以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Proud to be a blockhead」という記事を翻訳したものである。
今年最後のPluristicの投稿だ。よくある「今年最も反響のあった記事」をまとめるのではなく、なぜそれができないのか、どういうわけで意図的にそうしているのか、そしてそれがアート、独占、クリエイティブな労働市場について何を物語るのかを綴ってみようと思う。
Pluralisticを立ち上げてから約5年が経つ。当初から、成功を定量的な指標で成功を測ることはしないと固く決めていた。Pluralisticの本拠地であるpluralistic.net(つまり、ここ)には、一切のメトリクス、アナリティクス、ログ、トラッキングがない。誰がサイトを訪れているのか、何人が訪れているのか、どの記事が人気で、どの記事が不人気なのか、私にはわからない。そして、そもそも知ることができない。
他のPluralisticはそこまで禁欲的ではないが、それは各チャンネルの仕様上、一部のメトリクスを無効にできないからだ。たとえば(トラッキングのない)メール版のPluristicを配信するMailmanには、購読者数を表示する機能が組み込まれているが、その数字を一度も確認したことはないし、今後も見るつもりはない。新規登録や退会の通知も切っている。
商業的で監視色の強いTumblrやTwitterには、さまざまなメトリクスがあるが、それらも一切見ていない。MediumやMastodonにも若干のメトリクスがあるが、これも存在しないものとして扱っている。
では、私は何に注目しているのか? それは、自分の文章が与える定性的なインパクトだ。コメント、リプライ、メール。他のブロガーによる考察や、Metafilter、Slashdot、Reddit、Hacker Newsでの議論。これらは私にとって非常に大きな意味を持つ。私が文章を書く理由は2つあり、順に、自分の思考を整理すること、そして他者の思考に影響を与えることである。
私にとって、書くことは思考の補助具だ。ページ上で物事を整理することは、人生における物事の整理にもつながる。そしてもちろん、ページ上で物事を整理することは、もっと多くのページ上で物事が整理されていく。書くことは書くことを生む。
https://pluralistic.net/2021/05/09/the-memex-method/
正直に言えば、それで十分だ。読まれなくても書くだけで満足できるとか、充実感が得られるということではない。読まれること、コミュニティの一部であること、対話の一部であることは、私にとってとてつもなく重要だ。とはいえ、書くという行為そのものが私にはあまりに重要なので、誰も読まなくても書き続けるだろう。
作家たるもの、そんなふうに考えるべきではないとされている。このブログの4周年記事で書いたように、文筆について語られた中で最も笑止千万な発言は、サミュエル・ジョンソンの悪名高い「金にもならないのに執筆できるのはブロックヘッド(大バカ者)くらいなものだ」という言葉である。
https://pluralistic.net/2024/02/20/fore/#synthesis
アートの創作は「経済的に合理的な」活動ではない。他者を自分の視点に導こうとする試みにも同様だ。いずれの活動も本質的な喜びをもたらすだけでなく、少なくとも多くの人々にとって必要不可欠な営みである。Napster時代に始まった著作権をめぐる長く愚かな争いは、このことをほとんど認識してこなかったし、その意味するところにも目を向けてこなかった。著作権擁護派は「アートに金を払わなければ、誰もアートを作らなくなり、アートは消滅する」といった完全な馬鹿げた主張を展開している。これは軌道上空からでもわかるほどの間違った発言の一つだ。
しかし一方で、誰がこの事実を本当によく知っているのか? クリエイティブワーカーに給与を支払う企業だ。映画スタジオ、レコード会社、出版社、ゲームスタジオ――いずれの企業も、どうしてもアートを作らずにはいられず、給与の有無にかかわらず、目をつぶされるか指を折られない限り作り続ける労働力に支えられていることを知っている。人々はアートがかけがえのないものだから作るのであり、そしてこの性質は労働者を極めて搾取しやすいものにしている。フォバジ・エッタが「職業への畏敬(vocational awe)」に関する画期的な論文で指摘したように、仕事に情熱を持つ労働者ほど労働市場において著しく不利な立場に置かれている。教師、図書館司書、看護師、そしてもちろんアーティストは、自分の利益や幸福よりも使命感によって突き動かされることが多く、ボスたちはそれを熟知しているのだ。
