5月24日の衆議院本会議で、米国を除く11カ国が参加する環太平洋連携協定(TPP11)の関連法案が賛成多数で可決された。
この法案には、米国の強い意向でねじ込まれ、米国のTPP離脱に伴い凍結されていたはずの「著作権保護期間の死後70年への延長」が含まれている。TPP11のための法改正であれば、保護期間延長は不要なはずだ。
「無名の一知財政策ウォッチャーの独言」にて解説されているように、すでに発効が絶望的となっている「米国込みのTPP」のために整備した関連法案を、「卑劣かつ姑息」にもTPP11で凍結された項目を除外することなくTPP11の関連法案として通してしまおうとしているのである。
合理性なき保護期間延長
そもそも著作権の保護期間延長に、社会制度上の合理性はまったくない。もちろん、今回もそうだ。
日本国内で、保護期間延長の直接的な恩恵を享受するステークホルダーは、死後50年を迎えそうな作家の作品を独占的に出版している出版社や管理する著作権管理事業者、自尊心を際限なく肥大化させている作家、死後50年を経ても利益を生み出す極めて少数の作品の著作権を相続している遺族くらいなものだ。利益を得られる人々はごく限られている。
保護期間の延長をめぐっては、これまで何度となく議論されてきた。延長賛成論者から提示される根拠は著しく希薄で、死後50年から70年に延長すればクリエーターの創作意欲が湧くといった感情的な主張や、夭折した作家の遺族が可哀想だといった情緒的なものばかりで、創作のインセンティブという著作権という趣旨に照らして何ら説得力を持つものではない。
極めつけの主張を1つ紹介しておこう。
中村伊知哉さんは「なぜ著作権法で遺族の生活保障までしなくてはならないのか分からない」と根本的な問題を指摘する。「自分の死後、家族の生活を守りたいと思うのは、作家もそば屋やうどん屋の主人も同じ。作家の遺族は著作権法で保護されるが、そば屋・うどん屋の遺族を守ってくれる『そば屋法』や『うどん屋法』はない」(中村さん)
(松本)零士さんはこの意見に対して「そばやうどんと一緒にしてもらっては困る。作家の作品は残るが、そばやうどんは私にも作れる」と反論した。
奇遇なことに、私もそばやうどんを作れるし、マンガや文章も書ける。ということは、そばやうどんと同じように保護は必要ないということなのだろうか。
余談だが、先日JASRACの浅石道夫理事長が著作権は「基本的人権」だと話すように、権利者意識が際限なく肥大化した結果、いわば人権の威を借りてまで権利を拡大しようとしてきた。財産権は人権として憲法で保障されており、だから知的財産権は人権なのだ、というロジックなのだが、憲法上の財産権は政府から不当に財産を簒奪されないことを保障するものであり、解釈を拡張するにしても、経済的自由権が精神的自由権より優先されるわけでもない。JASRACに関して言えば、著作権(彼らの言う人権)を創作者に信託(譲渡)させて著作権(人権)管理を行っているわけだが、ならばJASRACはファンキー末吉氏の人権を侵害しているのではないかとか、著作者人格権の不行使契約は人権の抑圧ではないのかとか、人権を譲渡させた挙げ句に本来の持ち主からも(狭い範囲の例外を除いて)使用料徴収するとかひどくねとか、(制度上、譲渡しなければ権利行使できないというのは理解した上で)いろいろ疑問が湧いてくるけれど、この辺で閑話休題。
もう1つ、保護期間を延長すべき理由としてあげられるのが、国際的ハーモナイゼーション、あるいはグローバルスタンダードだ。要するに、日本が批准するベルヌ条約では死後50年より長く設定する義務はないのだけれど、米国とかEUが死後70年に設定しているから、それを国際標準として日本も死後70年に合わせましょう、そうしないと保護期間は相互主義だから、死後70年の国でも日本の著作物は死後50年までしか保護してもらえないよ、という主張である。
