以下の文章は、電子フロンティア財団の「A Cycle of Renewal, Broken: How Big Tech and Big Media Abuse Copyright Law to Slay Competition」という記事を翻訳したものである。

Electronic Frontier Foundation

長年に渡る電子マスメディアの進化、いわば技術的激変の時代は、視聴者やクリエイターに多くの恩恵をもたらしてきた。かつての古きゲートキーパーたちは、新たな文化や芸術の楽しみ方を提供する生意気な新参者たちとの競争を強いられてきた。その新参者たちはやがてゲートキーパーとなり、彼ら自身もまた新たな革命家たちと対峙することになる。しかし今日、このサイクルは崩壊している。メディア、通信、テクノロジーがますます集中化するなか、市場は文化や対話、コミュニケーションを支配しようとする巨人たちの勝者独占をめぐる争いの場と化してしまった。

なぜそのサイクルは崩壊したのか。それを取り戻すことはできないのか。これらの質問に対する答えを理解するには、そのサイクルが(かつて)どのように機能していたのかを知らなくてはならない。

革新のサイクル

1950年、ロバート・タールトンというテレビセールスマンが、ペンシルバニア州ランスフォードでテレビ販売業者のコンソーシアムを結成した。彼らは背の高いアンテナを設置し、南東90マイルにあるフィラデルフィアの電波を受信できるようにした。このアンテナは、コンソソーシアがランスフォードの街中に敷設したケーブル網に接続され、顧客は大都市のテレビ番組を楽しめるようになった。これにより、ランスフォードにおけるテレビの所有はより魅力的になった。1948年以降、趣味人たちが自ら「共同アンテナテレビジョン」ネットワークを即席で構築してはいたが、これを事業化しようとした者はいなかった。こうして、初の商業ケーブルテレビ会社が誕生した。

その後ケーブルテレビが台頭しだすと、数十年にわたって繰り広げられることになる政治的論争が沸き起こった。支払いや許諾を得ずに放送信号を再送信し、サービスの利用料を徴収するケーブル会社の許容されるのかという議論だ。放送事業者は信号を無断で使用されることに不満を訴えた。だがその放送業界とて、かつてはレコード(録音物)を許諾を得ることも金を払うこともなく放送できる恩恵にあやかっていたのである

仲裁に乗り出したFCCは、ケーブル事業者がどういった信号を再送信できるか、どういった信号を再送信しなければならないのか、そのためにどれだけの支払いをすべきかを規定する複雑な規則を策定した。その結果、ケーブルテレビはテレビを視聴するための第2の手段となり、放送局と和解し、ともに成長する関係を築いていったのである。そうしてケーブル事業者は、家庭にケーブルテレビを引く方法を牛耳るようになった。

1976年になると、ケーブル事業者と放送局は共闘して新しいテクノロジーに立ち向かっていた。そのテクノロジーこそ、ソニーの『ベータマックス』に始まる家庭用ビデオレコーダーだ。ケーブル事業者、放送局、映画会社は、ビデオ録画はレコードを放送するのと同様に、あるいはケーブルを通じて放送を再送信するのと同様に違法だと考えた。ビデオデッキをめぐる訴訟はその後8年間にわたって続いた。1984年、最高裁はついに判決を下し、ビデオデッキを合法化した。新たなテクノロジーが「実質的に侵害でない利用が可能である」なら著作権法に照らして違法ではないと判断した。

ビデオデッキが当時どれほど物議を醸したのかは想像するのも難しい。議会公聴会に出席したMPAAのジャック・バレンティ会長は「私に言わせれば、米国の映画製作者と国民にとってのVTRの脅威は、家に一人きりでいる女性にとってのボストン連続絞殺魔のようなものだ」とわめきたて、歴史に名を残した。

これほどまでに非難されたにもかかわらず、今日の家庭ではごく当たり前に録画が行われているし、ケーブル事業者はデジタルレコーダーのバンドルさえ提案してくる。レコード会社が放送局と共存を選び、放送局がケーブルテレビと共存を選んだように、ケーブルテレビはビデオ録画との共存を選んだのだ。

これがテクノロジーの一般的なサイクルであることは容易に想像できる。新たなテクノロジーが登場し、市場に無作法になだれこみ、古き番人の古びたワインを新しいピカピカのボトルに注ぐ。古き番人は新参者を単なる犯罪者だとなじり、正義を要求する。

大衆は新しいテクノロジーに群がるが、大衆の知らぬところで古き番人と新参者は盃を交わす。そして彼らの市場になだれこみ、彼らの古びたワインをさらに新しいボトルに注ぎ込もうとする次の無鉄砲者を訴える準備を進める。

かつてはそうだった。だが、そのサイクルは途絶してしまっている。

崩壊したサイクル

1998年、米国議会はデジタルミレニアム著作権法を可決した。同法1201条では、著作物への「アクセスを制御」する「技術的手段」の回避が禁じられた。この法律は、適法な目的で著作権ロックを回避しなければならない場合であっても適用除外を設けてはいない。そのため、「敵対的相互運用性」(許諾を得ることなく古いモノに新しいモノを差し込むこと)という伝統的なふるまいは、行動を起こすことすら許されていないのだ。ある企業が自社製品にデジタルロックをほどこせば、放送局対レコード会社、ケーブルテレビ対放送局、ビデオデッキ対ケーブルテレビのような戦いを望む他の企業を恐怖させられるのである。挑戦者たちは最初の一歩を踏み出すためだけでも、『回避デバイス』の『不正取引』によりDMCA1201条の民事上の損害賠償が課され、さらには50万ドルの罰金と5年の禁固刑という刑事罰を科されかねないという恐怖を克服しなければならない。