https://www.inthelibrarywiththeleadpipe.org/2018/vocational-awe/
デイビッド・グレーバーの傑作『ブルシット・ジョブ』で示された重要な洞察の一つは、労働の本質的な姿は、誇りと意義を見出せる仕事をすることだというものだ。しかし、後期資本主義がもたらす疎外は異常なまでに歪み、たとえば教師が適正な給与を得るべきだという考えを嘲笑する人々さえいる。「なぜ生活賃金が必要なんだ――子どもたちを育てる喜びだけでは足りないのか?」と。
これらは著作権をめぐる闘争の核心を浮き彫りにする。創造性は経済的な動機づけから生まれるものではなく、だからこそクリエイティブワーカーは容易に搾取される。人々は内なる衝動に突き動かされてアートを生み出す。マルクスが『資本論』を完成させた頃、彼は自宅にこもって執筆を続けなければならなかった。執筆を続けるためにズボンを質に入れていたからだ。アーティストが経済的インセンティブに合理的に反応しないからといって、彼らを飢えさせていいということにはならない。アートは――看護、教育、図書館司書と同様に――人間が豊かに生きていくために欠かせないものだ。
つまりこういうことだ。職業への畏敬がもたらす経済的な非合理性が教えてくれるのは、仕事をせずにはいられない労働者たちの経済的正義を実現できる唯一の手段は連帯であるということだ。クリエイティブワーカーは互いに、そしてオーディエンスと手を取り合う必要がある――そして多くの場合、我々の作品を市場に届けるための企業で働く他の労働者とも連帯しなければならない。我々は皆、エンターテインメント企業とテクノロジー企業の所有者(これは私とレベッカ・ギブリンが2022年の著書『チョークポイント資本主義』で論じた中心テーマでもある)と対峙する同じ階級の仲間なのだ。
https://chokepointcapitalism.com/
芸術的連帯という考えには長い歴史がある。最初の著作権条約であるベルヌ条約を生み出したビクトル・ユーゴーは、クリエイターに権利を保障する目的について感動的な言葉を残している。それは死後に生物学的な子孫が作品から搾取できるようにすることではなく、むしろアーティストの創造的な後継者たちが先人の功績の上に新たな創造を重ねていけるようにすることだ、と。ユーゴーは――そして10秒以上この問題について真摯に向き合ったことのある芸術家なら誰でも、自分が読者、作家、批評家、出版業界の労働者で構成されるクリエイティブなコミュニティとその伝統の一部であり、それは戦い、守り抜く価値のあるものだと理解していた。
レベッカと私が本の取材で行った最も印象的なインタビューの一つは、Spotifyの最も鋭い批評家の一人であるリズ・ペリーとの対話だった(Spotifyがミュージシャンから搾取する手口について書いた章は、にオーディオブック版では唯一Spotifyで聴けるぞ――「Spotify Exclusive」だ!)。
https://open.spotify.com/show/7oLW9ANweI01CVbZUyH4Xg
ペリーはSpotifyの搾取の実態を暴く重要な新著『Mood Machine』を上梓したばかりだ。
https://www.simonandschuster.com/books/Mood-Machine/Liz-Pelly/9781668083505
『Harper’s』に掲載された長編記事は、Spotifyがクリエイティブワーカーから組織的に搾取を行う中核的なメカニズムの一つを明らかにしている。それは「ゴーストアーティスト」の存在だ。彼らの無個性な音楽は本物の音楽よりも安価なため、Spotifyはそれをプレイリストに大量投入しているのだ。
https://harpers.org/archive/2025/01/the-ghosts-in-the-machine-liz-pelly-spotify-musicians/
