8月3日土曜、「表現の不自由展・その後」を見てきた。翌日には展示が中止されてしまったので、現時点では最終日ということになる。この時点で、物議を醸すどころか狂騒とも言える状態に陥っていた。展示中止の方向で話が進んでいると報じられていたこともあり、会場前には長蛇の列ができていた。

この展覧会をめぐっては、少女像や昭和天皇の写真を焼き踏んで火を消す映像の展示の是非、写真投稿禁止の是非、政治的中立性の問題、政治的介入の問題、文化行政のあり方、中止の是非、中止決定に至るプロセスの問題、あるいは批判のための粗探しなど、さまざまな論点から膨大な意見が噴出し、ハレーションを起こしている。

だが、実際に見に行った者として、表現の自由を最重要のテーマとして考える者として、まずはこの「表現の不自由展・その後」という展示そのものを見てどう感じたかを記しておきたい。

あらかじめお断りしておきたいのは、実施の是非、展示の是非、中止の是非についてはここでは論じない。あくまでも「表現の自由を考えさせる」という企画意図が達成されたのかという点に論を絞る。

「表現の不自由展・その後」

「表現の不自由展・その後」は、3年に1度開催される芸術祭「あいちトリエンナーレ」の1つの展示、いわば展覧会内ミニ展覧会というかたちで実施されたものだった。

「検閲、規制、忖度、弾圧、クレーム、NGなど」さまざまな理由により、公共施設での展示が不許可となった美術表現を集め、それぞれに不許可になった理由とともに展示することで、表現の自由の現状、そのあるべきかたちを考えさせることを企図したようだ。展示作品そのものの芸術的価値を鑑賞することではなく、それぞれに展示を拒否ないし中止されたというメタ的文脈こそが重要になるのだろう。

あいちトリエンナーレの芸術監督としてこの展示を打診し、共に準備を進めてきたという津田大介氏は、開幕前のインタビューで「感情を揺さぶるのが芸術なのに、『誰かの感情を害する』という理由で、自由な表現が制限されるケースが増えている。政治的主張をする企画展ではない。実物を見て、それぞれが判断する場を提供したい」と話していた。

表現の自由が脅かされているという危機感は、私も同様に抱いている。この展示について知ったときには、野心的な取り組みだと思った。公共施設での展示を拒まれた作品を、公共施設に集めて展示する――タブーに挑戦するセンセーショナリズムととられるかもしれないが、そのインパクトがあればこそ、表現の自由について広く考えてもらう問題提起になるのではないかと期待した。

安心して向き合える「表現の自由」

率直に言って、期待は裏切られた。

それぞれの作品の表現は私には容易に受け入れられるものだったし、実物を目の前にすると、むしろ大騒ぎするほど大層なものではない、とすら感じた。そして、それぞれの作品がいかなる理由であれ排除されたことに憤りを覚えた。

だが、それだけだった。少なくとも、自分自身が「表現を脅かす側には立っていない」という安心感をもって作品を見て回ることができた。自らが好ましいと思う、あるいは容認しうる表現が排除されたことに憤りを覚える。ただ、それだけだった。

おそらく私自身が左派、リベラルなイデオロギーを持っているためでもあるのだろう。会場に並んだ作品のほとんどが、慰安婦、強制連行、天皇、原発などをテーマとした、左派イデオロギーを持つ者には容易に受け入れられる表現であったように思う1。同時に、右派イデオロギーを持つ者には受け入れがたい表現だろうなとも思った。ともすれば、彼らは排除を是認するかもしれない(実際に過去にそうであったものが集められたし、今回もそうなった)。

「タブー」を展示するという、いわば劇薬によって表現の自由を考えさせたいという意図はあったのだと思う。また(少なくとも客観的に見れば)偏った作品展示であったとしても、それこそが「表現の自由」の体現することだという意図もあったのかもしれない。だが、右派左派ともに表現の自由というメタ視点をとるより先に、思考が作品に投影されたイデオロギーにスポイルされてしまうように感じた。

