今週、18年間続いた老舗ROMサイト「EmuParadise」が、すべてのレトロゲームROMのダウンロードを停止した。任天堂が別の2つのダウンロードポータルを訴えたことが背景にある。任天堂は、これを大勝利と認識しているのかもしれないが、これまで多数の大ヒットゲームを生み出してきた日本のゲーム大手は、このムーブメントが決して制御できるものでないことを理解していないようだ。
この数週間は、レトロゲームシーンのファンには辛いものだっただろう。任天堂が訴えた2つのROMプラットフォームは閉鎖し、さらにEmuParadiseは自らROMの提供を停止した。
おそらく京都ではお祝い騒ぎなのだろうが、その祝賀会に参加するゲーマーはほとんどいない。その理由は単純である。なぜ任天堂が、これほどまでに積極的にレトロゲームの保護に乗り出しているのか理解できないからだ。
それを議論するにあたって、まずはレトロゲームをプレイするためにROMを配布したり入手することは、ほかの海賊行為と何ら変わりはない、という仮説を置くことにしよう。ゲーム会社の権利を侵害すれば、著作権侵害訴訟が待っているということである。まさにLoveROMS.comやLoveRETRO.coが標的にされたように。
さて、これを平均的なレトロゲーマーの立場から見てみよう。レトロゲームをプレイするためにROMを手に入れる行為は、有害ではない。その手のソフトの多くは数十年前に作られたもので、古いハードウェアで動作し、すでにかけた費用の1000倍以上の利益を確保している。
それに加え、多くのゲーマーが今も新しいゲームを購入していることを考えれば、彼らは何が問題であるのか、なぜゲーム会社がこんな意味のないことをするのか、と疑問に思うのも無理はない。
こうしたゲーム会社と歴史的作品のファンとの断絶こそが、混乱の原因となっている。確かに、任天堂や、アーケードの巨人であったタイトーやナムコなどのゲーム会社が、過去のカタログを活用したいのだとすれば、包括的なゲームパッケージやデバイスでそうしているはずだ。
もちろん、ファミコンクラシックやATARIフラッシュバックのようなプロダクトを製造するために、過去のカタログを掘り起こしてはいる。しかし、こうした利用は限定的であり、非公式のROMによって価値が損なわれているわけでもない。
任天堂が、最高のゲームをいくつも生み出してきたことは否定できない。スーパーマリオ64なんて、革新性と魅了性を兼ね備えたゲーム史に名を刻む金字塔と言ってもいい。しかし、任天堂はプレイヤーの感情を揺さぶることにかけては他の追随を許さないのに、なぜかレトロゲーマーがゲームをプレイするために体験する感情については過小評価している。
今週、EmuParadiseがダウンロードを停止すると、サイト創設者のMasJは、エミュレータファンが長年に渡って共有してきた感動的なストーリーをいくつか公開した。
「戦場の兵士から届いたメールには、彼らが子供時代から楽しんできたレトロゲームに夢中になることで、戦場での日々を乗り越えられていると綴られていた」
「癌できょうだいを亡くした人たちのメールには、子どもの頃に一緒に楽しんだゲームをプレイすることが慰めになった、とあった。そんな無数のストーリーがある」
これらの例が示すように、クラシックゲームは美しく、強烈なノスタルジーを引き起こす力を持っている。特定のゲームが、個人史のなかで特定の時間と場所に結びつき、時に長年忘れていた友情の記憶を呼び起こすこともある。こうした感情は、ゲームの世界でもレトロゲームだけが喚起できるものだ。
心理学者のエリック・ヘッパー博士は、2013年のインタビューで次のように説明している。「ノスタルジーを体験すると、私たちはもっと幸せになり、自尊心が高まり、愛する人との距離が縮まり、人生が有意義なものに感じられる傾向があります。物理的なレベルでも、ノスタルジーは文字通り、暖かさを感じさせるものなのです」。
なぜ、レトロゲーマーがこれほどまでに情熱を傾けてるのかを理解するには、この感情的なアタッチメントの力を理解しなければならない。レトロゲームは、たとえ技術的な輝きを失っていたとしても、現代のゲームには満たすことのできない価値をもたらしてくれるのだ。歳を重ね、記憶の奥底に仕舞い込まれるまでの10年、20年という時間を経て、生み出される価値を。
