以下の文章は、電子フロンティア財団の「What if “Sesame Street” Were Open Access?」という記事を翻訳したものである。

Electronic Frontier Foundation

子ども向けテレビ番組「セサミストリート」とストリーミングサービスのHBO MAXと新たに提携するというニュースが、インターネットに波紋を広げている。今年から「セサミストリート」の最新エピソードは、まずはHBOとHBO MAX1でデビューし、PBS(公共放送サービス)での放映は「ある時期に」行われるようになるという。先日、Parents Television Councilのティム・ウィンターは、「HBOは(セサミストリートの最新話を視聴できる余裕のない)恵まれない家族を人質に取っている」とニューヨーク・タイムズと語った。

セサミストリートの製作に公的資金が投入されていることが、こうした動きを余計に苛立たせている。では、代替案を考えてみよう。仮に「セサミストリート」がオープンアクセスだったらどうなっていただろうか? 番組の資金が一般公開を要件とするものであったならどうなっていただろうか?

オープンアクセスを広めるためには、経済的手段に拠らず誰もが特定の資源を利用できるという、これまで不可能だと考えられてきた世界が可能だということを政策担当者に示さなくてはならない。政府が資金提供した研究成果を、高額な雑誌に閉じ込めてしまうのではなく一般に公開するなどということは10年前には到底考えられなかったことだ。だが2013年、ホワイトハウスは研究に資金提供を行うすべての政府機関に対し、学術誌に掲載されてから少なくとも1年以内に研究成果を無料公開することを義務づけるポリシーを導入するよう命じた。当時は1年間という猶予期間をさらに縮めることに考えも及ばない人たちもいたが、その後数年のうちに、多くの主要財団が、資金を提供した研究について公表初日に誰もがそれを共有・再利用できるライセンスで一般公開することを義務づけるポリシーを導入していった。

オープンアクセス運動は、政府資金による研究を公衆に提供するという点で飛躍的な進歩をもたらした。しかし、査読論文は公的資金によって生み出されるもののごく一部に過ぎない。科学研究を一般の人々が利用できるようにすれば、最先端の医学研究から最も恩恵を受ける人々が締め出されることを防げる。それと同様に、政府資金を受けた教育リソースを誰もが享受できるようにすれば、経済的に恵まれない学生が裕福な学生と同様の質のリソースにアクセスできるようになる。政府が一般公開されない教育教材に資金提供することは、社会の格差を縮めるどころか、さらに深刻化させかねない。

連邦政府は2011年、国内のキャリア・トレーニング・プログラムを改革するため、20億ドルを投じた野心的なイニシアチブを開始した。プログラムの一環として作成されたすべての教育リソースは、誰もが利用・再配布できるライセンスで一般公開することが義務づけられた。このプログラムはオープンな教育リソース(OER)運動の存在を全国的に知らしめ、それ以来、多くの州が公的資金提供をうけた教育教材をオープン化することを求めるOERポリシーを採用している。2017年には教育省が、資金提供するすべての教材を一般公開する規則を採択してもいる。だがこのポリシーは、別の省庁が資金提供を行う豊富な教育リソースには適用されない。

話を「セサミストリート」に戻そう。確かに、非営利団体のSesame Workshopが連邦政府から直接に提供される資金は収益のごく一部に過ぎない。だが、同団体はPBS番組を放映する全国の公共テレビ局から多額の協賛金を得ているし、さらに公共放送協会(議会が設立し、資金提供する非営利団体)を介して政府から間接的に資金提供をうけてもいる。また、補助金や企業スポンサー、そしてあなたのような視聴者からの資金も得ている。もし政府や各種機関、個人の寄付者が、資金提供した作品の一般公開を要求していたなら、HBOが「セサミストリート」のアクセスを奪うような未来が訪れることはなかっただろう。実際、政府が文化・教育事業に資金を提供する最大の目的は、その成果を公共において利用可能にすることにこそあるべきだ。アリッサ・ローゼンバーグはワシントン・ポストに次のように書いている。

つまり、美術館のない地域に住む人たち、ケーブルテレビをひく余裕のない人たち、あるいはケーブルテレビをひいていてもプレミアム契約に加入できない人たちが、芸術や文化にアクセスできるのか、ということだ。民間資金で博物館を建設できても、その維持には公的助成が必要になるだろう。エルモグッズの売上のおかげで、「セサミストリート」が存続し、新しいエピソードが次々に製作されているのだろうが、どんな経済的背景を持つ子供であっても等しく最新エピソードにアクセスできたのは、PBSという経路があったからこそだ。

あるリソースに公の資金を投入したのであれば、公の個々の成員がそのリソースにアクセスする際に再び料金を課すべきではない。オープンアクセスは米国の学術出版のあり方を、OERは大学の教材のあり方を変えた。だが、政府が資金を提供する教育、娯楽、美術品など多くのリソースが手つかずのままだ。こうしたリソースへの資金提供プログラムを立案する政策担当者は、この「セサミストリート」の話は1つの教訓とすべきだろう。パブリックアクセスがはじめからプログラムにハードコーディングされていなければ、誰かが障壁を作り、それによって公的資金の成果を金に変えようと目論むことになるのだ。

What if “Sesame Street” Were Open Access? | Electronic Frontier Foundation

Author: Elliot Harmon (EFF) / CC BY 3.0 US
Publication Date: October 25, 2019
Translation: heatwave_p2p
Header Image: Mikhail Rakityanskiy