以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「The online community trilemma」という記事を翻訳したものである。
デジタル・ヒューマニティーズ[人文情報学]は、この時代における真の喜びの1つである。人類学者は社会学者のようにものを数え、社会学者は民族誌学者のように質的データと格闘し、計算言語学者は膨大な非公式言語のコーパスをスクレイピングして解読している。
https://memex.craphound.com/2019/07/24/because-internet-the-new-linguistics-of-informal-english/
私はこうしたデジタル・ヒューマニティーズの研究者たちを何人もフォローしている。もちろんダナ・ボイドもそうだが、ベンジャミン・「マコ」・ヒルもその一人だ。「フリーソフトウェア」対「オープンソース」論争の真の意味に関する彼の研究は、我々が生きる世界を理解するうえで日々欠かせない道標となっている。
https://www.youtube.com/watch?v=vBknF2yUZZ8
マコはワシントン大学の同僚であるネイサン・テブランサイス、チャールズ・キーネ、イザベラ・ブラウン、ローラ・レヴィとの共著で、新たなACM HCIの論文を発表した。タイトルは「No Community Can Do Everything: Why People Participate in Similar Online Communities(すべてを満たすコミュニティは存在しない――人はなぜ似たオンラインコミュニティに参加するのか)」である。
https://dl.acm.org/doi/epdf/10.1145/3512908
この論文は、定量的民族誌学と定性的統計分析の融合を見事に体現している。著者たちが解き明かそうとしているのは、なぜこれほど多くの類似した、重なり合うオンラインコミュニティが存在するのかだ。とりわけRedditのようなプラットフォームで見られているように、r/bouldering、r/climbharder、r/climbing、そしてr/climbingcirclejerkが、なぜ同時に存在するのか。
これはオンラインコミュニティ設計の領域ではきわめて古い問いであり、同時に論争の種でもある。インターネット原初のコミュニティ空間であるUsenetは、厳格な階層構造の原則に基づいて設立され、分類体系によってあらゆる種類の議論に対応する単一の正規グループを設けていた。もちろん細分化はあった(rec.pets.catsからrec.pets.cats.siameseが生まれるなど)が、設計思想としては、同じ領域を争奪する競合グループが存在してはならないとされていた。実際、不注意なUsenetユーザがうっかり間違ったニュースグループに投稿してしようものなら、しばしば叱責を受けたものだ。
Usenetにおける最初の大きな分裂は、まさにこの緊張関係から生まれた。alt.階層である。alt.は後にwarezやポルノなど、Usenetの創設時の「バックボーン・カバル」(訳注:Usenet初期の運営を仕切っていた少数のシステム管理者による非公式の集団)によって禁じられたテーマで知られるようになるが、alt.の誕生は、「gourmand(美食家)」をrec.gourmandに分類すべきかtalk.gourmandに分類すべきかという1つの論に端を発している。
https://www.eff.org/deeplinks/2019/11/altinteroperabilityadversarial
コミュニティ管理者は、良きコミュニティを構成する機能について確固たる信念を持ってサービスを設計する。こうした信念は設計者自身の個人的経験に根ざしたもので、普遍的かつ万人に共通すると想定されている。当然のことながら、この想定は誤りである。後に異なるニーズを持つ人々が集まってきたときに初めてその誤りが露わとなる。
たとえばFriendsterの「フェイクスター」問題を思い出してほしい。これは、人々がどのように親和性を整理すべきかという設計者の信念に起因するものだった。
https://www.zephoria.org/thoughts/archives/2003/08/17/the_fakester_manifesto.html
あるいは、礼儀正しさを促すために「引用」ポストを当初禁止していたMastodonの自己制約的な設計判断もそうだ。