レトロゲームは、プレイヤーを過去にタイムスリップさせてくれる。ビデオゲームにはじめて触れ、夢中になった高校時代に。あの輝かしい「HyperSpin」の魅力的なモードを目にするやいなや、レトロゲーマーたちはあの頃を思い出したのだ。仮想スロットに最初のコインを投入したとき、涅槃に到達したとすら言えるかもしれない。
レトロゲーム体験の感謝の念は、EmuParadiseでゲームを手に入れた人たちに共通する、コミュニティが全体が抱えているものだ。もはやROMは提供されていなくとも、そのメンバーはすべてのゲームライブラリをもう手にしている。ファミコンを物理的にプレイできなくても、ゲームを楽しめるのだ。
「人々は、これらのゲームを熱烈に愛しています。そうしたゲームは、彼らの人格、子供時代、文化の一部となっています」とMasJはTorrentFreakに語る。「こうしたタイトルは、私たちが共有する人類史の一部でもあるのです。だから、何があったとしても、それをプレイする方法を探し出すのです」
さらに重要なのは、こうしたプレイヤーは、ノスタルジーを感じるときには特に、所有するROMを好きな誰かと共有するだろう、ということである。
「強いノスタルジックな状態にある個人は、ボランティアやその他の利他的な表出にコミットするようになる」と2014年のガーディアンの記事で専門家が述べている。
「ノスタルジーを喚起した群は、集団状況において、グループとの密接なつながりを強く感じただけでなく、よそ者と親密な関係を築こうとし、より自由な発想を持つ」
これこそまさにROM共有の原動力のようにも聞こえるが、これはEmuParadiseのようなコミュニティをドライブする原動力のほんの一部に過ぎない。ROMの「海賊行為」の背景にある考え方は、映画やテレビ番組、音楽の海賊版に共通する考え方とは異なるという点も重要だ。
後者は、購入したいと思えば、ほとんどの作品が手に入る。しかし、大半のROMは、非公式のかたちでしか存在していない。遊び放題型のサービスもなく、それどころか売り物とすらなっていないために、ゲーム会社にお金を支払うこともできないのだ。
「残念ながら、ビデオゲーム産業は断片化が進んでいるので、大手パブリッシャが手を取り合わない限り、Netflix型のシステムはほぼ不可能です」とMasJは言う。
「ただ、現在のゲーム産業とそのテクノロジーは成熟していますし、消費者もこの手のサービスが登場すれば喜んでお金を支払うでしょう。あとはそのシステムを作り上げるだけです。任天堂であれ、セガであれ、その他のゲーム会社であれ、それに乗り出せば必ず成功すると思いますよ」
海賊版に代わる正規サービスの欠如によって、「ブラックマーケット」のレトロゲーマーが犯罪に手を染めているとは意識しない状態が作り出され、その結果歯止めが効きにくくなっている。法律が尊重されなければ、罪悪感を覚えることもないだろう。実際、レトロゲーマーはこれまで膨大な時間をROMの収集に費やしてきているため、彼らから強引に奪い取る以外に解決策はない。
ROMの方程式から3つの大手海賊版サイトが消え去ったとしても、合理的かつ合法的な選択肢が存在していないことに変わりはない。これはレトロゲーマーにとって『ゲームオーバー』ということなのだろうか? 彼らは敗北の道を歩んでいくのか、それともそのギャップを埋める何かが出現するのだろうか?
MasJは「ROM探しが難しくなるとは思いません」と予想する。
「もちろん、別の信頼できるリソースが人気を得るまでには時間が掛かるでしょう。ただいずれにしても、ゲームをプレイしたいという人はたくさんいるんです。だから、それに応える合法的な選択肢を提供しなければ、別の方法でそれを満たそうとするだけでしょう」
任天堂などの企業には残念なことに、レトロゲーマーは無限クレジットに慣れ親しんでいる。たとえキャラクターの死を告げるマイナー調のBGMが流れたとしても、すぐさま「レディ・プレイヤー・ワン」の到来を告げる陽気で楽観的な曲調に変わるだろう。
Publication Date: August 12, 2018
Translation: heatwave_p2p
Materials of Header Image: Evan-Amos / geralt