以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Semantic drift versus ethical drift」という記事を翻訳したものである。

Pluralistic

四半世紀以上前、あるハッカーのグループが「フリーソフトウェア」というラベルは足かせになると判断し、「オープンソース」という別のラベルに置き換えることにした。「オープンソース」のほうが理解しやすく、「フリーソフトウェア」の代わりに使えば普及が加速するという考えだった。

彼らは正しかった。「フリーソフトウェア[free software]」から「オープンソース [open source]」への呼び替えは、途切れることのない大規模な普及の道を開き、今日では「オープンソース」に敵意を表明する人間はほとんどいない。かつてオープンソースを「ガン」と呼んだMicrosoftでさえも例外ではない。

「オープンソース」支持者を突き動かしたのは2つの動機だった。第一に、彼らは「フリーソフトウェア」の曖昧さを嫌った。よく知られているように、「フリーソフトウェア」の提唱者リチャード・ストールマンは、この曖昧さをバグではなく機能と見なしていた。「free」には「自由な言論」(倫理的命題)と「タダのビール」(無償)という二重の意味があることを、彼は気に入っていた。ストールマン自身はもっと明確な選択肢があればよかったと思っていたが、思いつけなかったため、「フリーソフトウェア」の曖昧さを禅問答的な対話のきっかけとして扱った。一般人が「フリーソフトウェア」と聞けば、商用販売できないという意味かと尋ねてくる。それこそがフリーソフトウェアの支持者にとって、ソフトウェアの自由という道徳哲学を説明するための絶好の機会となった。

「オープンソース」派にとって、これは機能ではなくバグだった。彼らは他のハッカーを自由にライセンスされたコードの開発に引き込みたかったし、ボスを説得してそのコードを社内利用や公開利用してもらいたかった。「オープンソース」の支持者にとって、混乱を招くよう設計された用語は足かせでしかなく、潜在的な協力者を遠ざけるものだった(「説明しなければならない時点で負けている」)。

しかし、「オープンソース」陣営の動機は、好奇心をもった傍観者を哲学的対話に巻き込む義務を捨てて物事を単純化したいだけではなかった。多くの者がフリーソフトウェアの哲学そのものに異を唱えていた。彼らは「コモンズ」の構築にも、独占的企業によるレント抽出の阻止にも熱意を持っていなかった。中には、いつか自分たちがレントを抽出する側に回ることに熱望していた者すらいた。

こうした「オープンソース」支持者にとって、フリーソフトウェアの方法論――コードを公開し、ピアレビューと第三者による改良を受ける――の利点は、純粋に実利的なものであり、より良いコードを生み出せるという点に尽きる。公開、ピアレビュー、制約のない二次的イノベーションは、啓蒙主義に深く根ざした実践であり、科学的方法の基盤でもある。見知らぬ他者にコードを見せ、批評させ、修正させることは認識論的謙虚さの一形態であり、常に自分自身を欺くリスクにさらされている我々は、対立的なピアレビューを通じてのみ、自分が正しいかどうかを知ることができる。

これは真実だ! コードの公開はコードの質を向上させ、公開禁止は質を低下させる。それこそが過去10年間のランサムウェアの蔓延から得られる教訓である。ランサムウェアの大流行は、NSAとCIAからの一連の情報漏洩に端を発している。両機関は、広く使われているソフトウェアの悪用可能なバグを探し出し、それを秘密にしておくという公式方針を持っている。バグを野放しにしておけば、敵を攻撃したいときにいつでも利用できるというわけだ。

この慣行はNOBUS(No One But US)と呼ばれている。「これらのバグを発見できるほど賢いのは我々だけなのだから、発見して秘密にしておけば、他の誰もそれを見つけて我が国民を攻撃することはない」という理屈である。これは証明可能な誤りであり、きわめて危険な考えでもある。

