以下の文章は、2025年8月18日付けのコリイ・ドクトロウの「Zuckermuskian solipsism」という記事を翻訳したものである。
イーロン・マスクは、自分と意見が合わない相手を「NPC」(ノンプレイヤーキャラクター)と呼ぶ。ビデオゲームにおけるNPCは、機械によって操られるスプライトであり、予測可能な動きをし(パックマンのゴーストのように)、台本通りの(あるいはAIが生成した)セリフを口にする。
https://futurism.com/elon-musk-interviewer-npc
人間をオートマトン(自動機械)のように見なすのは、巨大オンラインサービスの司令塔に座り続けた結果かもしれない。そこでは、ユーザとのやり取りのほとんどが、分析ダッシュボード上の統計的な集合体として扱われる。「購入」ボタンを数ピクセルずらして売上の増減を眺めるとき、人間を個人の集まりとしてではなく塊として見る。ダッシュボードが教えてくれるのは、UIの変更に対して「売上」がどう反応したかであり、その変更によって人々がどう影響を受けたかではない。
ダッシュボードを見ているだけでは、その変更のせいで購入ボタンが見つけられず、必要なものを手に入れられなかった人がいたかどうかはわからない。後悔するような買い物をしてしまった人がいたかどうかも、やはりわからない。
アナリティクスを使えば、SimCityのプレイヤーのように人々と関わることができる。ゾーニングを変更し、人口規模の結果を観察する。住宅街に道路を通すと、交通量の数値は改善するが、そのブロックの住民の幸福度は低下していく。
だが、マスクのような人間が他者をNPCと見なしがちになる理由は、もう1つある。億万長者になるためには、大勢の人々を傷つけ、搾取しなければならないからだ。偽りの「完全自動運転」で投資家を欺く覚悟が必要だし、労働者を負傷させることも厭わず、発射台の近くにいる人々に宇宙ゴミを降り注がせることも辞さない。もしそうした人々を本当にリアルな存在として――自分と同じようにストレスや悲しみ、恐怖や不安を感じうる存在として――捉えていたなら、そんな悪行を続けられるはずがない。人々をNPC、つまり自分だけが浸っている豊かな内面世界を持たない存在として見なさなければならないのである。
ウィリアム・ギブスンは『あいどる』の中で、テレビの重役が視聴者を描写する場面を通じて、この心理を見事に表現している。
個人的には、カバの赤ん坊くらいの大きさで、1週間茹でたジャガイモのような色をした、トピーカ郊外のダブルワイド・トレーラーに独りで暗闇の中に住んでいる何かを想像するのが好きなんだ。全身を眼で覆われていて、絶えず汗をかいている。その汗が眼に入ってしみる。口もなければ、性器もない。殺意に満ちた怒りと幼児的な欲望という言葉なき両極端を表現する手段は、ユニバーサルリモコンでチャンネルを変えることだけ。あるいは、大統領選挙で投票すること。
(マスクがNPCたちを自分の好む候補者に投票させようと、選挙に何百万ドルも注ぎ込んでいるのは偶然ではない。その候補者が有権者の暮らしを良くするかどうかなど、お構いなしに。)
マスクは、Twitterで自身のプライベートジェットの動向を報告するアカウント(つまり公開情報を再掲載していたアカウント)をBANした。理由は、安全でないと感じたからだという。一方でマスクは、Twitterのブロックボタンの仕様を変更し、集団ストーカー、荒らし、ハラスメント加害者、トロルが被害者を攻撃しやすくした。こうした被害者の多くは、女性、クィア、有色人種といったマイノリティだ。
https://www.msnbc.com/opinion/msnbc-opinion/elon-musk-block-x-blue-sky-rcna176130
マスク自身の恐怖は生々しくリアルなものだが、何百万人ものTwitterユーザの恐怖は、台本通りのNPCの振る舞いにすぎない。ある重要な意味において、そうした人々はマスクにとって実在しないのである。マスク自身がローガンの番組で語ったように。
西洋文明の根本的な弱点は、共感だ。
流石といったところで、まさにこの感覚はケタミンの「Kホール」に入った時とも似ている。ケタミンの鎮静下では、世界全体が、それまでの人生そのものが、夢や幻覚のように感じやすい。宇宙全体が自分の想像の産物で、自分こそがその神であり創造主なのだ、と。Kホールの中では、他人はリアルではない。
ところで、他者を非現実的な存在として、目的そのものではなく手段として扱う人間を断罪する道徳的伝統は、長い歴史を持つ。カントにとって、これはあまりにも忌むべき行為であり、「定言命法」に違反するものだとされた。
https://plato.stanford.edu/entries/persons-means
テリー・プラチェットのグラニー・ウェザーワックスの言葉を借りれば、こうなる。
罪とは、人を物のように扱うことだ。自分自身も含めてね。それが罪というものさ。
https://brer-powerofbabel.blogspot.com/2009/02/granny-weatherwax-on-sin-favorite.html
しかし、億万長者の目線で世界を見ると、他人はまさにそのように映る――モノとして。これこそが、目下の者にセックスの対価としてサラブレッドの馬を提案するに至る思考回路だ。
億万長者の目線で世界を見ると、人々は内面も意志も持たない集合的な塊として捉えられる。そこから生まれたのが「ハイ・エージェンシー」という概念だ。極端な富と権力を目指す者たちが、自らを形容するために使う言葉である。エリートが「ハイ・エージェンシー」であるならば、大衆は当然ロー・エージェンシーということになる。彼らには欲望も本当の感情もほとんどないのだ、と。
こうした人間観を持っているのは、マスクだけではない。マーク・ザッカーバーグは、生涯を通じて人間をモノとして扱ってきた。ハーバードの寮でFacebookを立ち上げた時がその始まりだ。同じ学部生たちの「ヤレる度」を、本人の同意なく格付けするためだった。サラ・ウィン=ウィリアムズがFacebook幹部時代を内部告発した回顧録『Careless People』には、他者はリアルな存在として重要ではないと考えるザッカーバーグの姿が描かれている。
https://pluralistic.net/2025/04/23/zuckerstreisand/#zdgaf
ザッカーバーグがチャットボットは友人の代わりになると考えるのも無理はない。
https://fortune.com/2025/06/26/mark-zuckerberg-ai-friends-hinge-ceo
根本的なレベルで、彼は我々全員をチャットボットだと考えている。操作可能な入力によって駆動され、決定論的な結果を生み出すオートマトンにすぎないのだ。この男は、使い古されたスキナー流の行動変容テクニックを用いてマインドコントロール光線を発明したと主張している人物である。
https://pluralistic.net/2025/05/07/rah-rah-rasputin/#credulous-dolts
億万長者の目線で世界を見て、我々の友人をチャットボットに置き換えたいと考えるもう1人の人物、サム・アルトマンは、人類は「確率的オウム」にすぎない――つまり真に理解も思考もしない統計的自動補完プログラムにすぎないと主張している。
https://x.com/sama/status/1599471830255177728?lang=en
億万長者は独我論者でなければならない。少なくとも選択的な独我論者であり、自分に富をもたらし、自らの権力を行使する対象である人々の人間性を本気では信じていない。このことはこれまでも明白だったが、我々の人間関係をチャットボットに置き換えられるという発想は、あらゆる疑いの余地を消し去っている。
億万長者は、我々をリアルな存在だとは思っていない。
Pluralistic: Zuckermuskian solipsism (18 Aug 2025) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: August 18, 2025
Translation: heatwave_p2p