以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Premature Internet Activists」を翻訳したものである。

Pluralistic

「早すぎた反ファシスト」――赤狩り時代に巻き込まれた左派たちが自らを皮肉るための呼び名だ。これは、米国が宣戦布告する前にスペインへ渡り、フランコのファシストと戦った人々を指す言葉だった。当時の米国にとって、ビジネスフレンドリーで反共産主義的なイタリア、スペイン、そしてもちろんドイツといったファシスト枢軸国は、まだ敵ではなかったのである。

https://www.google.com/books/edition/In_Denial/fBSbKS1FlegC?hl=en&gbpv=1&bsq=%22premature+anti-fascist%22&pg=PA277&printsec=frontcover

この皮肉な呼び名が意味するのは、ファシズムへの反対は――米国の大多数が世界的なファシスト支配の脅威に目覚めた後でなければ――反米的行為とみなされたということだ。「早すぎた反ファシスト」として戦ったことは、先見の明どころか、むしろ社会的な追放の理由とされたのである。

最近、この「早すぎた反ファシズム」という言葉が心に引っかかっている。現代のファシストたちが、インターネットを利用して世界的な権威主義体制を築こうとしているからだ。彼らの目論見は、人類の繁栄と地球環境そのものを脅かしている。もはや誰も、インターネットは政治とは無関係だと言い切ることはできない。インターネットの規制やガバナンス、その構造をめぐる議論を軽視することもできないはずだ。

しかし、ほんの少し前まで、テック政策は取るに足らない問題とされ、テック関連の社会運動は「スラックティビズム(怠惰な活動主義)」として一蹴されていた。

https://www.newyorker.com/magazine/2010/10/04/small-change-malcolm-gladwell

インターネットの行方を人権問題として捉えることは、妄想的だとされた。「オタクたちがスタートレックについて語り合うフォーラムのルールを、大げさに議論しているだけだ」と。Napster時代の著作権争いで、著作権侵害を理由にオンラインコンテンツが簡単に削除されることを懸念する声があがると、「海賊版を擁護しているだけだ」と一蹴された。暗号化技術の合法化と普及が人権を守ると主張すれば、「本物の人権闘争は、連邦裁判所でNSAと戦うことではなく、ブル・コナー[訳注:1960年代に警察署長/公安委員長として公民権運動を徹底的に弾圧した人物]と街頭で対峙することだ」と非難された。

そして今、我々は現実を突きつけられている。議会は1988年以来、消費者プライバシー法を更新していない。当時の改正といえば、ビデオ店の店員が客のVHSレンタル履歴を漏らすことを禁止しただけだ。大規模な監視体制は、ランサムウェアやなりすましから、トランスジェンダーや移民といった「国内の敵」に対する国家監視まで、あらゆる抑圧を可能にしている。さらに厄介なことに、企業の監視システムと国家の監視装置は、実質的に一体化している。政府は企業に対するプライバシー規制を緩め、企業は見返りに、人々の事細かな個人情報を収集・保存している。その膨大なデータベースは、政府にとって都合の良い非公式の監視網として機能しているのだ。

https://pluralistic.net/2023/08/16/the-second-best-time-is-now/#the-point-of-a-system-is-what-it-does

かつての言論の場は、今や億万長者たちの手に落ちた。彼らはオリガルヒに批判的な発言を検閲し、反体制的なユーザを監視して政治的弾圧に加担している。エリート層に属するレイプ犯、泥棒、戦争犯罪者、殺人者に関する不都合な報道は、にわか作りの著作権侵害申し立てによって、削除されるか、目に触れにくい場所に追いやられている。

https://pluralistic.net/2024/06/27/nuke-first/#ask-questions-never

2025年の今、テックガバナンスをめぐる闘争を「些末な問題」や「本物の政治とは無関係」と片付ける者を見つけるのは難しいだろう。

ここで「早すぎた反ファシスト」の話に戻りたい。最近、インターネットアクティビズムの歴史を書き換えようとする動きが出てきている。彼らによれば、第一世代のテック解放活動家たちは、自由でオープンなインターネットのために闘っていたのではなく、単にテック企業の手先だったのだという。P2P戦争は、言論やプライバシー、分散化のためではなく、テック業界がエンターテインメント産業と戦うための道具にすぎなかった。DRMとの闘いは、修理する権利やプライバシー、アクセシビリティを守るためではなく、Kazaaに映画をアップロードしやすくするためだけだった。暗号化技術の普及を訴えたのは、一般市民を企業や国家の監視から守るためではなく、テロリストや児童虐待者が警察の目を逃れやすくするためだった、というわけだ。

今や、誰もがこれらの闘争が現実の問題だったことを理解するようになった。中央集権化、相互運用性、ロックイン、監視、言論、修理の権利について、真剣に考えなければならない、と。しかし私のように、四半世紀にわたってこれらの問題と向き合ってきた人間は、「テック企業の手先」というレッテルを貼られることになった。「テック闘争を人権問題と勘違いした不真面目な愚か者」から「テック企業の役に立つ馬鹿者」へと一夜にして転落したのである。

つまり、我々は「早すぎたインターネットアクティビスト」なのだ。

それについて、皮肉や不満を言いたいのではない。これは危険な事態なのである。歴史的な文脈を理解することなくテックアクティビズムに取り組めば、間違った方向に歩を進めることになるだろう。その典型が、通信品位法[CDA]第230条をめぐる議論だ。この条項は、違法な言論行為についてインターネットユーザに責任を負わせる一方で、その言論をホストする組織を免責するものだが、多くの現代のテック批判者たちは、これを「ビッグテックへの贈り物」とみなし、廃止を主張している。

