以下の文章は、電子フロンティア財団の「Fair Use Creep Is A Feature, Not a Bug」という記事を翻訳したものである。

Electronic Frontier Foundation

我々は、著作権政策の指針となるべき重要な原則を指示する行動・議論のための「著作権ウィーク」に参加している。今週は連日、さまざまなグループは著作権法や著作権政策のさまざまな課題を取り上げ、何が問題となっているのか、そして著作権がクリエイティビティとイノベーションの促進のためにどのような役割を果たすべきかを取り上げる。

EFFや弁護士、学者、活動家たちは、しばしばデジタルミレニアム著作権法512条と(かつての通信品違法)230条をインターネットの法的基盤として強調する。だがもう1つ、少なくともそれらと同じくらい重要で、もっと古くからあるドクトリンがある。フェアユースだ。フェアユースは数十年も前に、著作権法第107条として法制化された。端的に言えば、公衆が著作権者の許諾なしに様々な状況で著作物を利用する権利のことである。書評家が対象の書籍から引用したり、パロディビデオに映画の抜粋を入れたり、セキュリティ研究者がマルウェアを検証するためにソフトウェアプログラムをコピーできるのは、フェアユースのおかげだ。

フェアユースは少なくとも2つの理由からインターネットに不可欠である。第一に、電子メールやテキスト、画像の閲覧、TikTok動画の作成に至るまで、オンラインで行うほとんどの行為に、著作物の作成・複製・再利用が伴うためである。著作権は、著作物の限定的ながら長期的な独占権であるため、理屈の上では、現在から今後数十年にわたって、作品の利用や閲覧にはライセンスが必要となる。

第二に、技術革新がゼロから始まることはほとんどないからである。開発者は既存の技術の上に何かを構築し、うまくいけばそれがこれまでの何かを改良していくのである。だが、そのテクノロジーにコードを含まれていると、著作権によって“保護”されてしまう。そうなると、アドオン・イノベーションは権利者からの許可が必要になる。それは技術開発への拒否権を与えることをも意味する。

デジタル技術が著作権の範囲を劇的に(ときに物議を醸しながら)拡大してきた。その一方で、フェアユースは公衆の権利の拡大を後押しする力を秘めている。

その例は枚挙に暇がない。たとえば2021年、最高裁はGoogleによる特定のJavaアプリケーション・プログラミング・インターフェース(API)の利用を適法なフェアユースであると判断した。我々は「APIはそもそも著作権の対象ではない」と主張してきたが、この判決により、ソフトウェア開発者が他人が書いたソフトウェア・インターフェースを利用・再利用・再実装するというごく一般的な習慣、つまり我々が毎日使うインターネットやパーソナルコンピューティング技術を支える習慣の法的確実性がより強固なものとなった。また、Authors’ Guild v. Hathitrust事件では、第2巡回区控訴裁判所は、書籍のデジタル化がフェアユースによって保護されると判断した。権利者の不満とは対照的に、いずれの判決も新たな創造性への投資を抑制するものではなかった。

今日、フェアユースは、インターネットがなければ決して実現できなかったであろう方法で、文化、アイデア、知識を共有しようとする公益団体の取り組みを後押しするものともなる。ある事件では、図書館員が蔵書の管理・貸出方法について決定する能力が危機に瀕し、また別の事件では、法律へのアクセスが問題となっている。

Hachette v. Internet Archive事件では、世界最大の出版社のうち4社が、管理されたデジタル貸出(CDL: Controlled digital lending)を阻止しようとしている。この仕組みでは、利用者は書籍のデジタルコピーを最大2週間チェックアウトすることができて、チェックアウトできる冊数は、インターネット・アーカイブとそのパートナー図書館が物理的に所有する書籍の数に限定される。つまり、インターネット・アーカイブとそのパートナーである図書館が1冊の本しか所有していない場合、一度に借りられるのは1人の利用者だけということになる。

著者、図書館、学者の支持を受け、インターネット・アーカイブはCDLが著作権の究極の目的である「共通の文化を豊かにする」ことに貢献する適法なフェアユースであると説明する。インターネット・アーカイブはCDLを通じて、利用者の書籍へのアクセスを助け、出版社が興味を失った書籍を流通させ続けることで、研究と学習を促進している。また、このデジタル貸出の利用者は、OverDriveやAmazonのような営利企業に読書習慣を追跡されずに本を借りられるようになる。いま必要とされているのは、図書館員に蔵書を物理的に管理するのと同程度に、デジタルコレクションを管理できる権限を与えることだ。だが、もし出版社の望むがままになれば、書籍は増え続ける他の著作物同様にレンタルされるだけで、所有することはできず、出版社の気まぐれで利用できなくなってしまう。

ASTM et al v. Public.Resource.Org事件では、3つの巨大な業界団体が、法が定める建築基準などをオンラインに掲載する小さな非営利団体Public.Resource.Orgを排除しようとしている。法は万人のものであり、強制的な登録や支払い、その他の障害なしに見つけ、閲覧し、コメントできなくてはならないはずだ。だが、業界団体は、標準を開発したボランティアたちの舵取りを手伝ったのだから、自分たちこそがその法律を所有し、アクセスをコントロールできるのだと主張する。昨年、Public Resourceが連邦控訴審に説明したように、たとえ標準が著作権の対象になりえたとしても、研究やコメントを容易にするため無料でオンラインに公開することは典型的なフェアユースである。下級審はすでにその結論に達しており、控訴審も同意するものと思われる。

これらの訴訟は現在も係争中であるが、もしインターネット・アーカイブやPublic Resourceがフェアユースの原則に頼れなければ、そのプロジェクトやそれらが生み出す利益は完全に失われてしまうだろう。

だが、フェアユースであることが明白な場合でも、実務的、技術的、法的な障壁によって、その行使が妨げられることがある。フェアユースを主張するにもお金がかかるからだ。かつてラリー・レッシグ教授が言ったように「フェアユースとは弁護士を雇う権利」なのである。我々の多くはそのリソースを持ち合わせてはいないし、プロボノの弁護士に頼ることもできない。さらに悪いことに、権利者はしばしば契約、技術的手段、法的制約を駆使して、フェアユースを阻もうとする。たとえば、ゲーム業界では、ベンダーはユーザにアドオンサービスの利用を禁止する契約への同意を求めたり、そのようなサービスを提供しようとする第三者を躊躇なく訴えている。そして、もし誰かがそのデジタルロックを破ろうものなら、たとえそれが合法的な目的であろうと、DMCA第1201条に基づく訴訟リスクを負わされてしまう。

だが、この問題は伝統的なクリエイティブ産業にとどまらない。医療機器からトラクターに至るまで、あらゆる製造業者が同じ手口で、フェアユースとして保護されるはずの独立系修理や競争的イノベーションを阻んでいる。

テクノロジーが我々の生活のあらゆる側面に浸透するにつれ、権利者たちは著作権を悪用してゲートキーパーとしての伝統的な立場を強硬に守ろうとするだろう。幸いなことに、フェアユースも同様に、著作権の本来の目的である「進歩を促すこと」を保護するために成長してきた。ハリウッドやジョンディア(訳注:トラクターメーカー)がなんと言おうと、これはバグではなく機能なのだ。

Fair Use Creep Is A Feature, Not a Bug | Electronic Frontier Foundation

Author: Corynne McSherry / EFF (CC BY 3.0 US)
Publication Date: January 19, 2023
Translation: heatwave_p2p