この数年、写真家がインターネットの写真の無断使用(著作権侵害)の被害を訴え、行動を起こすようになってきた。ネットにおける写真の無断使用は今にはじまったことではないが、いわゆるキュレーションメディアを始めとする一部商用メディアでさえも、無断使用が常態化していたことで、NOをはっきりと突きつける機運が高まってきたのだろう。

2016年末にDeNAのキュレーションメディアが槍玉に挙げられると、翌年1月にはアサヒカメラが「写真を無断使用する“泥棒”を追い込むための損害賠償&削除要請マニュアル」という緊急企画で、具体例を交えて無断使用者への対抗策を伝授し、その後も度々、「写真の無断使用」に関する企画記事を掲載している。2019年1月号でも「誰が『写真』を殺すのか?」と題した座談会を開き、その模様をまとめている。その一部はAERA.dotにも掲載されている。

上記のタイトルからもわかるように、「写真の無断使用」とどう戦うかを中心とした座談会となっている。私自身は行き過ぎた著作権保護や海賊版対策には反対だが、著作権を侵害された写真家がその被害を訴え、刑事なり民事なりで解決しようとすることについては(少なくともトロール的なやり方でなければ)肯定的にとらえている。これが否定されるのであれば、なんのために著作権という制度を維持しているのかわからなくなってしまう。

問題の本質は

しかしよくよく考えてみると、削除の申立であれ、使用料、損害賠償の請求であれ、既に起こってしまった「写真の無断使用」に対する事後的な対症療法に過ぎず、それだけでは「写真の無断使用」問題の根本的な解決には直接つながらないようにも思える。確かに請求や訴訟を恐れて「無断使用」は減るだろう。だが、無断使用していた人が写真家に許諾を得て「その写真」を使うようになるとは考えにくい。単に「使用しなくなる」か、「ばれないように使う」ようになるだけだろう。目的は「無断使用」を減らすことであって、「使用」を減らすことではない。

「写真の無断使用」をされた方がどうすべきかの指南が求められるのと同時に、「写真の無断使用」をする方がどうすべきかという指南も必要なのではないだろうか(もちろん、写真家自身やアサヒカメラがやるべきだという話ではない)。

まず第一に考えるべきは、なぜ彼らが写真を使用するのか、という問いだ。思いつくところでは、コンテンツの惹きを強めるためのアイキャッチが欲しい、コンテンツに説得力をもたせたいのでマッチする写真が欲しい、あるいはテイストを整えるために雰囲気のある写真を差し込みたい、というあたりだろうか。少なくとも、ある写真家が撮影した特定の写真でなければならないというケースはそれほど多くないように思える。

そして第二に、なぜ彼らが許諾をとらないのか、ということも考えなくてはならない。その理由は、端的に言えばコストの問題である。1つは許諾を得るための交渉コスト。1つのコンテンツに複数の写真家の数枚の写真を使用するとなれば、その人数分の交渉が必要になり、断られれば改めて別の写真を探し、再度交渉しなければならなくなる。また申請する側だけでなく、申請される側からみても、いちいち許諾を求められるのはコストとなる。もちろん、こうした交渉の煩雑さを解消する手段としてフォトストックがあるのだが、ここにはもう1つのコスト、金銭コストがある。フォトストックと契約しても利益が得られるほどの商業メディアならまだしも、すべてがそのラインを越えているわけでもなく、営利を目的としていない個人メディアであれば、なおさらその選択肢は取りづらい(もちろん、写真家1人1人にお金を支払って使用するのも同様である)。

写真は使いたいけど、面倒は嫌だしお金はかけたくない――というのはいささかわがままに思えるかもしれないが、面倒は嫌だから世の中は便利になるし、お金をかけたくないというのも市場主義社会において否定されるべき価値観でもない。問題は、写真を使われたくない写真家の写真を無断で(正確には使われたくない方法で)使っていることにある。

ではどうすべきか

となれば解決策は非常に単純だ。「自由に使ってもいい写真」を使えばいいのである。たとえば商業メディアのGIGAZINEがアイキャッチに使用している写真の大半は、CC0や商用可能なクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCL)の作品、あるいはそれに類するライセンスの作品だ(アイキャッチ以外の画像や文章はさておき)。

インターネットには予め使用が許された写真が、見きれないほど、使い切れないほどに溢れている。そんな写真を公表する写真家たちは、何も宣言しなければすべての権利が留保されるにもかかわらず、あえて見ず知らずの誰かに使ってほしくて、広めてほしくてそうしているのだ。

使ってほしくない写真家の写真を使用して怒られるよりも、使ってほしいと願う写真家の写真を使用して喜ばれる――パブリッシュのコストが限りなくゼロに近づいたインターネットの時代だからこそ実現する幸せな関係に身を寄せたほうが、使う側としても気分は良いはずだ。。だが、冒頭の記事にあるように写真家たちが怒っているのは、やはりそんな世界が十分に形作られていないということの裏返しでもあるのだろう。

「使っていい」が無断使用の足かせになる

ではいま、何が足りないのか。それは「使ってもいい写真」の存在と、その探し方に関する知識だろう。先程述べたように、インターネットにはクレジット不要で商用・非商用の別なく自由に使用できるCC0やそれに類するライセンスの写真、クレジット表記を始め複数の使用条件のもと個別に許諾をとらずに利用できるCCLの写真、著作権の保護期間が終了した、またはその対象とならないパブリックドメイン(PD)の写真が溢れている。

無断使用される写真は、「その写真」でなければならないということはほとんどないはずだ。きっとCCLやCC0、PDの写真や画像でも間に合うはずだろう。なのになぜ、無断使用してしまうのか。

そうした自由な写真が無数に存在し、そしてそれを簡単に探せることを知らないからではないだろうか。こんな感じの写真がほしいという漠然としたイメージにマッチした「使ってもいい」写真が容易に見つけられるとしたら、あえてリスクを犯して「使ってはいけない」写真を使う必要もない。そして、一度「使ってもいい」写真の存在を知り、意識的に探す経験をすれば、「使ってはいけない」写真の無断使用を躊躇するようになるだろう。「使ってもいい」写真を探すということは、同時に「使ってはいけない」写真の存在を意識させるものにもなるのだ。

さて、それでは本題の「使ってもいい」写真の探し方を解説したい……のだが、若干長くなってしまった。「探し方」については次の記事で改めて紹介することにしよう

余談

こういう書き方をすると、ともすれば「ケチな写真家たちは放っといて、気前のいい写真家たちと共に歩もう」というような当てこすりに思われてしまうかもしれないが、それは意図するところではない。少なくとも、ここで書いたような話は、写真家が無断使用を黙認していては成り立たない。無断使用が咎められなければ、あえて「使ってもいい」写真を使わなければならないと考えることもないだろう。片輪だけではうまくいかない、両輪そろってこそ意味があるという話である。

当然、CCLやCC0で写真を提供する写真家さえいればいいという話でもない。おおよそ問題になっているのは、インターネットによって新たに開拓された領域、それも草の根に近い領域での無断使用であり、残念ながらその領域は旧来の写真家たちのビジネスに(少なくとも現状では)マッチした市場ではない。そこで生じた摩擦を、インターネットによって新たに形成された(強いモチベーションと弱いインセンティブを基礎とする)エコシステムに頼ろうというだけのことである。

Material of Header Image: Hendrick van Cleve III