Vault 7、Vault 8、およびNSAのサイバー兵器に関するリークは、NOBUSに大穴を開けた。諜報機関自体のセキュリティプロトコルの不備により、大量の欠陥リスト(大半は各バージョンのWindowsだが、他のOSやプログラムも影響を受けた)が流出したのだ。マルウェア作成者たちはこれらを缶切り代わりに、数百万台のコンピュータをこじ開けて、ボットネットに組み込んだり、ランサムウェアで停止させたりした。

これらの情報漏洩は、マルウェア研究者に「グラウンド・トゥルース(確かな裏付け)」も提供した。スパイ機関がどの欠陥をいつ発見したかのリストを入手した研究者たちは、それをマルウェア作成者が実際に発見し悪用していた欠陥のリストと照合した。そうして、スパイ機関が抱え込んでいるバグが、本来我々を守るべき相手である敵国によって独立に発見・悪用される確率を推定できるようになった。判明したのは、スパイ機関のバグが再発見される率は年間約20%――つまり、CIAやNSAが溜め込んでいるバグが1年以内に米国と米国民への攻撃に使われる確率は5分の1ということだ。

NOBUSはソフトウェアにおける錬金術といえる。錬金術は啓蒙主義以前の科学的探究であり、多くの点で科学に似ている。錬金術師は自然界の現象を観察し、それを説明する因果関係を仮説として立て、実験を行って仮説を検証する。だが似ているのはそこまでだ。科学者は結果を公開して初めて科学として認められるのに対し、錬金術師は発見を秘匿した。それによって錬金術師は自分が正しいと思い込むことができた。水銀を飲んでもよいのかなどという、明らかな間違いですらそうだった。その事実が公開されていないのであれば、錬金術師はそれぞれに水銀が致死的な毒であることを自分自身で発見しなければならなかった。

錬金術師は鉛を金に変える方法は解明できなかったが、迷信という卑金属を、開示とピアレビューのるつぼに通すことで、科学という貴金属に変換した。オープンソースとフリーソフトウェア双方の支持者が、透明性を自らのシステムの主要な美徳として掲げている。なぜなら透明性は改善につながるからだ(「目玉の数が十分に多ければ、どんなバグも深刻ではない」)。

当初、「オープンソース」と「フリーソフトウェア」は同義語だった。オープンなコードはすべてフリーであり、その逆もまた然りだった。しかしその後の数十年で状況は変わった。ベンジャミン・”マコ”・ヒルが2018年のLibrePlanetの基調講演「市場はいかにしてフリーソフトウェア最強の武器を取り込んだか」で説明しているとおりだ。

https://mako.cc/copyrighteous/libreplanet-2018-keynote

ヒルが解説するように、「オープン」(より良いコードを作る)と「フリー」(人間の自由を高めるコードを作る)の哲学的差異は、当初はさほど重要ではなかったかもしれない。だが、それぞれが支持者にとっての北極星となり、次第に異なる道へと導いた。新たな技術や実践はそのたびに運動の分岐点となった。「これは我々のプロジェクトと両立するものとして受け入れるべきか、それとも目標に反するものとして退けるべきか?」。「オープンソース」の人間であれば、各分岐点で自問する問いは「この新しいものはコードの品質を高めるか?」だった。「フリーソフトウェア」の人間にとっての問いは「これによって人々はより自由になるか?」だった。

これらの価値判断は極めて大きな重みを持っていた。ハッカーが特定のパッケージの改善に取り組むか、特定のユースケースを追求するかを左右し、カンファレンスの登壇者や出展者を決定し、「バズ」を生み出す(あるいは萎ませる)要因となり、新しいライセンスバージョンの方向性や、そのライセンスが影響力のあるソフトウェア配布チャンネルで許容されるかどうかにも影響を与えた。ドルと同じくらい善意で動く運動にとって、ある慣行、ライセンス、技術、あるいは人物の社会的な受容性は重要だった。

