以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Better to beg forgiveness」(2026年7月31日公開)という記事を翻訳したものである。
私はCreative Commonsを、その誕生から愛してきた。サイトの最初のバージョンをコーディングしていたリサ・レイン、マット・ホーヒー、アーロン・シュワルツたちとつるんでいたし、私の最初の長編小説『マジック・キングダムで落ちぶれて[Down and Out in the Magic Kingdom]』は、CC自体のローンチからわずか数週間後に、商業出版作品として史上初めてCCライセンスのもとで公開されたテキストにもなった。
その最初期、CCライセンスに関心を持ったのは、主に著作権法とその判例やロア[lore]にどっぷり浸かった人々だった。だからこれらのライセンスをめぐる初期の議論の多くは、著作権に関する難解な――しかし重要な!――問いを軸に展開した。たとえば、CCは著作権の「制限と例外」とどう相互作用するのか。
というのも、著作権などというものが作品のあらゆる利用をコントロールする絶対的権利を意味したことなど一度もないからだ。いかなる著作権制度にも、著作権者の許諾なしに、たとえ著作権者がその利用に異を唱えたとしても著作物を利用するための「制限と例外」が組み込まれている。その最たる例が、米国法に由来する「フェアユース」という概念である。
フェアユースは(潜在的には)きわめて広範だが、同時にきわめて「事実集約的」でもある――答えがほぼ常に「場合による」となる類いの法的問題を指して法律家が使う言い回しだ。フェアユースのもとでは、たとえ商業目的であろうと、作品全体をコピーすることが認められうる。既存の作品をもとに新たな作品を作ることも認められるかもしれない。原作を買う気をなくさせることを狙ってそうすることさえできるかもしれない。だが……それは場合による。
フェアユースについて何かご存じなら、それはおそらく、ある利用がフェアかどうかを判定するために用いられる「4段階テスト」あたりの話だろう。この4つのステップは、著作権侵害で訴えられながらもフェアユースだと主張する者に対して、裁判官が投げかけうる質問にすぎない。以下に記そう。
I. あなたの利用の「性質と目的」は何だったのか。何か「変容的」なことをしていたのか。作品を批評していたのか。教育目的で作品を使ったのか。
II. あなたが利用した作品の性質はどうだったのか。それは主として(ニュース記事のような)事実に関するものだったのか、それとも(短編小説のような)創作的なものだったのか。
III. 作品のどれだけを利用したのか。作品を変容させるために、批評を成し遂げるために、誰かに教えるために必要な量を超えて利用してはいなかったか。
IV. あなたの利用は原作にどんな影響を与えたのか。あなたの利用の結果として、著作権者は金銭的損失を被ったのか。
https://fairuse.stanford.edu/overview/fair-use/four-factors/
これらの問いは確かに米国著作権法に明記されている。しかし良くも悪くも、この問いを並べただけでは、ある利用が「フェア」かどうかを割り出すことはできない。フェアユースは最終的に「合理の原則」、つまり法が明らかに愚かしい制約をもたらしてはならない、とする法原理に従う。では何が「明らかに愚かしい」のか。まあ、そこが厄介なところで――裁判官を説得するしかない!
たとえば、『The Wind Done Gone』という本の著者は訴えられた。『Gone With the Wind』の登場人物、筋書き、舞台設定を借りて、原作では主体性も道徳的配慮も与えられなかったアフリカ人奴隷の視点から同じ物語を語り直したからである。裁判所は『The Wind Done Gone』側に軍配を上げた。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Wind_Done_Gone
『Wind Done Gone』は『Gone With the Wind』の「心臓部」を利用した(III)。とはいえ『Done Gone』はきわめて変容的であり(I)、『Gone With』もまたフィクション作品であって、最高水準の保護を受ける資格があった(II)。さらに悪いことに、『Done Gone』の狙いは『Gone With』のひどい欠陥を指摘することであり(I)、それゆえ原作の販売とライセンス収入を直接損なうものだった(IV)。4つの要素をチェックリストのように順に当てはめればフェアユースの論争に答えが出せる、などと主張する者は、本当にフェアユースを理解していない。
https://pluralistic.net/2022/02/06/crypto-copyright-%f0%9f%a4%a1%f0%9f%92%a9/
しかし、フェアユースの事実集約的で微妙な柔軟性を理解したところで、著作権の制限と例外を理解したことにはまだならない。フェアユースは重要だが「ファーストセール」の原則もある。これは、いったん買われたものは購入者のものであり、著作権をもって購入者の伝統的な財産権に干渉することはできない、とする法理だ。だからこそ我々は、古本、絵画、レコードその他の著作物を売り買いできる。たとえ小さな文字で「それは許されない」と書かれていたとしても。
https://en.wikipedia.org/wiki/Kirtsaeng_v._John_Wiley_%26_Sons,_Inc.
