であることを理解していて、出版社の担当者を叩きのめせば私の信用が傷つくとわかっている。
さらに言えば、交渉が終わって日常的な会話をしたり、一緒に食事をする段になれば、彼らは戦闘モードではない。ただの普通の人で、いちいち細部を争ったりしない。交渉は彼らがやることであって、彼らの存在そのものではないのだ。
それは彼らを人間として付き合いやすくしているだけでなく、仕事の質も高めている。ある旧友と一度、クリエイティブな仕事をしたことがあり、彼にそのプロジェクトの報酬を支払う必要があった。彼はマネージャー経由で支払ってほしいと言い、そのマネージャーは私を普通の制作会社が彼を雇ったケースだと思い込み、全力で交渉を仕掛けてきた。Creative Commonsでのリリースが不可能になるような書類を要求し、さらに他の条件(通常は妥当だが、このケースでは不適切な条件)を突きつけてきた。私が友人にメールすると、彼はマネージャーに「友好的に交渉」するよう伝えてくれた。するとジキルとハイドが入れ替わり、10分ほどで話がまとまった。
こうした交渉好きの人たちは、現代社会でとても重宝される。我々の社会は効率的市場という理念のもとに組織されており、そこでは誰もが「効用を最大化」するために常に最後の一息まで交渉していることになっている。
このイデオロギーは単なる観察(「社会は市場である」)ではない。要求(「社会は市場であるべきだ」)でもある。攻撃的な値切り交渉に活力を得る人々が文明の運営を掌握し、IRSへの電話の保留待ちから駐車場探しまで、あらゆるものを市場に変えようと躍起になっている。
https://pluralistic.net/2021/10/07/markets-in-everything/#no-th-enq
このゲームを仕切っている連中は、交渉に活力を得すぎて交渉せずにいられない。あらゆるものに値段をつけることを美徳に仕立て上げる。自分の腎臓を売れるようにすらしたがる。いや、もっと重要なのは、あなたの腎臓を買いたがっているということだ。
サラ・ウィン=ウィリアムズの著書『Careless People』に、印象的なエピソードがある。シェリル・サンドバーグが、もし自分の子供が病気になってもメキシコで腎臓を買うことはできないと聞かされ、心底驚愕する場面だ。子供は病気ですらない。彼女はただ、この仮定の状況が交渉によって解決できないという事実に憤慨するのだ。
https://pluralistic.net/2025/04/23/zuckerstreisand/#zdgaf (邦訳)
こういった人々にとって、不正行為とは別の手段による交渉に過ぎない。彼らは「顕示選好[revealed preferences]」のような奇妙な概念を信奉する。取引に不満だと口では言いながら結局は受け入れたなら、その取引への「顕示選好」があるのだ、と考える。言い換えれば、家賃を払うためにシェリル・サンドバーグに腎臓を売った人間には、腎臓が1つしかないことへの「顕示選好」があるし、大切な人とつながり続けるためにプライバシーをシェリル・サンドバーグに売り渡した人間には、Facebookにデータを吸い上げられ搾取されることへの「顕示選好」がある、というわけだ。
https://pluralistic.net/2024/01/24/everything-not-mandatory/#is-prohibited
トランプはこの思想の極致だ。「ディールの極意1訳注:原文の”art of the deal”はトランプの自伝のタイトル。邦題は『トランプ自伝―不動産王にビジネスを学ぶ』」の本質とは、ただの不正にすぎない。だから彼は労働者を踏み倒し、下請けを踏み倒し、支援者を踏み倒し、支持基盤を踏み倒した。不正を働いてそれが通るなら、それはもはや不正ですらない。「それが賢いやり方というものだ」と彼は言う。
https://pluralistic.net/2024/12/04/its-not-a-lie/#its-a-premature-truth (邦訳)
「買い手が気をつけろ(caveat emptor)」はガレージセールや遺品オークションなら筋が通る――だが、政府を運営したり日常生活を送る方法としては論外だ。疲弊するだけなのだから。