ヒルは、自由への帰結を顧みずにオープンさを追求した結果、奇妙な状況が生まれたという。巨大独占テック企業がソフトウェアの自由を手に入れ、それ以外の我々はオープンソースで我慢しなければならなくなった。Facebook、Google、Apple、Microsoftなどのクラウドシステムを支えるソフトウェアはすべて自由なライセンスで提供されている。Githubからダウンロードできるし、好きなだけ中身を調べられる。改良のためにボランティアで作業することだってできる。

しかし、それを実行するかどうか、どう設定するかを決められるのは、Google、Apple、Microsoft、Facebookだけだ。そしてユーザが依存するコードのほぼすべてがビッグテックのクラウドを経由する以上、これらビッグテック企業の下す決定がコードにできることの外枠を定めることになる。彼らが完全な自由を享受する一方で、我々は彼らが上から落とすパンくずで間に合わせるよりほかない。

言い換えれば、自由こそが重要だった。そして、我々がそれを忘れたとき、自由は失われた。

とはいえ、フリーソフトウェアがオープンソースの人気から恩恵を受けていないわけではない。オープンソースの「優れたコードが生まれる」という実利的な主張に引きつけられた無数の人々は、フリーソフトウェア支持者が活用できる漏斗の入り口にいる。こうした人々に対し、オープンなコードを通じて自分たちの生活がいかにより自由になったかを考えてもらい、コードの品質よりも自由を優先するよう説得できる。

フリーソフトウェア/オープンソースの運動は、実際には一部の目標を共有しながらも、他の点では異なる人々による連合体だ。連合体は政治的に強力であり、何かが実現するのは、ほぼ常に連合が組まれた結果である。

https://pluralistic.net/2025/01/06/how-the-sausage-gets-made/#governing-is-harder邦訳

だが連合体はもろくもある。望んだもの(コードの透明性)を手に入れた後は、内部の相違を解決しなければならない。つまり、連合のメンバーの一部は手痛い失望を味わうことになる。

結局のところ、我々が改善したくないコードもあるのだ――少なくとも人間の自由を大切に思うならば。たとえば、ICEが隣人を拉致するのを助けるコード。ドローンを動かすコード。政府と民間セクターの覗き見屋――たとえばデータブローカー業界――のために我々を監視するコード。ジェノサイドの実行者がガザの人々を標的にするのを助けるコード。広告ブロッカーを無効化するコード。化石燃料の新たな採掘地を見つけるコード、そして化石燃料の採掘作業を運営するコード。人間の自由はこれらのコードと反比例の関係にある。このコードが洗練されていくほど、我々全員の状況は悪化する。

定期的に、フリーソフトウェアの支持者の中に、この論理を突き詰め、特定の目的での使用を禁止する新しいフリーソフトウェアライセンスを提案する者が現れる。「私のコードを軍事利用してはならない」「私のコードをアドテクに使ってはならない」「私のコードを環境を破壊する形で使ってはならない」といった具合に。

これが繰り返されるのは当然のことだ。ソフトウェアを人間の自由を高める道具として重視し、自分のコードが人々の自由を奪う目的に使われていると気づけば、何かしたくなるのは自然なことだ。

しかし、こうした試みはどれもことごとく頓挫してきたし、今後もそうなると思う。倫理条項をライセンスに入れること自体が愚かな発想だからではなく、正しく実行するのが実務的な面で極めて困難だからだ。