ソニーが最初のアナログテレビレコーダーを製造したとき、彼らが見ていたのは消費者が何を求めているかであって、先の技術的闘争の勝者たる企業が何を求めているかではなかった。そうして我々はビデオデッキを手に入れることができたのだ。だからこそ、放送だろうとケーブルテレビだろうと録画できたし(だからどんな番組であれ、大手スタジオの映画でさえ放送されれば録画できた)、ダビングもできた(だからその映画を友達の家に持っていってポップコーンを頬張りながら視聴できた)。

だが今日のデジタルビデオ製品はそうではない。ケーブルテレビ、衛星放送、DVD/HD DVD/Blu-ray、ストリーミングサービスはいずれもデジタルロックを用いてビデオをスクランブルしている。したがって、ユーザ目線に立ったレコーダーを製造しようとする敵対的相互運用者は、DMCA1201条を盾にした法的報復に怯えることになる。そのために常識的なアイデア――たとえば、ケーブルテレビが配信するすべての番組を(ペイパービューや大ヒット作さえも)録画できるレコーダー、NetflixやAmazon Primeがクリスマスシーズンにローテーションから外したクリスマスビデオを録画できるレコーダー、ビデオを録画して友達の家に持ち出したり、アーカイブ用ドライブに転送して10年後(あるいは今から10分後)に確実に視聴できるようにするレコーダー――でさえ封殺されている。

レコードプレイヤーの誕生以降、あらゆる世代のエンターテイメントテクノロジーが新たな世代に取って代わられてきた。新たな世代は新たなアーティストに新たなオーディエンスとの出会いをもたらし、それまで業界を支配してきた経営者の偏見や先入観を覆し、新たな表現手法や新たなアイデアの実現を可能にした。

今日、ケーブルテレビ、通信、映画スタジオ、テクノロジープラットフォームの市場が集中化するにつれ、競争はできる限り最高のテレビを製造するという短期的な競争から、一握りの成功した番組をどうやって凡作の束と抱き合わせて売りつけるかという長期的な戦略へと転換している。

ケーブルテレビやストリーミングの台頭につながったサイクルがまだ有効に機能する世界であれば、ライバルのペイウォールに閉ざされる前にお気に入りの番組を録画できるだろう。単一のインターフェースであらゆるストリーミングサービスのカタログが検索できるようになり、都度払いとサブスクリプションが自動的に組み合わせることで、さらに多くの金額を費やすこともできるだろう。自宅のデバイスが録画したビデオを外出中に携帯電話にストリーム配信することもできるだろう。……ほかにもたくさんの可能性がある。

そして以前は海賊扱いされた者たち――放送局やケーブル事業者、VCRメーカー――が後の海軍提督となったように、市場を支配する業界の善意ではなく、消費者の満足を主眼とする新たなサービスを作ることで海に乗り出した企業が、いつしか未来のゴリアテに成長し、新たなダビデたちの軍勢に対峙することになるだろう。

今日の歯止めの効かない市場独占の広がりについて、ネットワーク効果や先発優位といった宿命論的説明がなされているが、それがすべてではない。決して止められぬ自然の猛威などではないのだ。メディア−テクノロジーにおける集中と革新のサイクルは、先発優位やネットワーク効果が市場の集中にどれほどの影響を及ぼしているにせよ、不十分かつ頻繁に悪用されうる法的規則によって市場独占が促されていることを浮き彫りにしている。

DMCA1201条は、企業にある種の競争を違法だと宣言させている。支配的企業に対抗する手段としての有効性が歴史的に実証されてきた敵対的相互運用性は、製品の設計だけで犯罪とされる可能性がある。その製品に接続するには著作権ロックを回避しなくてはならないためだ。DMCA1201条は、こうした「回避」を禁じているため、同時に回避を必要とするあらゆる競争をも禁止することになってしまっている。

我々が法廷でDMCA1201条に抗い続けているのはそのためだ。企業が独自の法を作り出せるようであってはならない。それは必然的に「ビジネスモデルの重侮辱罪」というものに変容していってしまうのだ。

固定化した階層構造を覆そうとする潜在的な敵対的相互運用者を阻む法律やポリシーは、DMCA1201条だけに限らない。ソフトウェア特許や行き過ぎたライセンス契約、契約関係に干渉する不法行為法理論などは、きわめて広範囲に及んでおり、それらは潜在的競合を威嚇するためのツールだと解釈されている。その製品がどれほど魅力的であろうと、市場がどれほど大きかろうと。

A Cycle of Renewal, Broken: How Big Tech and Big Media Abuse Copyright Law to Slay Competition | Electronic Frontier Foundation

Author: Cory Doctorow (EFF) / CC BY 3.0 US
Publication Date: August 19, 2019
Translation: heatwave_p2p
Header Image: Tina Rataj-Berard