https://pluralistic.net/2025/04/29/cheaters-and-liars/#caveat-emptor-brainworms
「買い手が気をつけろ」を世界の運営原則にすることは、単に労働者から富裕層への移転ではない。交渉に疲弊する人々から、交渉に活力を得る人々への移転なのだ。人間の思考様式の多様な差異のうち、たった1つだけを取り出して、それを成功の唯一最大の基準、人生の機会を決定づける最大の要因に仕立て上げるやり方だ。活力ある者が疲弊した者を完全に支配するための仕組みだ。「自分で自分を殴ってるんだろ」2訳注:いじめっ子がいじめられっ子の手を掴み、無理やり自分自身の手で自分の顔を殴らされているときにいじめっ子が言うセリフ。といういじめっ子の論理を政治イデオロギーにまで昇華させた代物といえる。
この問題の処方箋として、ダン・デイヴィスは「Club Med理論」を提唱している。彼によれば、オールインクルーシブのリゾートはたいていの場合、現地の文化や人々と接することなく過ごせる休暇の手段として軽蔑されがちだが、こうしたリゾートが持つ(そして今も失っていない)本来の価値は、市場に参加することなく休暇を過ごせるという点にある。
https://backofmind.substack.com/p/the-club-med-theory
Club Medを創設したのは、オリンピック選手のジェラール・ブリッツだ。彼の洞察は「人々が休暇に求めるのは贅沢や物質的な快適さではなく、幸福である」というものだった。ブリッツにとって、オールインクルーシブ・リゾートの価値はフリードリンクやビュッフェにあるのではなく、「日常の経済活動への参加からの解放」にあった。
デイヴィスが指摘するように、オールインクルーシブ・リゾートでは(少なくとも宿泊客のあいだの)階級差は消滅する。リゾートで最も裕福な人間は、最も懐の寂しい人間と同じ食事をとり、同じ飲み物を飲み、同じツアーに参加し、同じアクティビティを楽しむ(たしかに今日のオールインクルーシブ・リゾートではこれはあまり当てはまらなくなっている。「追加料金」が蔓延し、交渉から活力を得る人々が交渉で疲弊する人々にますます勝利を収めていることの表れだ)。
デイヴィスにとって、オールインクルーシブ・リゾートの美点は、市場経済の「認知的負荷」を取り除いてくれるところにある。それは本質的にストレスフルなものだ。「すべての取引は意思決定であり、意思決定にはエネルギーがかかる」。
「経済学の学位を持つ人にはこれを理解しにくい」とデイヴィスは言う。リゾートのレストランは客の取り合いをしていないのに、なぜ料理の質を向上させるのか? ウェイターはチップを競っていないのに、なぜ客を喜ばせようと張り切るのか?
しかし実際にはそうはならない。リゾートの宿泊客はプールサイドバーのバーテンダーを気に入り、ビーチでネックレスやサングラスやマッサージを売りつけてくる売り子たちには怒りに近い苛立ちを覚える。一方、売り子たちは「人に金を払わせてモノやサービスと交換させる能力で生死が決まる」。彼ら自身も疲弊しているし、彼らに声をかけられるのも疲弊する。
デイヴィスによれば、人に金を使わせる最良の戦略は、必ずしも良いサービスを提供することではない。彼が証券マン時代に学んだように、「追い払えるなら金を支払ってもいいと思わせるまでしつこく付きまとう」という手もある。規制のない市場では、1日に1回サングラスを勧めに来る売り子が1人いるだけでは済まない。その市場の均衡状態とは、うたた寝や読書を5分おきに中断させられ、家賃を稼ごうと必死な誰かに声をかけられることだ。経済は、休暇の満足度が急落するという「外部不経済」を「価格に織り込む」ことをしない。
これに気づいたのはデイヴィスが初めてではない。彼自身が指摘するように、1963年にガルブレイスはこう書いている。
完全な身体的・精神的な無為は極めて心地よいものであり、我々が自分に想像を許すよりもはるかに心地よい。ビーチはそうした無為を許すだけでなく強制するものであり、それによって罪悪感の問題がすべてきれいに解消される。