まず、優れた「法的コード[legal code]」を書くという問題がある。フリーソフトウェアのライセンスを正しく設計するのは、途方もなく難しい。条項がソフトウェアプロジェクトの参加者の権利と義務を明記しなければならないだけでなく、それらの条項を執行できるようにシステム全体を設計しなければならない。ライセンス違反で訴訟を起こす権利は「原告適格」によって決まり、ライセンス違反によって被害を受けた者だけが裁判所で正義を求める権利を持つ。これはフリーソフトウェアのライセンスにおいて深刻な技術的課題であることが証明されており、ここで失敗すると、執行不能なライセンスになってしまう。

https://pluralistic.net/2021/10/20/vizio-vs-the-world/#dumbcast

仮にそうしたすべてをクリアしたとしても、きわめて優秀な弁護士が最も倫理的な技術者と協力しても、表面化するまで数年から数十年かかる微妙な誤りを犯す可能性がある。その時点で、欠陥のあるバージョンのライセンスの下で発表された作品は数百万、場合によっては数十億にのぼり、それらすべての作者に連絡を取って修正版のライセンスで再ライセンスしてもらう現実的な方法は存在しない。

これは仮定上のリスクではない。10年以上にわたり、Creative Commonsライセンスのあらゆるフレーバーのあらゆるバージョンに、小さな(しかし甚大な結果をもたらす)欠陥が存在していた。これらのライセンスは「いかなる違反においても直ちに終了する」と規定していた。つまり、ライセンス条項に従う際にほんの些細な間違いを犯しただけで、CCライセンスの保護が即座に剥奪され、著作権侵害で訴えられる可能性があった。旧バージョンのCCライセンスの下で公開された作品は数十億に及ぶ。

今日、「コピーレフト・トロール」と呼ばれる新種の捕食者が、このバグを悪用して無実のCreative Commonsユーザを脅迫している。Pixsyのような数百万ドル規模のロボ弁護士企業が代理人を務めるコピーレフト・トロールは、タイムリーな画像を古いCCライセンスの下で公開し、ブロガー、SNSユーザ、小規模事業者、非営利団体がそれを使い、画像の帰属表示でわずかなミスを犯すのを待ち構えている。すると、Pixsyがトロールを手助けして各被害者から数百ドルから数千ドルを巻き上げるのだ。侵害1件あたり15万ドルの法定損害賠償を請求するぞという脅しによって。

https://pluralistic.net/2022/01/24/a-bug-in-early-creative-commons-licenses-has-enabled-a-new-breed-of-superpredator/

Creative Commonsは、数百万ドルを費やし、国際的な著作権・ライセンス分野の専門家たちと協力して取り組んできたものの、この欠陥の修正には10年以上かかった。しかも旧ライセンスの下で公開された数十億の作品は、今も時限爆弾として残っている。それらの作品の著作権は作者の死後70年間存続するため、古い画像の著作権を取得した者は誰でもトロールに転じて獲物を狩れるのだ。

誰かが新しいソフトウェアライセンスを作ろうと提案するたびに即座に、ベテランのFLOSS関係者が嘲笑を浴びせるのには理由がある。暗号学者が独自暗号の自作に対して激しく敵対するのと同じ理由だ。どんなに頭が良くて善意にあふれていても、失敗して無実の人々を取り返しのつかないリスクにさらす可能性が高い。そう、取り返しがつかない。あらゆる作者に現行のCCライセンスで再ライセンスしてもらうことは事実上不可能だ。貢献者の数が比較的少ないプロジェクト――Mozillaのような――でさえ、連絡の取れない作者のコードを破棄し、新しいライセンスの下で書き直す人間を雇わなければならなかった。

以上は、フリーおよび/またはオープンの新しいライセンスそのものを作るべきでない理由だ。しかしそれに加えて、フリー/オープンライセンスに倫理条項を追加する際に生じる、特別な困難と混乱要因がある。

その第一は、定義の問題だ。一見単純なカテゴリでさえ、定義についての合意を得ることは困難を極める。ここでもCreative Commonsのライセンスが教訓的だ。CCライセンスは当初から、「非営利」(NC)フラグと呼ばれる倫理条項のオン・オフを作者に認めていた。「NC」でライセンスされた作品は商用利用できない。単純そうに聞こえるだろう?

