Electronic Frontier Foundation

批評家は、おそらくほかの誰よりも、フェアユースを理解していなくてはならない。批評対象の作品の文章や画像を使わずに、本や映画、ビデオゲームをレビューすることはできない。それが言論の自由にとってフェアユースが極めて重要である所以だ。

したがって、プロの批評家は、ほかの誰かのフェアユースの権利を奪い取ることに関しては最も程遠い存在であるといえる。しかし先月、VentureBeatの記者、ジェームズ・グラッブは、デジタルミレニアム著作権法(DMCA)を利用して、Twitterに彼の記事を複数の段落をハイライトした別の批評家を検閲した。

5月2日、グラッブは、VentureBeatのゲームセクションにリリースが迫る『レッド・デッド・リデンプションII』のレビュー記事を公開した。当然ながら、万人が彼の意見に納得するわけではない。別のゲーム批評家のジェイク・マギーは、グラッブは「進歩的な政治姿勢」を反映したゲームが好きなだけだとTwitter上で攻撃した。マギーは批判に加え、グラッブの記事の一部のスクリーンショットも投稿していた。彼のフォロワーに、指摘の根拠となる部分を示すためだ。

しかし、その行為はグラッブにとってはやりすぎだと映ったようだ。グラッブは即座にTwitterにDMCA通知を送付した。Twitterは迅速にマギーが投稿した画像を黒塗りにした。それから数日後、黒塗りは取り除かれ、投稿は復元された。

やりすぎってどれくらい?

グラッブのなかで、著作権削除をどのように正当化されているのだろうか? グラッブは、マギーが記事全文のスクリーンショットを投稿しており、「許容できるフェアユースの範囲を越えている」と主張した。さらにグラッブは、マギーが記事にリンクしただけなら、削除要請はしなかったとも述べていた。

しかしこれは間違いだ。まず第一に、マギーは記事の一部分(複数のパラグラフ)を投稿しただけであった(グラッブはのちに事実誤認であったことを認めた)。第二に、たとえ作品全体を使用したとしても、フェアユースに該当することはある。4つの要素からなるフェアユース・テストでは、利用の目的や性格、作品の市場に及ぼす影響など、複数の要素を総合的に加味して判断される。使用された部分の量や割合だけが勘案されるわけではない。裁判所は、使用された量を検討する際には、文脈に注目する。たとえば批評家が詩や写真を対象とする場合、小説よりも多くの割合を使用する必要に迫られる。

フェアユースの判例はこれを支持している。たとえば、Katz v. Chevaldina裁判では、ブロガーによる写真の複製がフェアユースであると判断されている。また、ニューヨーク控訴裁は2014年、Swatch v. Bloomberg裁判で、Bloombergが通話内容の全文書き起こしを掲載したことを支持している。ほかにも例はまだまだある。1992年のSega v. Accolade裁判では、ソフトウェアプログラム全体を使用していてもフェアユースに該当するとの判断を示している(リバース・エンジニアリングを目的とした複製をめぐる裁判だった)。

最後に、議論の対象となる作品にリンクすることは、インターネットにおける一般的な作法ではあるが、絶対にそうしなければならないというわけではない。

ジャーナリストや批評家は、フェアユースの基本を理解していなくてはならない。フェアユースは彼らの仕事の基盤となる権利なのだ。少なくとも、プロの批評家であれば、DMCAを利用して別の批評家の資料を削除させる前に、フェアユースについてもっとよく考えおくべきだった。

しかし、そうはならなかった。だから我々はこのVentureBeatのTwitter事件をDMCA削除の恥の殿堂に追加することにする。

脅迫あるいは削除の日付:
2018年5月2日

A Critic Uses the DMCA to Avoid Criticism | Electronic Frontier Foundation

Author: EFF / CC BY 3.0 US
Publication Date: June 6, 2018
Translation: heatwave_p2p