以下の文章は、NiemanLabの「That time Rupert Murdoch endorsed Jimmy Carter (no, really)」という記事を翻訳したものである。
それは、多くの米国人が初めて、ルパート・マードックが自身の利益のためにニュースメディアを利用する様子を目にした出来事だった――そしてメディア王の外部との金銭的なつながりが、いかに報道の質を損なうかを示す教訓となった。
どうも何かの間違いで、とんでもない誤植をしてしまったのかと思われるかもしれない。「発行人兼編集長 ルパート・マードック」を掲げる ニューヨーク・ポストが、ジミー・カーターを支持するなんて。
しかし、これはまぎれもない事実だ。1980年、(おそらく米国最右派の新聞である)ポスト紙と(間違いなく世界で最も影響力のある右派メディア王である)ルパート・マードックは、今日議事堂に安置された民主党の象徴を支持するため、社説を武器化した。対立候補をこき下ろし、カーターの「最も詳細な情報を理解し記憶する能力」と「その役割にふさわしい人格と体力」を称賛した。
唯一の疑問は――マードックは心からカーターを支持していたのだろうか、ということだ。あるいは、 それとも連邦政府からジャンボジェット購入のための低金利融資を確保し、数百万ドルを節約するためにカーターを支持したのだろうか。
今日ではほとんど忘れられているが、当時は大きな波紋を広げ、上院は数か月にわたる調査を実施し、2日間の公聴会を開いた。ある下院議員はこの一件を「ニクソン的」と評した――ウォーターゲート事件からわずか6年後としては痛烈な非難だった。この出来事は、ルパート・マードックが米国の政治に影響を与える上で成長著しいメディア帝国を利用し始める転換点となった。そして多くの米国人が初めて、彼が自己利益のためにメディアプラットフォームを利用する手口を目の当たりにしたのだ。第2期トランプ政権を目前に控え――国内のメディアやテック企業の大物たちがトランプへの忠誠を競い合う中――この出来事を振り返る価値があるだろう。
ルパート・マードックとジミー・カーターは、ほぼ同時期に米国で権力を握ったと言える。
1976年11月2日、カーターは現職のジェラルド・フォードを破って米国大統領に当選した。2週間後、ニューヨーク・ポストのオーナーだったドロシー・シフは同紙を強引なオーストラリアの出版社に売却すると発表した。その時点でのマードックの米国における最大のメディア資産は、サンアントニオの朝刊・夕刊紙と、後にスター紙となるスーパーマーケットの大衆タブロイド紙だけだった。
1977年1月20日、カーターはワシントンに新風を吹き込むことを約束した若き部外者として、第39代米国大統領に就任した。その頃までにマードックはポスト紙を手に入れ、ニューヨーク・マガジンとヴィレッジ・ヴォイスも買収していた。45歳のオーストラリア人は、米国の大都市で主要なプレーヤーとなっていた。カーターが宣誓を行う3日前のタイム誌の表紙を飾ったのは誰だったか?プレーンズの男ではなく、メルボルンの男だった。
マードックはすでに、セックス、犯罪、スキャンダルに特化した低俗なタブロイド紙を好み、ニュース業界ではよく知られていた。「マディソン・アベニューやジャーナリズム教授の出版判断には興味がない」とマードックは言い、「富裕層や知識人」向けの米国の日刊紙をこき下ろした。ニューヨーク・タイムズによれば、彼の新聞が性犯罪を大々的に掲載していたことから、サンアントニオの住民たちは「The Rape Register(レイプ登録簿)」と呼んでいたという1タイムズ誌はこれを「レイプと殺戮、拷問を受けた幼児とキラービーの日々の食事」と表現している。ある記事の書き出しはこうだ。「警察に、生コンクリートで満たされた浴槽に生き埋めにされ、その後裸で逆さ吊りにされたと語った離婚歴のあるてんかん患者の女性が、今週末サンアントニオを永遠に去った。糖尿病を患うこの小柄な半盲の女性は、レイプ、拷問、飢餓に満ちた奇怪な恐怖の物語をニューズに語った」。。英国における彼の最大の新聞、サンは、ページ・スリーに毎日掲載される若い女性たちのトップレス写真で最もよく知られていた。
しかし、米国最古の日刊紙であるポスト紙の路線は維持するという点では、誰もが正しい言葉を口にした。去り行くオーナーのシフは、マードックを「独立した進歩的なジャーナリズムの精神に強くコミットした人物」で、「私が深く大切にしている伝統を精力的に継承していく」人物だと評した。マードックは「現在の方針と伝統を維持する」と誓約した。「ポスト紙次期オーナー、新聞の基本路線変更の意向なし」とタイムズ紙の見出しは伝えた。「フォーマットは同じまま、政治的な方針も変更しない」と彼は語った。マードックが計画していた最大の変更は「写真を増やし、記事を短くする」ことだけだった。