そうではない。何年も前から――そして今日に至るまで――CCの作者とユーザは、何が「商用利用」にあたるかについて一貫した合意に達することができていない。個人として商業サービスに何かを投稿するのは「商用」なのか? そうであっては困る。なぜなら、オンラインで見つけるあらゆるものには、そのファイルを届けるまでに何らかの商業的企業が関わっているからだ。長距離光ファイバー事業者、データセンター、ホスティング会社、クラウド企業、SNSサービスなどなど。「非営利」が「この作品の配布によって誰も金銭を得てはならない」を意味するなら、NCライセンスは作品の配布そのものを不可能にしてしまう(自宅でクールな画像をプリントアウトして電柱にホチキスで留めるだけでも、プリンターインク会社とホチキス会社はあなたが貼るコピーごとに利益を得ているのだから)。

CC組織は大規模な調査を行い、セミナーを開催し、専門家に相談して、魅力的かつ精緻な255ページの文書を作成した。

https://mirrors.creativecommons.org/defining-noncommercial/Defining_Noncommercial_fullreport.pdf

それでもなお、CCのユーザとクリエイターの間では、特定のユーザの行為が範囲内なのか範囲外なのかについて今も議論を続いている。

さて、CCのNC倫理条項は、ライセンスにおける倫理条項の最良のケースである。CCは一元化された組織であり、CCライセンスの文言に対して完全な権限を持ち、その解釈についてもほぼ完全なコントロールを行使している。

ではここで、CCのNC条項の経験を踏まえ、ソフトウェアライセンスにおける仮定の倫理条項がどう機能するか想像してみよう。たとえば「軍事/非軍事」の区別は、「営利/非営利」の区別と比べてはるかに引くのが難しい。フォード――その車は国防総省の車両プールに入っている――は「軍事」ユーザなのか? もしフォードがペンタゴンとの取引をボイコットしたとして、それでも海軍がスクラップヤードからFord Focusの中古車を大量に買い、オートゾーンで購入したフォードの部品で修理した場合、フォードはフリー/オープンソフトウェアの「軍事」ユーザになるのだろうか?

カテゴリとはクラスタであって、形状ではない。だからこそ、右派トロールが唱える「女とは何か?」というスローガンがこれほど効果的なのだ。女性は「何」ではなく「誰」であり、女性であるすべての人を包含する定義を作ろうとすれば、何十ページを費やしてなおこぼれ落ちる人が出る。これは女性に限った話ではなく、ほとんどすべてのカテゴリが網羅的な定義を拒む。よく知られているように、「魚」というものは存在しない。

https://en.wikipedia.org/wiki/No_Such_Thing_as_a_Fish#Title

「名前」「住所」「日付」というものも存在しない。

https://github.com/kdeldycke/awesome-falsehood

もちろん、「名前」が曖昧な概念だからといって、自己紹介をしたり互いを名前で呼んだりすることが妨げられるわけではない。だが、我々がこれからも数十億もの知的創作物を生み出し、その著作権が1世紀以上にもわたって存続することを考えたらどうだろう。その中の1つが「名前」の表記を間違えたとみなされれば、コードの著作権者――まだ生まれてもいない遺産相続人を含む数百万の潜在的な権利者――は、その「間違い」を口実に、ソフトウェア貢献者を脅し、そのソフトウェアを使う数千・数百万のユーザを巻き込むことだってあり得る。

そして「名前」は――「非営利」と同様に――簡単なケースだ。難しいケースとは、「軍事/非軍事」「化石燃料セクター/非化石燃料セクター」などだ。大規模分散型のプロジェクトは、非公式な制度とリーダーを持ち、こうした定義問題のいかなる裁定にも向いていない。にもかかわらず、強制力のある倫理条項は、この緩やかで柔軟な組織に、あらゆる概念の中でも最もたちが悪く捉えどころのないものの定義を作成し、執行することを求める。

誤解のないよう明言しておくが、私はフリー/オープンライセンスにおける倫理条項の理念に反対しているわけではない。私自身、NCライセンスと商用CCライセンスの両方を広範に活用している。私の異議は哲学的なものではなく、実務的なものだ。