著作権の制限と例外に関しては、「フェアユース」と「ファーストセール」が二大巨頭だが、それに劣らず重要なのが小さなものたち――本当に小さなものたちである。他の法律と同じく、著作権も「デ・ミニミス[de minimis]」の原則に服する(もっと長いラテン語の成句に由来し、「法は些事に関わらず」と訳される)。
https://en.wikipedia.org/wiki/De_minimis
他人の庭に足を踏み入れるのは、厳密に言えば不法侵入にあたるかもしれない。だが、家の前の歩道を歩いていて靴が芝生にかすった程度なら、それは不法侵入ではない。あるいは仮に不法侵入だとしても、法が気にかけるには小さすぎるデ・ミニミスな侵入だ。潜在的な著作権侵害の多くは――本の一節を写真に撮ってSNSに投稿する、といったものは――あまりに些細で、フェアユース分析を適用するまでもない。それらは些事であり、「法は些事に関わらず」である。
これらの制限と例外は、権利者の許諾なしに適用される。権利者が激怒しようとも適用される。それらは公衆の一員としての、作品の購入者としての、あるいは頭から離れない歌を口笛で吹くの人間としての、あなた自身の権利だ。
そしてそこにこそ、Creative Commons初期の難解な著作権論争が関わってくる。Creative Commonsとは、著作物の利用許諾を形式的に成文化し、伝達するための仕組みだ。Creative Commonsがなければ、自分が創ったものを誰かに使わせるにあたって、法的に信頼できる許諾を与えるのはきわめて難しく、しかもものすごくコストがかかる。
仮に私が自分の短編小説の1つを舞台化させたいと思ったら、双方とも時給数百ドルの著作権弁護士を雇い、私の許諾が実際に何を意味するのかを定めた契約書を起草・検討してもらなければならない。もっと厄介なのは、弁護士に金を払ったあとでさえ、その取り決めの細かな法技術的詳細を我々のどちらも本当に理解してはいない、ということだ。契約書に並ぶ複雑な専門用語が目的にかなっているという弁護士の言葉をそのまま鵜呑みにするしかない。複雑さと費用が相まって、書類作業にあまりに金がかかり、割に合わなくなった創作コラボレーションはごまんとある。関わる誰しも歓喜するはずのものであってさえそうなのだ。
Creative Commonsはどの許諾が与えられているのかを平易な言葉で明示し、標準化されたライセンスによってこの難所を断ち切る。さらに良いことに、これらのライセンスは国際的で、何十カ国もの言語と法制度に翻訳されている。つまり、日本のCCライセンス短編小説を使って、イタリアのCCライセンス3Dモデルでアニメ化し、インドネシアのCCライセンス楽曲をサウンドトラックに当て、ウクライナで公開する――その全体がちゃんと機能する。
そうした利用――物語をアニメ化する、3Dモデルを使う、サウンドトラックを映像に同期させる――は、いずれもかなり野心的な利用である。とりわけ、完成物を一般公衆に無期限で公開しようというのならなおさらだ。こうした利用について書類を整えるのは理にかなっている。そして、Creative Commonsはその法務作業を、完成物のなかで出典とそのライセンスにリンクを張るだけの簡単な仕事にしてくれる。
だがどれほど野心的であろうと、ライセンスを必要としない利用も山ほどある。『Wind Done Gone』を思い出してほしい。著作権の制限や例外に依拠して、許諾なしに他人の物語を翻案できる状況も存在する。そしてもちろん、些細な利用も大量にある。たとえばグループチャットに写真を貼る行為などはデ・ミニミスであり、これもまた許諾を必要としない。