彼がポスト紙の政治的影響力を行使したのは1977年のニューヨーク市長選が初めてで、より保守的な候補者であるエド・コッチの当選を強く後押しした。一面での支持表明に加え、ポスト紙はコッチ支持の報道を洪水のように展開した。「マードックは新聞王の時代以来見られなかったようなことをやった」とクライド・ハーバーマンは回想している。ハーバーマンはポスト紙記者を経て、その後数十年にわたりタイムズ紙で働いた。「彼は『この男を視聴にしてやる』と決めたのだ」。
編集部のスタッフたちは激怒し、明らかな偏向に異議を唱える嘆願書を回覧した。同紙の主要な政治記者の一人はこう表現している。「私の原稿は手を加えられなかったが、事実上のコッチ・プロパガンダに囲まれていた」。あるコラムニストはこれを「シド・ヴィシャスがフィルハーモニーを乗っ取るようなもの」と表現した。しかし、それは功を奏した。コッチは予備選と本選でマリオ・クオモを破り、市長となったのである。
ニューヨーク市では民主党員が共和党員の約5倍も多かったこと、またマードックが発行部数の拡大を目指していたことから、ポスト紙は前のオーナー時代と同様、地方選挙では概ね民主党候補を支持し続けた――1978年には共和党候補に対して民主党現職のヒュー・ケアリー知事を選んでいる。
しかし1980年の大統領選はマードックに鞍替えの機会もたらした――まず民主党予備選において、カーターは上院議員テッド・ケネディからの異例ともいえる強力な挑戦に直面し、3月25日のニューヨーク予備選の重要性は高まっていた。そしてマードックは、新聞以外で問題を抱えていた。
前年、彼はオーストラリアの2大航空会社の一つであるアンセット航空の支配権を獲得していた。新しい航空機を必要としていたアンセット航空は、2億9000万ドルで18機のボーイング機を購入しようとしたが、そのためには融資が必要だった。融資が得られなければ、すでに資金調達を提案していた欧州の航空機メーカー、エアバスから購入しなければならない。当時の天井知らずの金利――なんと約19%!――では、融資を受けるだけでとんでもないリスクを抱えることになる。
そこでアンセット航空は輸出入銀行に頼った。この政府機関は、ボーイング機のような米国製品を購入する外国企業への融資を専門としていた。マードックはとことん好条件の取引を求めていた。市場金利をはるかに下回る金利、つまり銀行自身が資金調達する金利よりも低い金利をを望んでいた。さらに通常数週間かかるプロセスをわずか数日で完了させることを望んでいた。
2月19日、マードックはワシントンで2つの重要な会合を持った。1つ目は輸出入銀行との会合で、希望通りの融資を受けられるよう説得を試みた。2つ目はホワイトハウスでのジミー・カーターとの昼食だった。この会合は(ニューヨークでのカーター陣営の予備選責任者の要請で設定され)、ポスト紙が民主党予備選でカーターを支持することを大統領に伝えるためのものだった。
3日後、マードックのポスト紙はそのカーター支持を表明した――投票日の1か月以上前に。同紙は大統領を「飲み込みが早い」と評した。
内政、外交の両分野で、彼は強さと自信を身につけ、長時間の勤務、開かれた精神、現在の危機に関する最も詳細な情報を理解し記憶する能力など、しばしば驚異的な熱意と献身を激務に活かしている。彼はその職務にふさわしい人格と体力を備えている。彼がワシントンに持ち込んだ米国の基本的価値観に対する新たな認識は、予備選を経て長い道のりを歩み始めるにあたり、今や彼の最大の資産となっている。この要求厳しい試練において、彼はすべての民主党員の全面的な支持に値する。
その6日後――連邦準備制度理事会や財務省、銀行職員、さらには理事会メンバー自身からの懸念の声が相次いだにも関わらず――輸出入銀行は、アンセット航空に金利8.1%で2億600万ドルの融資を承認した。これは同様の融資で提示された中で最も低い金利だった。
一連の出来事が注目を集めたのも無理はない。主要新聞の発行人が連邦政府に特別な取り扱いを求めた。その直後にホワイトハウスで大統領と個人的な食事を共にし、支持表明をほのめかした。その後すぐに新聞は大統領への支持を表明し、連邦政府は便宜を図った。とりわけ、道徳的な廉潔さと個人的な誠実さで評価を得ていたカーターのような大統領にとって、これは不快な臭いを放つものだった。