数週間前、私はグレーター・マンチェスターのロッチデールに赴き、2025年Co-op Congressのオープニング基調講演を行った。講演後、パネルディスカッションで協同組合ソフトウェアライセンスを推進してきたクリス・クルームと一緒になった。彼の主張はこうだ。

協力と共有を強制し、コードの私有化(プロプライエタリ化)を許さないか、あるいはコードが事業運営に使用される場合、その事業の形態は協同組合でなければならないという条件でコードをリリースする。

https://community.coops.tech/t/co-operative-software-licenses/4421/10

以来ずっと考えているのだが、他の倫理条項について私が懸念していることはすべて、ここにも当てはまると思う。確かに、「協同組合」には広く認知され成熟した定義――7つの「ロッチデール原則」――が存在する。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rochdale_Principles

これらは1937年から存在し、文言上の曖昧さの多くは過去88年間の議論を通じて解消されてきた。しかし、英国やアングロスフィアやグローバルノースの外にも、「協同組合」として認識できる組織は数多く存在し、それらがこれらの原則のすべてを採用しているとは限らないし、ロッチデール由来の協同組合の間で形成された合意に収まる形で原則を採用しているとも限らない。「協同組合」ライセンスがこれらの協同組合を排除しかねないという問題だけではない。ソフトウェアライセンスの執行メカニズムは、個々のソフトウェア作者がコードの各行の著作権を保持し、著作権法を用いてライセンス条項に違反した者を脅迫・処罰するというものだ。

これは、潜在的に数千のソフトウェア作者とその遺産相続人が、1世紀以上にわたって、「協同組合にライセンスされた」ソフトウェアを使用する協同組合を攻撃する権利を持つことを意味する。何が協同組合で何がそうでないかについて、相手と解釈が異なるという理由で。

さらに、ソフトウェアライセンスの定義を満たす協同組合として組織することは可能でありながら、協同組合運動の観点からは「倫理的」とは言えないグループも存在しうる。労働者協同組合として設立された傭兵会社を考えてみてほしい(もしそれが荒唐無稽に聞こえるなら、世界で最も凶暴で人権侵害の著しい警察官たちの大半が「労働組合」に属していることを思い出してもらいたい)。

つまり、協同組合ライセンスには3つのリスクがある。

i. 採用する協同組合原則のわずかな違いを理由に、協同組合の仲間を排除してしまうリスク。

ii. 準拠する協同組合として組織されているが、ひどいことをする協同組合の仲間を含めてしまうリスク。

iii. 「協同組合」の定義の曖昧さを悪用して、ソフトウェアユーザから巨額の「和解金」を脅し取るコピーレフト・トロールにライセンスユーザをさらすリスク。

とはいえ、協同組合ライセンスには肯定的な側面もある。ソフトウェアライセンスで「自由」を強調することをやめた結果どうなったかを思い出してほしい。我々は「オープン」のコード品質を手に入れたが、自由を破壊するコードを含むあらゆる種類のコードに適用されるようになった。私は十代前から協同組合に関わってきたが、協同組合が倫理的基盤を実利的な目標の前に忘れたとき何が起こるか、身をもって経験している。

Mountain Equipment Co-Opを例にとろう。カナダで最も愛され成功した消費者協同組合であるMECは、米国のアウトドア用品協同組合REIに触発され、数十年にわたってカナダ人に誠実にサービスを提供してきた。しかし大半の消費者協同組合と同様、MECの組合員の参加率は非常に低く、MBA毒に冒された略奪者の一味がMECの理事会を掌握し、定款を変更した上で、容赦のない米国のプライベートエクイティ・ファンドに協同組合を転売した。

https://pluralistic.net/2020/09/16/spike-lee-joint/#casse-le-mec

MECはもはや協同組合ではない。理事会の主張は、MECを協同組合のままにしておくよりも、資本を注入して組合員が望む商品を調達し、手頃な価格で提供できるようにすることのほうが重要だというものだった。しかし皮肉なことに、5年間のPEによる搾取の後、MECの品質は低下し、価格は高騰している。