デイヴィスのこの短い記事を先週読んで以来、ずっと頭に残っていた。考えれば考えるほど気に入ったが、同時に何かが欠けているとも思った。それは、交渉のない生活を嫌う人々がいるということだ。こうした人々は交渉に活力を得て、「完全な身体的・精神的な無為」に疲弊する。常にハッスルしていなければならないのだ。
オールインクルーシブリゾートを鼻で笑うのは、単に異国の文化や人々に触れる「本物の体験」を求める人々だけではなく、一日中ハッスルし、ハッスルされる時間を過ごしたい人々もいる。そのエネルギーを必要とする人々だ。
この世界には、そうした人たちの居場所もちゃんとある。タイムシェアを売りつけられたり、マルチ商法に巻き込まれるのはごめんだが、労働組合の交渉を彼らに任せられるなら大歓迎だ。
https://pluralistic.net/2025/02/05/power-of-positive-thinking/#the-socialism-of-fools
ただし、そうであっても、私のエージェントのように、絶え間ない交渉から一歩引いて、容赦のない利益追求を止められる人であってほしい。サンドバーグ的な腎臓買い取り志願者であってほしくはない。顕示選好だの、買い手が気をつけろだの、「それが賢いやり方というものだ」だのといった自己正当化の物語に満ちた人間にはなってほしくない。
何事もそうだが、毒かどうかは量で決まる。私の周りにも楽しいハッスラーはたくさんいて、命やパスワードを預けられるほど信頼できる人もいる。リバタリアンにもこのタイプは多い。真の自発主義と内発的な寛大さに献身している人たちだ。
しかしリバタリアニズムも、あらゆる運動と同様に連合体だ。その内部には、交渉によって活力を得て、他者を疲弊させることで支配しようとする者たちの集団もある。彼らにとって交渉は認知的負荷ではなく、認知的活力源だ。自分たちがそうであることを自覚している限りにおいて、それは自分たちが支配するべく生まれた証拠だと考えている。顕示選好。買い手が気をつけろ。それが賢いやり方というものだ。
さらに、この取引で負ける側にとって、交渉に負ければさらに貧しくなり、さらに貧しくなればさらなる認知的負荷に晒される。なけなしの金を工面し、給料日と支払い期限の間のありえないほど狭い隙間をくぐり抜けなければならない。これが勝者総取りのダイナミクスを生む。交渉ゲームの敗者は、次のラウンドに臨む体力も余裕もますます失っていく。
この構造を見事に描き出した作品が(またしても)SF小説だ。ナオミ・クリッツァーのヤングアダルト小説『Liberty’s Daughter』は、リバタリアン・カルトのリーダーを父に持つ10代の少女が、海上自治都市(シーステッド)で成長する物語だ。
https://pluralistic.net/2023/11/21/podkaynes-dad-was-a-dick/#age-of-consent
クリッツァーの小説は、「自分で自分を殴ってるんだろ」式の正当化がどのようにして他者の奴隷化を容認するに至るかを鮮やかに描き出す――真に自発主義的な社会であるなら、自分を奴隷として売る自由がなぜないのか? 後になってその取り決めがおかしいと気づいたところで、知ったことか、おまえには奴隷であることへの「顕示選好」を示したんだ。
買い手が気をつけろ。交渉に活力を得る人間なら、おまえは支配するべく生まれたのだ。
不正が交渉の一形態であるなら、「それが賢いやり方というものだ」。
Pluralistic: Market participation is exhausting (30 Mar 2026) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: March 30, 2026
Translation: heatwave_p2p
- 1訳注:原文の”art of the deal”はトランプの自伝のタイトル。邦題は『トランプ自伝―不動産王にビジネスを学ぶ』
- 2訳注:いじめっ子がいじめられっ子の手を掴み、無理やり自分自身の手で自分の顔を殴らされているときにいじめっ子が言うセリフ。