しかし、ニューヨーク・タイムズが3月18日にこの話を報じるまで、政治の世界はこの件に気づかなかった。ジュディス・ミラー――そう、あのジュディス・ミラーによる記事がこの出来事を明らかにした。マードックとホワイトハウスの双方は、契約と支持表明のタイミングはまったくの偶然だと説明した。しかし、この記事は波紋を広げ、民主党のウィリアム・プロクスマイア率いる上院銀行委員会による調査へとつながった。
その間、ポスト紙は紙面でテッド・ケネディへの攻撃を続け、「必死のテッド、ニューヨークで荒れる」「テッド・ケネディの秘密のパーティー」「マリー・ジョーの墓前でテッドに歓声」といった見出しを掲げた。ミシガン州選出のドン・リーグル上院議員は、ポスト紙を「国内のどの新聞よりもケネディ上院議員を徹底的に批判した[…]ポスト紙はケネディ上院議員を徹底的に叩くことを決めていたのだ」と述べた。
5月に開かれた上院委員会の2日間の公聴会では、マードック、銀行関係者、カーターの政治チームが証言に立ち、全員が見返りはなかったと主張した。「タイミングの偶然がこのような誤解を生んでしまい、大変申し訳なく思っている」とマードックは証言した。上院委員会が調査結果でが、明示的・暗黙的を問わず取引の「証拠なし」とされ、カーターが融資に影響を与えようとした形跡はないとした(実際、マードックがリベラルなケネディよりもカーターを推したことを説明するのに陰謀は必要ない)。しかし委員会は、ずさんなプロセスで運営したとして輸出入銀行のトップ――カーターのジョージア州時代からの盟友――を厳しく批判した。
おそらく最も興味深いのは、ポスト紙の支持表明がカーターの期待したような後押しとはならなかったことだ。3月中旬まで、テッド・ケネディは大敗を続け、それまでに行われた20の予備選・党員集会のうち勝利したのは地元マサチューセッツ州での1回だけだった。しかし3月25日にニューヨークの有権者が投票所に向かうと、彼らはケネディに59%対41%の圧勝をもたらし、市内とその郊外ではさらに大差がついた。
ルパート・マードックの力を借りることなく、ケネディの選挙運動は息を吹き返した。彼は合計12の選挙を制し、民主党全国大会まで戦いを続け、2日目の夜まで撤退しなかった。
ジミー・カーターは出版された大統領日誌の中で、マードックに2回言及している。1回目は会食の日、1980年2月19日のことだ。「戻ってきてオーストラリアの新聞発行人ルパート・マードックと昼食を取り、本当に好印象を受けた。彼は興味深く、親しみやすく、予備選での ニューヨーク・ポストの全面的支持を約束してくれた」。もう1回はその4か月前、1979年10月4日のことだ。「ニューヨーク・ポストの発行人ルパート・マードックに電話をして、オーストラリアから戻ってきたら一緒に昼食を取ろうと伝えた。彼の新聞は我々の強力な味方にも、背中に突き刺さる強力なナイフにもなり得る。我々は前者を望む」。
ポスト紙が民主党予備選で強力な味方となったのなら、ナイフは本選挙で姿を現した。予備選での好意的な言葉は10月17日に蒸発し、ポスト紙はロナルド・レーガンを大統領に推した。しかし、その社説はレーガンへの支持というよりも、カーターへの痛烈な非難だった(カーターの名前は24回出てくるのに対し、レーガンの名前はわずか10回だ)。
カーター大統領は、勤勉ではあるものの、優柔不断で、無能で、弱腰であることを示してきた…
自由世界の状態を気にかける外国の指導者、実業家、ビジネスマン、労働組合の指導者で、カーター政権を尊敬している者はほとんどいない。これは秘密ではない。我々の友好国だけでなく、敵国にもよく知られており、彼らは日々それにつけ込んでいる。彼らは、ホワイトハウスにいる一見好人物が、実は弱い人物であることを見抜いている…
この全面的な失敗の記録を列挙しなければならないのは悲しいことだ。我々は怒りよりも悲しみをもってそうしている。カーターはホワイトハウスでの要求の厳しい職務に確かに懸命に取り組んだ――しかし、その取り組みは成功しなかった。
カーターはその日、日誌にマードックについて何も書かなかった。
1967年から2014年まで ニューヨーク・ポストの編集者を務めた(またチェスのグランドマスターでもある)アンディ・ソルティスは、昨年出版されたマードックのポスト紙時代についての口述史『Paper of Wreckage』の中で、この鞍替えをこう回想している。
1980年の春、ポスト紙はニューヨークでのカーター支持を民主党予備選で表明した。秋がやってきた。私は市政担当デスクでスティーブ・ダンリービーをバックアップしていた。ウォルドルフ・アストリアのグランドボールルームで開かれたアル・スミス・ディナー、その年最大の政治とカトリック・チャリティの夕食会でのことだ。カーターとレーガンの両方が出席していた。[ポスト紙政治記者の]デボラ・オリンから電話があり、「会場でおかしな噂が飛び交ってる。ポスト紙がレーガンを支持するかもしれないみたい」と言ってきた。