ゴーストアーティストをめぐる問題は長らく謎に包まれ、Spotify自身による熱心な――しかしごまかしに過ぎない――否定が繰り返されてきた。Spotifyの内部チャットが流出した記事の中で、ペリーは問題の本質に迫っている。ゴーストアーティストとは、怪しげな企業に雇われたミュージシャンたちのことだ。彼らは、バックグラウンドに溶け込むような無難な音楽を作曲し演奏することで、定額の報酬を受け取っている。その音楽はSpotifyに卸され、ながら聴き用の人気プレイリスト(「Deep Focus」「100% Lounge」「Bossa Nova Dinner」「Cocktail Jazz」「Deep Sleep」「Morning Stretch」など)に詰め込まれる。そのため、リスナーは劣悪な代用品で我慢することになる。
Spotifyによれば、これは「Perfect Fit Music(PFC)」なのだと言う。これは音楽版のピンクスライム1訳注:食肉加工後の骨からこそぎ取ったクズ肉を化学処理して、ひき肉や加工品に混ぜ込んだもの。鮮やかなピンク色であることが特徴。近年は、転じて地方紙に偽装した粗製乱造の党派的なジャンクニュースサイトを指すようになっている。だ。人生に空いた音楽の形をした穴を埋めるだけの、押し出し成型された音楽もどきだ。本物の音楽が持つべきコミュニケーションと美的な価値は、そこには見る影もない。
ピンクスライム音楽産業に関わる人々への取材は困難を極めたが、ペリーはついに、自身の仕事について匿名で語ってくれるミュージシャンにたどり着いた。このジャズミュージシャンは匿名を条件に取材に応じた。ピンクスライム製造で得られるわずかな報酬が生活の糧となっているからだ。彼は自分が依頼されて制作した音楽がどこで使われているのかほとんど知らないという。これは意図的にそうなっている。ピンクスライム音楽産業は、他のあらゆる悪質な産業と同様、自分たちの恥ずべき悪徳を自覚するボスたちの求めによって、秘密のベールに包まれている。
この匿名のミュージシャンは、ソファに座って複数の曲を作曲し、その後スタジオに入って一発録音する。通常、PFCピンクスライム産業の担当者が立ち会い、決まって「もっとシンプルに」というフィードバックを繰り返す。この匿名のミュージシャンはこう語る。
「それが彼らの絶対的な要求だった。少しでも挑戦的だったり、人を不快にさせる可能性のあるものは一切認められない。要するに、できる限り無難なものを作れ、と」
この情報提供者は、こうした仕事を「恥ずべきもの」と呼んだ。ペリーが話を聞いた別のミュージシャンは「マネーロンダリングのような非倫理的な仕事に感じた」と語っている。PFC企業側は、これらの作曲家や演奏家は単に音楽を作っているだけで、「数十年来、さまざまなメディアで一般的だった」偽名での発表をしているだけだと主張する。しかしペリーの取材に応じたミュージシャンたちは、自分たちの仕事をアートとは考えていないと口を揃える。
「まるで誰かがプロンプトや質問を与えて、それにただ答えているような感じだ。自分の信念に沿っているかなんて関係ない。私の知る限り、このような方法でスタジオに入って音楽を録音する人は誰一人いない」
新たなピンクスライムの製造を依頼されたアーティストには、既存のピンクスライムへの参照リンクが渡され、可能な限り忠実に複製するよう命じられる。そうして作られたトラックの中で「成功」を収めたものは、次のグループのミュージシャンに複製用の見本として渡され、その連鎖は果てしなく続いていく。と畜場のクズ肉を次世代の家畜に与える音楽バージョンであり、『キャッチ22』に登場する痛烈な皮肉を思い起こさせる。全身ギプスの患者に取り付けられた導尿バッグと点滴を、看護師が1日1回入れ替えるというシーンだ。
ペリーは、そもそもSpotifyはNapster時代の痛ましい課題に対する解決策として登場したことを思い出させてくれる。その課題とは、ミュージシャンの労働にどう対価を支払うかということだった。Spotifyは「ゲートキーパー」、つまり録音された音楽の70%を所有する大手3社のレーベルを迂回する手段として売り込まれた。レーベルによるアーティストへの金銭的な搾取こそ、ファイル共有を正当化する倫理的根拠とされていたのだ(「ミュージシャンがCDの売上から一銭も得られないのなら、なぜCDを買う必要があるのか?」)。