「他者のための自由」と向き合う

私にとって表現の自由とは「他者のための自由」である。使い古された引用ではあるが、ヴォルテールが「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と言ったように、あるいはもっと端的に、ローザ・ローゼンブルクが「自由とは常に思想を異にする者のための自由である」と言ったように、表現の自由は「自己のための自由」としてのみ考えることはできない。

たしかに表現の自由は、自らの信念に基づいて言いたいことを言う、表現したいことを表現する自由である。だが、その自由にとって最も重要なのは「他者による受け入れがたい表現を認める」ことにこそある。表現したいことを表現できる環境は「他者の表現を抑圧することを許さない」からこそ実現するのだ。

つまり「表現の自由を考える」というのは、「他者のための自由」と向き合うことにほかならない。他者のための自由が守られるからこそ、「自己のための自由」が守られるのである。自分にとって受け入れがたい表現であっても容認しなくてならないという葛藤を抱えずして、表現の自由を考えることはできない。

「表現の不自由展・その後」は、少なくとも私には「他者のための自由」と向き合う葛藤の場ではなかった。おそらく、左派イデオロギーを持つ人であれば同様であったろう。そして、「表現の不自由展・その後」の展示作品を選定した人たちもまた「他者のための自由」に向き合うことはできなかったのではないか、とも感じた。表現の自由を「自己のための自由」としてのみ切り取ったのがこの展示なのではないか。「他者のための自由」と向き合えなかった結果がこの展示ではないのか。

私が右派イデオロギーを持っていたなら、「他者のための自由」を向き合わざるを得なかったかもしれない。しかし同時に、なぜ自分たちだけがそれを突きつけられなくてはならないのか、という憤りも覚えただろう。いや、信仰・崇拝の対象の写真が焼かれている作品を見て、その文脈を踏まえることもなく、自由について考えることもなく、ただただ憤怒していたかもしれない。

そしてこうも考えた。(一見すると)少女像を揶揄する(ように見える)作品や、天皇を神格化する(ように見える)作品が公共施設に、行政が主催する美術展に展示されたとしたら、果たしてどのような反応が巻き起こるだろうか。きっと今回と同じような騒動になるだろう。方や「誰かを傷つける表現、侮辱する表現は許されない。表現の自由を履き違えている」と批判して展示の中止を訴え、方や「表現の自由だ。検閲は許されない」と声高に叫ぶ――唯一の違いはイデオロギーを軸に主張が反転することだけで。

せめぎあいを越えて

偏っているのが悪いとか、中立でない、バランスが取れていないという批判をしたいのではない。芸術祭自体は大規模ではあっても、「表現の不自由展・その後」自体はその一展示に過ぎず、古今東西あらゆるものを取り揃えるというのも難しかっただろう。それに表現が自由であるなら、どれほど偏っていようとそれは自由だ。中立を強いること自体が表現の自由の制約にほかならない。だが残念でならないのは、イデオロギーが「表現の自由を考えさせる」ことを阻害してしまうということだ。少なくとも、イデオロギーに起因するバイアスを解きほぐすための工夫は見られなかったように思う2

現状を右派が左派の表現の自由を抑圧していると単純化できるならこの展示でもよかった。たしかに体制やそれに扇動された市民による少数派の表現の抑圧というのは古典的であるし、現在もなくなってはいない。だが、現代の表現の自由をめぐる環境はそれほど単純ではない。

たとえば表現の自由に至上の価値を置く米国で、最もやかましく、、、、、表現の自由を叫んでいるのは、オルタナ右翼と呼ばれる人たちである。社会正義やポリティカル・コレクトネスを持ち出して右派の主張を黙らせようとする左派(Social Justice Warrior)に対し、対抗言論として表現の自由を持ち出して反ポリコレ的主張を正当化しようとする右派(Free Speech Warrior)である。「反ポリコレ的主張」といえばまだ聞こえはよいは、おおよそヘイトスピーチや陰謀論、白人至上主義を正当化しているに過ぎない。