https://blog.joinmastodon.org/2025/02/bringing-quote-posts-to-mastodon
そして論文の著者たちが指摘するように、Stack Overflowにはコミュニティの重複を厳格に禁じる方針があり、Usenet初期の設計をめぐる論争がそこにこだましている。
一見すると、この会話空間に対する階層的な原則はもっともらしく思える。「評価資本」というナイーブな経済学のレンズを通して見れば、自分の関心事に興味を持つすべての人にリーチできる場所は1つであるべきなのだろう。グループの参加者が多ければ多いほど、「エンゲージメント」――いいね、コメント、リポスト――の最大値は高まる。情報という観点からコミュニティを考えるなら、より大きなグループのほうが優れていると考えるのも容易い。特定のテーマのグループにユーザが多ければ多いほど、質問を投げかけた際にその答えを知っている人が現れる確率は高くなる。
しかし、現実のオンラインコミュニティはそのようには機能しない。あらゆるプラットフォームで、そしてプラットフォームを越えて、重なり合う「冗長な」グループが次々に出現し、長期にわたって存続し続ける。なぜだろうか。
この論文が答えようとしているのは、まさにその問いである。著者たちはデータ分析手法を用いてRedditコミュニティの重複するクラスターを特定し、その後、一見冗長に見えるこれらのグループにユーザが、なぜ/どのように参加しているのかを明らかにするため、詳細な質的インタビューを行った。
著者たちが導き出した結論は、コミュニティメンバーには「トリレンマ」が存在するということだ。すなわち、いかなるグループによっても3つの優先事項すべてを完全には満たすことができないのだ。そのトリレンマは以下のものからなる。
a)気の合う人々のコミュニティ
b)有用な情報
c)可能な限り大きなオーディエンス
このトリレンマの核心は、いかなるグループであってもこの3つのニーズのうち2つしか満たせないという点にある。巨大で活発なグループのメンバーと、親密で信頼の厚い絆を築くのは難しい。一方で、気心の知れた小さな仲間内は、求めている情報を持つ人を含むには小さすぎるかもしれない。1つのグループでは必要なものすべてを手に入れられないため、ユーザは「人間関係―情報―規模」の三角形の異なる2つの頂点を優先する複数のグループに参加するのである。
インタビューの抜粋は、この分析の骨組みに非常に興味深い肉づけを与えている。たとえば、経済学者は一般的に、オンラインマーケットプレイスは規模に依存すると考える。たとえばeBayであれば、潜在的な入札者の数が増えれば、誰かがより高値をつける可能性も上がる。それがより高値で売りたい売り手をプラットフォームに引き寄せ、eBay上の商品の多様性を増大させ、さらに多くの買い手を呼び込む。
しかし著者たちは、ヴィンテージ・レコードをやり取りする、あるコミュニティに注目している。そこでは小規模であることがむしろ利点なのだ。メンバー同士が互いをよく知り、取引をはるかに信頼性の高いものにする相互信頼の環境が成り立っているからだ。実際に相手を知っていること――そして、お互いが属するコミュニティから追い出されたくないと相手が思っていると理解できること――は、eBayの評価スコアを参照するよりも優れた取引体験をもたらす。買い手にとって売り手が少なく、売り手にとって買い手が少ないという事実は、ちょうどよいサイズのコミュニティにおける人間的なつながりを凌駕するものではない。
ここから、論文に繰り返し現れるもう1つのテーマが浮かび上がる。コミュニティの「ちょうどよい」サイズとは何か、だ。あるインタビュイーはこう語っている。
奇妙なベルカーブ(釣鐘型分布)があると思うんです。コミュニティは人々がコンテンツを投稿したくなる程度には大きくなければならない。でも、注目の奪い合いで互いがかき消されるほど大きくなってもいけない。
一部のユーザにとって果たしていた役割に対して「ちょうどいい大きさ」から「大きすぎる」状態へと移行したとき、グループが分裂する理由が生まれる。だが、分裂にはもう1つの理由もある。異なる会話規範のもとで活動したいという欲求だ。Redditのテーマ別クラスターには、「jerk」の接尾辞がついたグループ(たとえばr/climbingcirclejerk)が多数あり、そこでは新参者を萎縮させるような攻撃的で大仰な言説が歓迎される。初心者はメインのグループに誘導され、「古参」は-jerkグループで毒舌を振るう。著者たちはこれを「規制裁定[regulatory arbitrage]」――自らのニーズに沿ったルール空間を求めるコミュニティメンバーの行動――になぞらえている。
