以下の文章は、電子フロンティア財団の「You Really Do Have Some Expectation of Privacy in Public」という記事を翻訳したものである。
プライバシーを擁護する活動、たとえば車の移動を追跡できるナンバープレート自動読取装置の拡大や、公共・民間問わず増え続ける監視カメラと闘っていると、しばしば否定論者やニヒリストから「公共空間ではプライバシーなんてあるはずがない」という言葉を投げかけられる。しかし、これは事実ではない。米国では、公共の場であってもある程度のプライバシーの期待権は存在する。この権利を守るために、我々は立ち上がらなければならない。
公共の場でプライバシーの期待権を持つことがどうして可能なのか。その答えは、ますます高度化する監視技術の台頭にある。確かに、外出すれば人目に触れるのは避けられない。道を歩いていれば向かいの人に見られるかもしれないし、警察に物理的に尾行されれば行動を把握されるだろう。銀行や裁判所に入れば、防犯カメラに映るのは当然だ。
しかし、絶え間なく拡大し、高度化する監視ネットワークは、この「見られる」という概念を根本から変えてしまった。今や、あなたの位置は長期間にわたって容易に追跡され、極めて個人的な情報まで収集されている。そして、そのデータは何か月も、何年も、場合によっては永久に保存され続けるのだ。明確な目的もなく、やみくもに収集されることだってある。こうしたデータを総合すれば、あなたの日常生活を細部に至るまで描き出すことができる。そして、政府はかつてないほど容易にこの情報にアクセスできるのだ。
このため、私たちは数十年前に比べ、公共の場ではるかに多くの個人情報を露呈してしまうリスクにさらされている。これは、公共の場でのプライバシーに対する考え方を変える必要があることを意味している。確かに、自宅とは違い、公共の場では完全なプライバシーは期待できない。しかし、公共の場に一歩踏み出した途端、すべてのプライバシーが失われるわけではない。実際、米国最高裁は1960年代から、「たとえ公衆の目に触れる場であっても、個人が私的なものとして守ろうとするものは、憲法で保護される可能性がある」と繰り返し強調してきた。修正第4条は「場所ではなく、人を守る」だ。米国のプライバシー法は、むしろ社会が「合理的だ」と考えるプライバシーの期待を保護しようとしてきたのだ。
ここで問題になるのが、大規模監視だ。公共の場で完全に匿名でいられると期待するのは非現実的だ。しかし、どこで何をしていたか、誰と会っていたか、どんな場所に行ったかといった情報が、一日中すべて記録され、保存され、そしてその情報が政府とも共有されるとは誰も思っていない。言い換えれば、私たちには「監視技術によって集められた、極めてセンシティブな個人情報の少なくとも一部は守られるべきだ」という合理的な期待がある。裁判所や立法府は、この保護の具体的な範囲をまだ詰めている最中だ。
2018年、米国最高裁は画期的な判決を下した。カーペンター対米国事件だ。この判決で最高裁は、公共の場での移動を含め、個人の行動全体に合理的なプライバシーの期待権があると認めた。具体的には、被告人の127日分の携帯電話の基地局位置情報(CSLI)にプライバシーの期待権があると判断した。CSLIは、携帯電話の基地局位置情報を利用して、長期間にわたる個人の動きを克明に記録する。この情報へのアクセスは、個人の私的領域の侵害であり、修正第4条は通常、政府がこの情報を取得する際に令状を要求する。
重要なのは、これらの記録が公共の場で収集された場合でも、このプライバシーの期待権は維持されるということだ。カーペンター事件で最高裁は「修正第4条が採択された当時に存在した、政府に対するプライバシーの程度」を維持することを目指した。歴史的に見て、政府が密かに市民の一挙手一投足を記録し、監視することなど想定されていなかった。たとえ公共の場での行動であってもだ。政府によるCSLIへのアクセスは、この歴史的な期待に反する。最高裁は、こうした記録が単なる移動履歴だけでなく、「家族、政治、職業、宗教、性的指向」までも明らかにしてしまうと強調した。
ジョン・ロバーツ主席判事は多数意見でこう述べている。
「携帯電話の位置情報記録の独特な性質を考えると、その情報が第三者によって保持されているという事実だけでは、ユーザの修正第4条による保護の主張を覆すことはできない。政府が独自の監視技術を採用するか…あるいは無線通信事業者の技術を利用するかにかかわらず、我々は、個人が(携帯電話の基地局データを通じて捕捉された)自身の物理的な動きの記録に対して、正当なプライバシーの期待権を維持していると判断する。カーペンターの無線通信事業者から入手した位置情報は、捜索の産物である…
GPS情報と同様に、タイムスタンプ付きの位置データは、個人の特定の移動だけでなく、それを通じてその人の「家族、政治、職業、宗教、性的指向」を明らかにする、親密な窓を提供する。これらの位置情報記録は「多くのアメリカ人にとって『人生のプライバシー』を保持している」…携帯電話は忠実に所有者に従い、公道を超えて私邸、医師のオフィス、政治団体の事務所、その他の潜在的に何かを明かしてしまう場所へと向かう。したがって、政府が携帯電話の位置を追跡すれば、まるで足首に監視装置を装着させたかのように、ほぼ完璧な監視が実現されるのである。」
最高裁の画期的判決の後にはよくあることだが、公共の場でのプライバシー侵害に該当するデータや技術の範囲をどう定めるべきかをめぐって、下級審で混乱が生じている。確かに、未解決の問題は多い。どの程度包括的な監視なら問題になるのか。どれくらいの期間の追跡なら許されないのか。過去の行動の追跡だけが問題なのか。こうした疑問は残るものの、大原則は揺るがない。公共の場でもある程度のプライバシーの期待権は存在する、ということだ。
捜査機関や政府が長期間にわたってあなたの行動を知りたいと思った場合、その情報は非常にセンシティブなものとみなされ、令状なしには取得できない。我々は、この原則がナンバープレート自動読取カメラネットワークなど、時系列で移動を記録する他の監視技術にも適用されるべきだと考える。監視技術の統合が進み、一般化する状況にあっては、裁判所がこのプライバシーの期待権を保護するために既存の法的判断を拡大してくことを期待している。
このプライバシーの期待権を簡単に手放してはならない。たとえ公道や歩道を移動しているだけでも、長期間の行動追跡は重大なプライバシー侵害だ。これは多くの人が想像する以上に深刻な問題だ。例えば、ある人物の家から抗議集会の会場まで車で行き、その後再び自宅に戻ったとしよう。警察はこの詳細な移動記録から何を推測できるだろうか。あるいは、ある人が不妊治療クリニックに行った後、自宅から遠く離れた薬局で薬を買ったとしたら、どんな推測ができるだろうか。これらは確かに公共の場での行動だが、時間という要素を考慮に入れる必要がある。行動を一日中追跡することと、一瞬カメラに映るのとでは、まったく意味が違うのだ。
裁判所は依然として法律と技術の進歩に追いつこうとしている最中だ。しかし、だからといって公共の場が監視の野放し状態だというわけではない。たとえ街中の防犯カメラに映ったとしても、政府には私たちの行動を追跡する際の重要な制限がある。だからこそ、私たちはこの活動を続けている。否定的な声はあれども、誰かがプライバシーは生きていると世界に訴え続け、その防波堤を守り続けなければならない。
You Really Do Have Some Expectation of Privacy in Public | Electronic Frontier Foundation
Author: Matthew Guariglia and Lisa Femia / EFF (CC BY 3.0 US)
Publication Date: September 6, 2024
Translation: heatwave_p2p