しかし、慢性的なコンテンツの輸入超過に陥り、著作権切れが迫るコンテンツの輸出に成功しているわけでもない日本にとって、保護期間延長は利益にもたらすどころか、むしろ損失を拡大するものとなる。海外に流れていく莫大な著作権料の直接的・間接的な出処は、国民の財布だ(国民の財産が国策によって失われるわけだが、これも人権侵害なのだろうか)。
また、米国が保護期間を死後70年(法人著作物は公表後95年)に延長したのはディズニーを始めとする権利者からの強いロビー活動の成果であり、EUにおいては域内単一市場化を焦るあまり反対意見を押し切ってまで(1・2)統一しただけで、70年という著作権保護期間に合理性があったわけではない。
適正な著作権保護期間は公表後15年程度だという経済学者のルーファス・ボロックのような「死後50年でも長過ぎる」という指摘は別にしても(個人的には支持するが)、保護期間の延長を世界中に広めようとしてきた米国ですら、死後70年の保護期間は長すぎるのではないか、との意見が出始めている。
たとえば、2013年にはマリア・パランテ米著作権局長(当時)が、死後50年を経過した著作物について著作権局への登録がない場合にはパブリックドメインにしてはどうか、と提案している。また、米オーサーズ・ギルド(著作組合=GoogleのBook Scan訴訟の原告でもある)は、「多くの会員がパブリックドメインに入った過去の作品への潤沢なアクセスから大いに利益を得ているため、保護期間延長を支持しない」「むしろ、政治的に実現可能なのであれば、我々は著作者の死後50年の保護期間に巻き戻すことを支持する」とまで述べている。著作権マキシマリストと見られている団体ですら、その弊害を意識し始めているのだ。
国際的ハーモナイゼーションやグローバルスタンダードを理由にするのであれば、米国やEUの保護期間を50年間に短縮することのほうが、制度の合理性の観点からは必要とされているのである。
無駄切りされた保護期間延長カード
もちろん、そのような制度の合理性とは無関係に、貿易交渉のカードとして利用されたと見ることもできる。しかし、今回に関しては、そのような慰めすら許されない。
日本の保護期間延長の恩恵を最も受け、最も高く買ってくれるはずの米国が不在であり、現協定においては凍結されている条項であるにもかかわらず、そのカードを無駄に切ろうとしているのだ。いずれ米国がTPP再交渉に応じるにしても、あるいは二国間協定の交渉が進むにしても、そのカードはもはや有効な交渉材料にはなりえない。どれだけアピールしたところで、保護期間延長に代わる別のカードを要求されるのがオチだろう。
もちろん、何の理由もなく国益を損ねているわけではない。米国込みのTPPが発効されることを前提として、今年7月に大枠合意に至った日EU経済連携協定(日欧EPA)において、保護期間延長を何の留保もなく受け入れてしまっていたためだ。
TPP交渉で既に譲歩した点だからいいだろうとばかりに、日本政府は日EU間の交渉においても50年から70年への著作権の保護期間延長を何の留保もつけずにまるごと受け入れているが、このような秘密の条約交渉でほとんど何の説明もなく国益の根幹に関わる点について日本政府が易々と譲歩したことに私は激しい憤りを覚える。その上例によってEU側で公表している条文の内容についてすらなお概要説明だけで、その翻訳すら公開しないなど完全に国民をバカにしているとしか言いようがない。
その公表に際しても、大枠合意から4ヶ月も経ってからひっそりと公開するなど、日本経済新聞に「公表することで注目を集め、反発を招きたくないとの思いが透けて見える」と書かれるほどの姑息さである。外務省はよほどこの大チョンボを隠し通したいとみえる。
というわけで、TPP11においては不要であるはずの保護期間延長だったのだが、日欧EPAでうっかり呑んでしまったがために実施せざるをなくなってしまったというわけだ。