そしてもちろん、コミュニティ分裂のそもそもの起源がある。専門化[specialization]だ。rec.pets.catsがrec.pets.cats.siameseやrec.pets.cats.mainecoonsなどに枝分かれしていくあの力学である。著者たちは論じていないが、この種の専門化こそ、レコメンデーションアルゴリズムが得意とするところだ。うまく機能すれば、このアルゴリズムによる専門化は、人生を豊かにする新たなコミュニティを発見する素晴らしい手段となる。一方で、うまく行かないと見るや、我々はそれを「過激化[radicalization]」と呼ぶ。
私は2023年の著書『The Internet Con』で、「アルゴリズムによる過激化とは何か?」と題した一章をこの現象の探究にあてている。
https://www.versobooks.com/en-gb/products/3035-the-internet-con
そこで私が格闘した問いは、「エンゲージメント最大化」アルゴリズムは我々の関心を形成するのか、それとも関心を発見させるのか、というものだ。1つの思考実験を提案しよう。あなたはキッチンキャビネットを一日中見て回り、その製作に用いられる専門的な木工技術に興味を抱いたとする。帰宅して検索すると、「How All-Wood Cabinets Are Made(総無垢材キャビネットの作り方)」という動画にたどり着く。
動画は面白いが、さらに興味深いのは、制作者が動画で解説している工程を「joinery(接合技術)」という言葉で表現していることだ。そこで「joinery」で検索すると、日本の接合技術についての、無言の8分間の動画にたどり着く。今までその存在すら知らなかったものだ。動画のタイトルには日本語をローマ字化した「Kane Tsugi」というフレーズが含まれており、これは「三方留め接ぎ」を指している。さらに嬉しいことに、動画の説明欄には日本語の漢字表記「面代留め差しほぞ接ぎ」が記されている。
そこで今度は「面代留め差しほぞ接ぎ」で検索すると、興味深い結果がずらりと並ぶ。その1つは指物の木工技術に関するNHKのドキュメンタリーで、矩継ぎはこの指物に属する技法だ。指物のもう1つの接合法に「端嵌め」と呼ばれる一種の実矧ぎがあるが、YouTubeで検索しても結果は出てこない。
しかしこの用語で検索を続けると、日本の木工職人たちが端嵌めについて議論している複数の掲示板にたどり着く。Google翻訳を使って読み進めるうちに、気がつけば、あなたはこの日本の接合技術の一形式にかなり詳しくなっている。わずか数ステップで、キャビネット製作について何も知らなかった状態から、深く夢中になるほどのニッチで秘教的な日本の接合技法に取り憑かれてしまったのだ。
もしこのテーマが実用的なものではなく政治的なものであったなら、我々はこのプロセスを「過激化」と呼び、その結果――あなたが他を排除して狭いニッチな関心に自分を振り分けること――を「分極化[polarization]」と呼ぶだろう。
しかし、文学やテレビ番組、花やガラス製品の例に限定すれば、この現象は無害なものと見なされる。端嵌めの実矧ぎに夢中になるようアルゴリズムに洗脳されたなどと非難する者はいない。木工技法を渡り歩くあなたのアルゴリズム支援による探索は、説得ではなく発見の旅として扱われる。あなたは世界について――そして自分自身について――何かを発見したのだ。
話をあのUsenet時代の「冗長な」グループをめぐる最初の分裂に戻そう。「gourmand」について「rec.」階層で語りたいと思う人は、「talk.」階層とは異なる特定の会話規範のもとで参加したいと考えている。その人の関心は単に「gourmand」であることではなく、「rec.gourmand」であることにあり、「talk.gourmand」であることとは質的に異なるものなのだ。
会話のトリレンマ――規模、信頼、情報に対する解消不能な欲求――は、オンラインでの社交の最初期から我々とともにあった。それがこれほど明快で躍動感のある学術研究として定式化されたのは、まことに喜ばしいことである。
Pluralistic: The online community trilemma (16 Feb 2026) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: February 16, 2026
Translation: heatwave_p2p