しかしSpotifyが世界中の人気音楽の権利を手に入れた手口は、大手3社のレーベルに莫大な株式を譲渡し、破格の優遇条件を与えることだった。その結果、独立系のミュージシャンやレーベルは1回ストリーミング再生されても雀の涙ほどの微々たる収入しか得られなくなった。その一方で、Spotifyはオーディエンスにリーチするための不可欠なパイプとして君臨するようになったのだ。
https://pluralistic.net/2021/03/16/wage-theft/#excessive-buyer-power
結局のところ、リスナーから音楽への対価を徴収することと、ミュージシャンに正当な報酬を支払うことの間には何の必然的なつながりもないことが明らかになった。職業への畏敬は、誰かがミュージシャンに音楽を作らせたからといって、そのミュージシャンが音楽から生まれる収益の公正な分け前を受け取れるとは限らないことを表している。これは、あらゆる形態のアート、そして看護から図書館司書に至るまで、職業への畏敬が働くすべての分野に当てはまる現実だ。
『チョークポイント資本主義』では、このジレンマに真正面から取り組んだ。本の後半では、クリエイティブ労働から生まれる収入の分配を、経営者から労働者へと即座にかつ劇的に移行させるための、労働法、契約法、著作権法の改革に関する詳細な政策提言を展開した。
これが、私のこの小さなパブリッシング事業に話を戻すきっかけとなる。私がこれを無料で提供し、しかも望むなら金銭的な利益を得て共有・再出版できるCreative Commons Attributionライセンスの下で公開していることについてだ。
https://creativecommons.org/licenses/by/4.0
幸いにも私は執筆で十分な生活を送れているが、それがどれほど運が絡んでいたかを自覚できるほど正直でもあり、その運が尽きたときに何が起こるかを考えると、常に背筋が凍るような不安を感じている。私はSF界で育ち、尊敬する作家たちのキャリアがシャボンの泡のように消えていくのを見てきた。それはレーガンが小売部門の規制緩和を断行し、全米各地で「ミッドリスト」の大衆向けペーパーバックを何百万部も売り上げていた食料品店やドラッグストアが崩壊したときのことだった。
https://pluralistic.net/2021/07/04/self-publishing/
これらの作家たち――今も生きている人々――は、我々の指を折らない限り書くことを止めさせることはできないという事実の生き証人だ。その中には何十年もメジャーな出版社から作品を出していない人もいる。それでもなお書き続け、自費出版をしたり、小さな出版社から出したりしている。多くの場合、彼らは自身のキャリアで最高の作品を生み出しているというのに、ほとんど誰もそれを目にすることはない。それでも彼らは書き続けている。
なぜなら、我々は経済的に合理的な活動に従事しているのではないからだ。我々は何か本質的なことを行っている――まず何より我々自身にとって本質的なこと、そして我々の作品に触れ、変化し、挑戦するオーディエンスやピアにとって本質的なことを。
Pluralisticは、私が毎朝目覚めるたびに感じる恐怖と向き合うための試みでもある。私が心から敬愛するほぼすべての作家たちがそうであったように、いつか私の幸運も尽きるかもしれないという恐怖。そして、たとえ――いや、むしろいつか――私のキャリアが平均に回帰したとしても、執筆という行為は私の精神と魂に必要な養分を与え続けてくれるだろうと、自分を安心させるための手段でもある。
それは、芸術活動が本来持っている連帯の本質を、他の書き手たちや読者たち(私自身、情熱的で飽くなき読者の一人だ)とのつながりを、再確認する営みでもある。商業的な成功は移ろいやすい。独占企業は、クジラが無数のプランクトンを鯨髭で濾し取るように、自分の仕事に誠実に向き合う人々の生計を荒廃させ、飲み込んでいく。しかし連帯は永遠に続く。Solidarietatis longa, vita brevis(連帯は長く、人生は短し)。
それでは、良いお年を。2025年に、また。
Pluralistic: Proud to be a blockhead (21 Dec 2024) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: December 21, 2024
Translation: heatwave_p2p