こうした著作権の柔軟性は決定的に重要だ。誰かの作品を批評するのにその本人の許可が要るとしたら、どうなるか想像してみてほしい!CCの創設当初から、コピーファイターたちは深刻な懸念を表明していた――CCが人々に、他人の作品をリミックスできるのはライセンスがある場合だけだと教え込んでしまうのではないか、それがCCライセンスであれ、弁護士と交渉して結ぶ類いのものであれ。
それから25年後の今日、CCは文句なしの成功を収めている。CCがなければWikipediaは存在しなかっただろう! CCライセンスはYoutube、Flickr、Bandcamp、Internet Archiveで見つかるし、世界で最も重要な学術・科学ジャーナルの多くで採用されている。
だが同時に、この25年の間に、世界は「用心に越したことはない」とばかりに、常に許可を求めるべきだという確信をいっそう強めてもいる。この臆病の文化にCCが寄与したのかどうか、私にはわからない。とはいえ、いじめっ子の著作権トロールが人々を怯えさせ、何であれ常に許可を求めるという反射行動を植えつけた、という筋書きのほうがもっともらしいと思えるが。
30冊を超える書籍、数百点のコラージュ、数万本のエッセイとブログ記事の作者として、私はこうした許諾の依頼をしょっちゅう受け取る立場にある。
たとえば、私のCCライセンス作品を、当該ライセンスが明白に許している方法で使ってよいか、と尋ねてくる人も多い。すでに許可を与えてある事柄について許可を求めてメールを寄こす人たちは、礼儀正しくしているつもりなのだろう。だが正直、やめてほしい。私のCCライセンスが認めている利用について問い合わせが来るたび、私はその利用内容を丹念に読み解き、それ以上のものを求めていないかどうか確認しなければならないのだから。
これがじつに時間のかかる作業で、しばしば何往復ものメールを要する。しかもその挙げ句にわかるのは、「いいえ、あなたはすでに私が許可済みのことをやっていいかと訊いているだけですね」という事実。誰にとっても時間の使い方として上等ではない。 私の作品をリミックスしたなら、ぜひリンクを添えて知らせてほしい。それで十分に楽しい。あなたがライセンスの許諾範囲を超えているかどうかを見極める探偵をやらされるよりもずっと楽しい。
明らかにフェアユースおよび/またはデ・ミニミス利用に該当する依頼も数多い。私の本の短い一節をYoutube動画で朗読するのに、許可を求めてメールを寄こす必要はない! 英語の試験に私の物語を引用するのに、私の許可は要らない! もしそれが必要な世界だったとしたら、世の中はずっとクソったれな場所になる。だから、そんな振る舞いが道理にかなっているかのように扱うのはやめてくれ。すでに窮屈すぎる規範をさらに縮こまらせ、あげくに法改正まで招きかねないのだから。
そして最後に、もっと(ごほん)野心的な利用をしたいと言ってメールを寄こす人たちがいる。誰にも気づかれようがなく、怒られようもない類いの利用だ。ただし、彼らが許可を求めて私にメールを送ってきたという事実を除けば。
アナキストのブックフェアのために、私の小説の海賊版を数部こしらえたい? そいつは完全に著作権侵害で、超違法だ。もし私の出版社がそれを嗅ぎつけたら、間違いなく「やめろ」と迫る肛門が締まるような法的書簡を送りつけてくるだろう(おまけに、その海賊版と引き換えに受け取った7ドルと瓶の王冠3個とイケてる羽根11本を吐き出せ、と要求してくるかもしれない)。
だが、私の出版社がそれを知ることは決してない――あなたが許可を求めて私にメールを送ってこなければ。私は絶対に許可できない。私は出版社と契約を結んでいて、その本を出版する権限を他の誰かに与えることは決してしないと約束しているからだ。あなたがそうするつもりだと私に告げた瞬間、私にはそれを出版社に伝える義務が生じる。そして彼らは、納屋の塗装が剥げ落ちるような言葉づかいであなたにノーを突きつけるわけだ。