これは極めて危険な考えである。CDA 230は、人々が集まって何かを議論する場を提供したいすべての人にとって必要不可欠な法的基盤だ。この条項がなければ、誰も安全にMastodonサーバを運営したり、待望される連合型Blueskyサーバを立ち上げたりすることなどできやしない。そもそも、グループチャットやメッセージボードすら運営できなくなるだろう。

https://www.techdirt.com/2020/06/23/hello-youve-been-referred-here-because-youre-wrong-about-section-230-communications-decency-act

CDA 230を廃止したところで、Facebookが消滅したり、その行動を改めたりすることはない。むしろ、誰もFacebookの代替を提供できなくなり,我々のデジタル空間は未来永劫、ザックの支配下に置かれることになるだろう。だからこそマーク・ザッカーバーグは第230条の廃止を望んでいる。

https://www.nbcnews.com/tech/tech-news/zuckerberg-calls-changes-techs-section-230-protections-rcna486

発言の場を守る政策を支持することは、必ずしもテック企業の利益を擁護することではない。確かに両者の利害が一致することはあるが、それは偶然の産物に過ぎない。テックプラットフォームが――たとえ利己的な動機からであれ――ユーザの味方をする時、そこから生まれる法的先例と規範はすべての人を守ることになる。たとえば、AppleがFBIの要求を拒否し、暗号化を守り抜いた時のように。

https://en.wikipedia.org/wiki/Apple%E2%80%93FBI_encryption_dispute

もしAppleがその時に屈していたら、今日、Signalのようなサービスがプライバシー保護の手を緩めるよう求められた時、それに抵抗することは極めて困難になっていただろう。私はAppleのファンではないし、自殺防止ネットを設置しなければならないほど過酷な中国の搾取工場へと生産を移転する役割を果たしたことでCEOの座を手に入れたティム・クックを、人権の擁護者などとは思っていない。それでも私は、AppleのFBIとの闘いを支持したし、もし彼らが英国政府による暗号化破壊の要求に抵抗するのであれば、再び支持するだろう。

https://www.bbc.com/news/articles/c20g288yldko

これは決して私をAppleの手先にするものではない。私はAppleの収益など一銭たりとも気にかけていない。私が気にかけているのは、Appleユーザとそのプライバシーである。だからこそ私は、Appleが利益のためにユーザのプライバシーを損なう時には、厳しく批判する。

https://pluralistic.net/2024/01/12/youre-holding-it-wrong/#if-dishwashers-were-iphones邦訳記事

スクレイピングをめぐる議論にも同じことが言える。私は誰よりもAI企業を批判的に見ているが、AIと戦うという名目でスクレイピングを禁止しようとするのは、大きな間違いだ。

https://pluralistic.net/2023/09/17/how-to-think-about-scraping/

Facebook上の有料政治的偽情報を追跡できるのは、スクレイピングのおかげなのである(Facebookが自ら明かすことは決してない)。

https://pluralistic.net/2021/08/05/comprehensive-sex-ed/#quis-custodiet-ipsos-zuck

また、マスクの手下たちがDOGEのために削除したCDCとNIHのデータを救出できたのも、スクレイピングという技術があったからこそだ。

https://www.cnet.com/tech/services-and-software/how-to-access-important-health-info-thats-been-scrubbed-from-the-cdc-site

企業が望むものは必ずインターネットにとって有害だと決めつけるのは、大きな誤りである。商業的利益とオンライン上の人権が一致することは少なくない。これは資本主義を擁護するものではなく、[企業]利益(profits)が時として公共の利益(interest)と重なることを認める資本主義批判である。実際、マルクスとエンゲルスは共産党宣言の第1章で、まさにこの点について論じている。

https://www.nytimes.com/2022/10/31/books/review/a-spectre-haunting-china-mieville.html

1990年代初頭、アル・ゴアは「全米情報基盤」公聴会――通称「情報スーパーハイウェイ」公聴会を主導した。その目的は、インターネットの管理権を軍事機関から民間へと移すことにあった。確かに、この移管先となった組織の多くは、インターネットでの収益を目指す商業機関だった。ただし、すべてがそうだったわけではない。また、理論的には、この移管をより多く公的機関に対して行うことも可能だったはずだ。

しかし最近、私の左派の仲間たちの間で、この出来事を単なるインターネットの「民営化」として描く見方が広がっている。これは厳密には正しいが、むしろ非軍事化と呼ぶ方が本質を捉えている。つまり、企業はFCCのような機関から権限を奪ったのではなく――ペンタゴンから受け継いだのである。左派として、インターネットが国防総省の管理下にあった時代を懐かしむ筋合いはない。

30年前、いや40年前から、テクノロジーが人権に及ぼす影響に注目していたからといって、投資バブルを煽る企業の手先だったことにはならない。それは、デジタルライツが人権の一部であり、サイバースペースは必然的に現実世界と融合し、ネットのために我々が築いたルール、規範、インフラが、いずれ他のどんな政治的決定とも同じくらい重大な結果をもたらすことを、早くから理解していたことを意味する。

私は「早すぎたインターネットアクティビスト」という呼び名を誇りに思っている。先日、我々は電子フロンティア財団の23周年を祝った。そして昨日、我々はイーロン・マスクとDOGEを提訴した。

https://www.eff.org/press/releases/eff-sues-opm-doge-and-musk-endangering-privacy-millions邦訳記事

Pluralistic: Premature Internet Activists (13 Feb 2025) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow

Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: February 13, 2025
tTranslation: heatwave_p2p

カテゴリー: Digital Rights