組織構造(協同組合であるか否か)は、組織が行う活動の種類に影響を与えうるが、それをコントロールすることはできない。メタクソ化[enshittification]を食い止めるには、組織が最悪のメンバーの最悪の衝動に屈することを防ぐ、複数の重層的な制約が必要だ。だからこそ私はBlueskyがもっと連合化することを応援している。B-corpとして組織されているのは結構だが、それだけでは、やる気満々の投資家階級が現経営陣をメタクソ化の推進者に入れ替え、数千万のBlueskyユーザの生活を破壊するのを止められない。しかし、Blueskyユーザの大きな割合が実際にはBluesky上ではなく連合サーバー上にいたなら、Blueskyがメタクソ化した場合に連合を解除するという脅しをかけ、Blueskyのビジネスに実質的な打撃を与えることができるだろう。

https://pluralistic.net/2025/01/23/defense-in-depth/#more-10160

とすれば、事業に不可欠なソフトウェアすべてへのアクセスを失うかもしれないという見通しが、MECの理事会に歯止めをかけ、プライベートエクイティの吸血鬼にすり寄るのを防いだかもしれない。これは確かに、ソフトウェアライセンスにおける協同組合倫理条項の潜在的な利点だ。しかし、リスクを上回るかどうかについて、私は確信が持てない。

私はフリーソフトウェアの人間だ。オープンソース陣営に革命を盗まれたと考えるフリーソフトウェアの怒れる党派もいる。彼らの憤りは理解できる。だが、我々の側もゴール前ががら空きだったと思う。振り返ってみれば、対話のきっかけになることを期待してわざと紛らわしい名前を選んだのは、戦術的には誤りだった。言葉遊びを楽しむ潜在的な運動支持者は、わざと困惑させられて引いてしまう層よりも少ない。

ソフトウェアの自由の連合に、純粋に実利的な理由で――オープンなコードはより良いコードだから――ソフトウェアの自由を評価する人々が含まれていること自体は問題ではない。問題だと思うのは、彼らが連合の中でシニアパートナーとなり、四半世紀にわたって舵を取ってきたことだ。結局のところ、その結果たどり着いた先は、テック独占企業がフリーソフトウェアを手にし、残りの我々はオープンソースで間に合わせるという溝だった。

とはいえ、連合体はきわめて重要だ。企業権力への、まだ名前を持たない対抗連合を考えてみよう。この連合は政治学の重力法則に逆らい、世界最大かつ最も強力な企業群を相手に、世界中で反トラスト執行を推進している。

https://pluralistic.net/2025/06/28/mamdani/#trustbusting

この連合には名前が必要だ。私はよく、ジェイムズ・ボイルの説明を引用する。「エコロジー」という言葉が、何千もの異なる問題(フクロウの保護、オゾン層の破壊)を1つの旗の下にまとめ、それを運動に変える上で果たした役割について。反企業権力運動には、労働、気候、環境、反トラスト、反腐敗、反ジェノサイド、反人種差別、反性差別、反トランスフォビアの団体を1つの旗印の下に結集できる名前がまだない。我々の定義的な用語はほぼすべてが「反何とか」だ。「反トラスト」から「反ファシスト」まで。我々が何に反対しているかを表す言葉には事欠かない(「メタクソ化」の反対語でさえ「脱メタクソ化」だ)。しかし、我々が何を支持しているのかを表す言葉は、いまだに見つかっていない。

(Image: Muhammad Mahdi Karim, GNU FDL; EC, CC BY-SA 2.0; modified)

Pluralistic: Semantic drift versus ethical drift (14 Jul 2025) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow

Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: July 14, 2025
Translation: heatwave_p2p