Electronic Frontier Foundation

先週末、Facebookのマーク・ザッカーバーグCEOは、ワシントン・ポスト紙に論説を寄稿し、政府や規制当局にインターネットの規制に積極的な役割を果たすよう要望するとともに、各国政府が何をすべきかをいくつか提案した。ニューヨーク・タイムズ紙が指摘しているように、ザッカーバーグのコメントは、Facebookにとって好ましくないアイデアを抑制することを意図したものであることは疑いないが、それによってFacebookがマシになるわけではない。

ここでは、ザッカーバーグが提案したインターネット全体の「標準化された」あるいは「グローバルな」規制、つまり、プラットフォーム検閲とデータプライバシー法の2つに焦点を当てる。

言論警察への誘い

まずはじめに、インターネット上の「有害なコンテンツ」に対する「標準化されたアプローチ」というアイデアから始めることにしよう。これは、第三者機関――言論警察のようなもの――がどのコンテンツが許可され、どれがダメであるかを判断し、企業は後者のカテゴリに属する表現を可能な限り削除する「システムの構築」を義務づけられる。Facebookはすでに、各国政府規制当局に、そのための支援を要請しており、他のサービスも同様にすべきだと考えている。

このアイデアは少なくとも4つの根本的な問題をはらんでいる。

第一に、「有害なコンテンツ」を定義し、現代の多様な思想や信念の全範囲にわたって、数十億のユーザに対して一貫して公正に規則を実施することは極めて困難だということである。これまでのFacebookの取り組みを考えれば、それがいかに困難であるかは明白である。

主要なプラットフォームはいずれも、既にユーザ向けのルールを定めている。複雑になりがちではあるが、テロリズムやヘイトスピーチ、著作権やなりすましに至るまで、ほとんどすべてを網羅している。また多くのプラットフォームがそれぞれにコミュニティ・レポートを採用している。こうしたルールに違反すると、投稿は迅速に削除され、アカウントは一時停止は凍結されることもある。そして、我々はこうしたルールが、いかに行使され、いかに誤用されてきたかを10年以上にわたって目にしてきた。

インターネット上で受けたハラスメントについて語り合う2人の有色人種の女性の対話がヘイトスピーチの禁止を理由に削除されエジプトの著名な反拷問活動家のアカウントがハラスメントを理由に凍結され、非公開グループで出産時の写真を共有した女性がヌードの禁止を理由に検閲されたのを我々は見てきた。美術館のアカウントでは「示唆的なコンテンツ」だとして芸術作品が削除された。そして、一刻を争う政治的言論などの適法なコンテンツが、間違った著作権や商標の申立を理由に削除されてきたのを目にしてきた。

残虐行為を記録し、我々のコミュニティの外の世界に伝えるための画像や映像にも、プラットフォームの検閲は及んでいる。暴力的なコンテンツに対するルールは、警察の残虐行為、シリア戦争ロヒンギャに対する人権侵害証拠すら削除している。あの有名なベトナム戦争の写真も、包括的なヌード禁止のルールにより繰り返し削除されている

膨大なリソースを持っているはずの企業ですら自らのルールを正しく実施できていないのに、独立機関がもっとうまくできると期待できるはずもない。

第二に、上述したように、企業に「有害なコンテンツ」のみを排除するシステムの構築を期待することは、極めて危険な呪術的思考と言わざるを得ない。アルゴリズムであれモデレータの集団であれ、保護すべき表現と削除すべき表現を完全に区別することなどできない。とりわけ、問題を含むコンテンツの多くは、不愉快な政治的言論と暴言、捏造されたプロパガンダと適法な意見、ある地域では適法だが別の地域では違法な表現との間の曖昧な領域に存在している。単に、あるユーザには読みたいと感じられるが、別のユーザにはそうは思えないというものもあるだろう。

第三に、自由で開かれたインターネットが決して完全に自由でも開放されたものでもないとしても、その根本では、インターネットは依然としてその驚くべきアイデアを実現し、具現化している。コンピューティング・デバイスを手にしている人なら誰でも、匿名であれ実名であれ、世界とつながり、自分のストーリーを語り、団結し、教育し、学ぶことができる。管理されたフォーラムは多くの人に価値ある存在ではあるが、インターネット上には政府や大企業によって管理されていないコミュニケーションの場も存在していなくてはならない。あらゆる共有サービスに標準化されたアプローチを義務づけることは、その可能性を、そしてインターネットの本来的な役割を殺してしまうことになる。

最後に、そして重要なこととして、頭脳明晰な弁護士軍団を雇っているのであれば、ザッカーバーグは自身が提案する規制が、米国憲法修正第一条に、そして表現の自由に関する国際基準である国際人権宣言第19条に違反する可能性があることを知っておくべきだろう。第19条では次のように述べられている。「すべて人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」。国際的に課された「有害なコンテンツ」の基準は、たとえ善意にもとづくものであっても、必然的に幅広い意見や情報の共有を妨げることになる。

表現の自由に関する国連特別報告者が昨年、各国政府に対し「独立した公正な司法当局による命令に基づき、および適法性、必要性、正当性の適切な手続きと基準に従う場合においてのみ、コンテンツの制限を求める」べきであると述べたのはそのためである。複数の政府と巨大プラットフォームとの結託した合意というザッカーバーグのアイデアは、この基準を満たすものではない。

国家、ザッカーバーグがあなたのデータプライバシー法に迫っている

ザッカーバーグはまた、データプライバシー法に関して「国家や連邦によって大きく異なる規制ではなく」「世界共通の枠組み」を求めている。確かに、州や連邦ごとに異なる多様な法律を企業に遵守させるのではなく、統一された基準を設けることには多くの利点がある。しかし、ザッカーバーグがここで言わんとしていることは、おそらくそういうことではない。たとえば米国であれば、連邦データプライバシー保護法がそれよりも厳しい既存の州法に優先してくれれば、Facebookの利益に適うということだ。

米国では既に、カリフォルニア州の消費者プライバシー法、イリノイ州のバイオメトリックプライバシー法、バーモント州のデータブローカー法のように、3つの州でユーザのプライバシーを強力に保護する措置を講じている。議会がそうした強力な州法を無効化するために連邦データプライバシー法を緩和できるのであれば、ユーザのプライバシー保護は大きく後退することになる

ここでのザッカーバーグの狙いは、プライバシーだけではなく、競争も射程に含んでいる。Facebookはその初期において、データプライバシーに関する法律が欠如していたこともあって現在の規模にまで成長することができた。一律の基準が規模の異なるあらゆる企業・組織に適用されれば、Facebookの潜在的競合は同社を決して越えられないほどに不利な立場に置かれることになるだろう。当然のことながら、ザッカーバーグのインターネット規制に関するビジョンは、潜在的競合の利益よりもFacebookのビジネス上の利益を優先している。

政府や規制当局がインターネットへの新たな規制を模索するのであれば、ザッカーバーグには最後に意見を求めなくてはならない。むしろ、小規模なイノベーターやプラットフォーム、(インターネットを作りあげた人々を含む)エンジニア、市民社会、教育者、活動家、ジャーナリストの声に耳を傾けなくてはならない。いずれも、ゲートキーパーに邪魔されることのないプライバシーや表現・コミュニケーションの自由の保護に強く頼る人たちなのであるのだから。

Mark Zuckerberg Does Not Speak for the Internet | Electronic Frontier Foundation

Author: CORYNNE MCSHERRY AND GENNIE GEBHART (EFF) / CC BY 3.0 US
Publication Date: April 01, 2019
Translation: heatwave_p2p
Material of Header Images: Stock Catalog (CC BY 2.0) / PellissierJP