私は笑った。「デボラ、マードックがポスト紙を所有して4年になるが、ポスト紙は一度も重要なポストで共和党候補を支持したことはないよ。なぜ突然そんなことを?」彼女は「わからない。でも共和党はそういう素振りを見せている。何が起こっているのか、探ってみないと」と言った。私はダンリービーに「デボラが知りたがってるんだけど、我々はレーガンを支持するのかい?」と聞いた。ダンリービーは「そうだよ、相棒。明日にね」と答えた。
本当にショックだった。人々は「まあ、ポスト紙はコッチを支持したし、コッチは右寄りだった」と言うだろう。そんなのはナンセンスだ。コッチはしばしば『アメリカン・フォー・デモクラティック・アクション』から100%の評価を得ていた。当時はそれが政治的立場を判断する試金石だった。彼は当時としては純粋なリベラルの最たるものだった。マードックの所有から4年で、ポスト紙は一転して政治的立場を変えたのだ。
ルパート・マードックは予備選でジミー・カーターを支持することで、政権から低金利融資を得ようとしたのだろうか。 彼は否定し、我々が真相を知ることはおそらくないだろう。
ジェフ・ベゾスは第2期トランプ政権下での政府契約への道を開くため、ワシントン・ポスト紙のカマラ・ハリス支持を潰したのだろうか。彼は否定し、我々が真相を知ることはおそらくないだろう。
マーク・ザッカーバーグは、自分を刑務所にぶち込むと脅すトランプのご機嫌取りのために(「ファクトチェッカーがあまりに政治的偏向していて、信頼を作り出すどころか破壊してきた」と主張して)Facebookのファクトチェックを廃止したのだろうか。あるいはAmazonがメラニア・トランプの賛美録に4000万ドルを支払った(その大半は彼女に支払われる)のは、一族のご機嫌をうかがうためだったのだろうか。あるいはパトリック・スン・シオンがLAタイムズの社説委員会に「トランプについての執筆を一時休止する」よう告げたのは、政権との取引のためなのだろうか。ポスト紙でボツにされたあの風刺画については? あるいはタイム誌のビリオネアオーナーが、トランプの当選は「我が国にとって大いなる約束の時」であり、「共に働くことを楽しみにしている」とわざわざ発言したことは?
ここ数日、米国におけるルパート・マードックの初期の報道を読み込んで気づいたことがある。ジャーナリストたちが彼について抱いていた懸念は、概して彼の政治的保守性に対するものではなかった――私が目にした初期の記事の多くは、それについてはまったく触れられていない。懸念は2つあった。1つは、セックスや犯罪に焦点を当てることで、高邁なジャーナリズムの世界を貶めていること。もう1つは、彼が1世紀前の新聞モデル――メディアボスが報道の力を自身の利益追求のために利用するモデル――への回帰をもたらす人物であることだ。
ニューヨーク・ポストが毎年何百万ドルもの損失を出し、赤字を垂れ流し続けてきたことことはよく知られている。(2021年の単一四半期で黒字を記録した際、ニューズ・コープのCEOは「少なくとも近代においては初めての利益」と称賛した。)
しかしポスト紙は金を稼ぐことを目的としているわけではない。また市民の意識を高め、社会的価値のあるジャーナリズムを支援するためでもない。それは権力のため――マードックに利益をもたらすためにある。そしてビリオネアの問題は(まあ、そのうちの1つだが)、彼らにはさまざまな利害があることだ。
ジミー・カーターは死去した。ルパート・マードックは93歳で、自分の子どもたちと争いながら、墓の向こう側まで力を及ぼそうと最期の日々を過ごしている。しかし、この2か月でわかったのは、彼はもう心配する必要はなくなったということだ。私利私欲にまみれた次世代の億万長者たちが、まさに彼の足跡を辿ろうとしているのだから。
ジョシュア・ベントンはNieman Labのシニアライターで元ディレクター。連絡はメール(joshua_benton@harvard.edu)またはTwitter DM(@jbenton)まで。
That time Rupert Murdoch endorsed Jimmy Carter (no, really) | Nieman Journalism Lab
Author: Joshua Benton / Neiman Lab (CC BY-NC-SA 3.0 US)
Publication Date: Jan. 9, 2025
Translation: heatwave_p2p