ただ日欧EPAは日欧ともに正式署名には至っておらず、ちゃぶ台返しはできなくもないのだろうが、波風を立てずになんとか発効までこぎつけたい政府としては、TPP11の関連法案という体でお茶を濁したいのだろう。
もちろん、日欧EPAにおいても、極めて重要なカードだったのだと言い張ることもできる。しかし、交渉過程が公開されないことにはそれが事実であるかどうかを判断しようもない(そもそも最終文書すら公開されていない)。「政府がそう言っている」だけのことだ。もちろん、その交渉過程は交渉国間の守秘義務を盾に秘匿され、誰も責任を負うことはない。政府を信頼するに足る証拠は何一つないのだ。そうして、国民に議論に参加する機会を一切与えず、利害関係者の声ばかりを反映した秘密交渉の末に、国益を損ねるような形で著作権保護期間の延長が立法されてしまうのだ。
外圧を利用し、民主主義的な政策形成プロセスを回避したポリシーロンダリングによって、我々の文化にとって極めて重要な政策が政府のフリーハンドで決められてしまう。そしてそれに対して誰一人肝心な部分の責任を負わない。非常に残念な、しかし最近よく耳にする話である。
保護期間延長で失われるもの
著作権の保護期間が延長されてしまえば、我々は文化的に大きな痛手を負う。
多くの人に身近なところで言えば、毎年1月1日の「青空文庫」のパブリックドメインデーのお祝いは、20年先までお預けだ。出版社などは、我々が責任を持ってお届けするみたいなかっこいいことを言いそうであるが、彼らも金にならないことはしない。権利者不明のため誰にも利用できなくなっている孤児作品や、経済的利益が見込めないために塩漬けにされている死蔵作品はますます増えていくことになる。
僕のように子供のいない作家の著作権は誰が相続するのかわからない。死後20年もしないうちに継承者不明となって本を出そうとしても不可能になる。そして著作権が切れる70年後には完全に忘れ去られている。著作権保護期間の延長はデメリットでしかない。 https://t.co/lRfjasnig8
— 太田忠司 (@tadashi_ohta) 2018年5月26日
さらに、オーサーズ・ギルドが述べているように、我々の文化はパブリックドメインからの恩恵を大いに受けている。実際、我が国でも2005年1月にサン=テグジュペリの『星の王子さま』がパブリックドメインになると、無数の新訳版が出版された。「サンテグジュペリ(1944年没)は欧米では権利が続いているが、日本では勝手に翻訳が出せる。野蛮な国と見られているだろう」と発言し、著作権保護期間の延長を強く訴えていた作家で著作権ロビーストの三田誠広氏ですら、その翌年には自らが翻訳した『星の王子さま』を講談社から出版している(表紙を見る限り、挿絵はオリジナルのままのようだ)。
これは翻訳のケースであるが、利用が自由になることで、二次創作やリミックスといった創作の可能性が大いに広がる。著作権による利用の制限が創作のインセンティブになる一方で、パブリックドメインとして利用が自由になることも創作のインセンティブ、さらにはモチベーションを促す。
著作権は、クリエイターに創作を促すインセンティブを生み出し、その複製物の流通を確実なものにするために、本来的には自由であるはずの情報の利用や二次使用を我々自らが制限することで成り立っている。際限なく肥大化する制限は、その目的を達成するためだけに設定されているのだろうか。むしろ、その目的を損ねているのではないか。改めて考える必要がある。
我々が必要としているのは、ほんの一握りの金の卵を生むガチョウを生き永らえさせることではなく、新たな、そして多種多様な創造を育むための自由な(少なくとも不当に抑圧されることのない)環境だ。果たして、そのためになすべきことができているのだろうか。
TPP関連法案はいま、参議院での審議に移っている。野党は議論が不十分として反発しているという。しかし不十分どころの話ではない。議論のための材料すら与えられぬまま、立法されようとしているのだ。