こうした主張を表現の自由に値しないと切って捨てるのは簡単だ。だが、民主主義の根幹をなす表現の自由に対し、誰が、どのような根拠で、どのような表現を、どのような手段によって、どのような手続きを経て制限を加えるか(あるいは責任を負わせるか)という難問に答えるものではない。

政治的表現や性的表現、暴力的表現、宗教的表現、反政府的表現、ヘイトスピーチ、テロの賛美や扇動、トロール、ハラスメント、治安を脅かす表現、外国勢力による情報操作、匿名での表現、ポリティカル・コレクトネスに反する表現など、表現の自由をめぐるせめぎあいは、日本のみならず世界中で見られている。さまざまな論争が巻き起こり、何らかの規制を求める声も高まっている。直接的であれ間接的であれ、すでに現実に制限されている地域もある。その構図も、単なる左右のイデオロギーの対立では説明できないほどの複雑さをはらんでいる。

なかには已むを得ない制限というものもあるのかもしれない。私自身、他者に明確な危害を及ぼすような表現が無制限に許されてよいとは思えない。だがたとえそうであったとしても、目的の正しさは手段の正しさを保証するものではない。あるいは、正義は望ましい結果をもたらすとは限らない。「他者のための自由」を制約すれば、それと同じだけ「自己のための自由」が制約される。

右派と左派による表現のつぶしあいのために、あるいはテロとの戦いのために、反国家的(反政府的)言論を排除・弾圧するために、表現の取り締まりを民間事業者に押し付けているために、大企業の利益を守るために、子どもに不適切な表現を排除するために、外国からの政治的介入を防ぐために、性的人身売買を防ぐために――さまざまな理由から表現に制約が課され、それに巻き込まれるかたちで本来制限されるべきでない表現まで排除されている。

インターネットがなくてはならない当たり前のインフラとなった時代を迎え、表現を発信できることの重要性はかつてないほどに増している。「表現の不自由展・その後」には、こうした複雑な現状にキャッチアップできていない古臭さも感じた。この展示が引き起こす反応によって回収されることを意図していたのかもしれないが、それもまたイデオロギーによって引き起こされる感情によって、意に介さない表現に対する、あるいは容認しうる表現に対する場当たり的な反応が引き出されただけのようにも思える。

私にとって唯一の救いは、普段「表現の自由戦士」と揶揄されている人たちの中に、不愉快な展示だと感じながらも、表現は自由でなくてはならないという態度を表明する人が少なからずいたことだ。彼らとて、不快感からこの表現を様々な理由をつけて排除しようとする人たちからの反発に直面しているが、それでもなお「他者のための自由」を守ることの重要性を説き続けている。彼らには敬意を評したい。

表現の自由は「常に思想を異にする者のための自由」でなくてはならない。そして、この原則は「思想を異にする者」だけに突きつけられるべきでもない。常に自らに向けて、あるいは「思想を同じくする者」にこそ突きつけられなくてはならないのだろう。


  1. ただ、すべてが左派の見地に立った政治的表現とは思えなかった。横尾忠則の「暗黒舞踏派ガルメラ商会」は旭日旗を連想させるとして在米コリアン団体からの抗議を受けた作品であるし、ラッピング電車の第五号案「ターザン」は尼崎JR脱線事故を連想させるとしてJRから却下された案である。Chim↑Pomの「気合い100連発」も作品そのものに政治性は感じられず、大浦信行の「遠近を抱えて」も昭和天皇の存在、あるいは天皇制を否定するような政治的イデオロギーは感じなかった。とはいえ、いずれの表現や文脈も左派からは受け入れられやすく、排除を問題視されやすいような展示だったように思う。
  2. 半分は右派に受け入れられ、左派から反発を受けるような表現にすべきだったと言いたいわけではない。もちろん、政治的イデオロギーを軸に対置するのも1つのやり方ではあるが、「表現の自由を考えさせる」という目的を実現するためであれば手段は問わない。
カテゴリー: Freedom of Speech