授業用に本をクラス分まとめて買ったが、教材として使うために私の本の一部を教育機関のクラス内イントラネットに貼り付けたい? そんなことをしたとして、私の出版社が知る術はないし、仮に知ったなら確かにあなたのもとに血も凍るような法的書簡が届くだろう。だがなあ、私の本はすべてDRMフリーなんだぞ。テキストをそのままCMSに貼り付ければよかっただけの話だ。金を払うつもりのない利用について、その依頼を検討し、裁定し、おまけに書類まで整えるために、私の出版社が自社の弁護士に報酬を支払う――そんなユニバースがいったいどこにあるというのか。
はっきりさせておこう。私は自分の作品の海賊版の許可を出しているのではない。私はすでに、AmazonやAudibleで私の本の競合版を売りさばくクソ野郎どもを追いかけ回すのに途方もない時間を費やしている。海賊版のプリント版を排除するためにIngramのテイクダウン手続きと格闘させられて、奥歯の根本までうんざりしている。
私が言いたいのは、著作物にまつわるあらゆるやり取りに著者と出版社を巻き込む必要はない、ということだ。厳密には著作権を侵害しているかもしれず、厳密にはデ・ミニミスやファーストセール、フェアユースに収まらないかもしれない――しかし同時に、誰にも気づかれようのない利用の世界が丸ごと存在するのだ。
気持ちはわからないではない。誰も気にも留めない類いの利用と、背筋の凍る弁護士書簡を招きかねない利用と、法廷に引きずり出されかねない利用と、その区別がつかないと感じるかもしれない。申し訳ないが、それを見極める手助けを私はできない。私は弁護士ではないし、仮に弁護士だったとしてもあなたの弁護士ではない。
この点で、友人のジョン・ホッジマンとは意見を異にしている。彼のポッドキャスト「Judge John Hodgman」で、彼は商業施設で一線を越えていないか不安な人に対し、従業員に許可を求めよと繰り返し説く。たとえば、セルフサービスのディスペンサーからソーダ水をグラスに注いでいいものか、という疑問。
https://maximumfun.org/podcasts/judge-john-hodgman/
ジョンは、必ずレジ係に訊けと言う。だが私はそういう仕事をしてきたから断言できる。0.0000001ドル分の水と泡をタダで持っていくのは絶対にまかりならんという、クソみたいなボスがいる職場もいくつも経験した。とはいえ、あなたが炭酸水を汲んでいるのを見て見ぬふりをしたところで、最悪の場合でも、ボスから「客が大事なCO2を盗まないようもっと目を光らせろ」と言われる程度で済む。だが、あなたに「グラスに注いでいいですか」と訊かれ、「どうぞ」と答えたのをボスに見つかれば、私はクビだ。
厳密には著作権を侵害するが、ごく普通でまったく問題のない事柄というのはごまんとある。そして出版社と契約を結ぶ私は、それらに許可を与えられない。あなたが私に尋ねれば、私は編集者に尋ねなくてはならず、編集者は自分でも問題ないと思っていながらノーと言う。私が食い下がれば、編集者は法務に尋ねなければならず、法務もほぼ確実にノーと言う。彼ら自身が問題ないと思っていてもだ。アナキストのブックフェアで本を7部売りたいとか、学校のイントラネットに本の数章をアップしたいとか、そういう相手のために何時間もかけて法的合意の書類を整えるなど、筋が通らないのだから。
自分の利用がどの区分に入るのかを読み違えて、法廷に立たされるなんてことはありうるのだろうか? まあ、あるのかもしれない。だがそれが心配なのだとしても、私に許可を求めたところで何の役にも立たない。私はどうせノーと言う。
人生は厳しい。
本を読もう。
Pluralistic: Better to beg forgiveness (31 Jul 2026) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: July 31, 2026
Translation: heatwave_p2p