以下の文章は、電子フロンティア財団の「Indonesia’s New Draft Criminal Code Restrains Political Dissent」という記事を翻訳したものである。
表現の自由を侵害する刑法改正案への強い反発にさらされてなお、インドネシア法務人権省は先月、政治的批判や市民参加をさらに萎縮させる新たな刑法改正案を国会に提出した。この改正案には、大統領や政府公職者に対する名誉毀損や侮辱を犯罪化する規定が含まれている。
選挙で選ばれた公人や政府への批判・反対意見など、自分の意見を表明する基本的権利を保護するために刑法を改正するならいざしらず、新たな改正案はそうした権利を国民から奪うものである。EFFはグローバルパートナーとともに、インドネシア国会に対し、包括的で意味のあるパブリック・コンサルテーションを実施し、インドネシアの国際人権義務に沿ったかたちで改正案を修正するよう求める。
意味のある公開議論の欠如
オランダ植民地時代から引き継がれたインドネシア刑法は、1958年以降、改革が進められてきた。直近では2019年に改正案が提案されていた。政府はその際、新たな刑法をまもなく承認すると発表したものの、その内容を公表しなかった。その姿勢は国民の反発を招き、結局、政府は刑法改正案を公表せざるを得なくなった。その内容が表現の自由を侵害するものであったために、インドネシア全土で大規模な抗議運動が行われることになった。姦通や冒涜の犯罪化、少数民族・市民社会への抑圧など、国民は改正案のさまざまな条項を懸念したのである。結局、政府はこの刑法改正を断念した。
インドネシア政府は、これまで刑法改正に際してパブリック・コンサルテーションを実施してこなかった実績がある。6月にも新たな刑法改正の方針を公表したが、その内容もまた公開されなかった。政府は市民社会からの圧力を受けて、7月6日に632条の改正案を公開したが、包括的な公開討論を一切行うことはなく、わずか12箇所で開催された「社会化セッション」を通じて市民参加と周知の要件を満たしたと主張している。
7月はじめに公開されたばかり、しかも議論が紛糾している最中にありながら、政府は速やかにこの刑法改正案を採択するよう国会に促している。改正案はすでに国会に提出されているため、もはや公開の議論に市民が参加するすべはなく、議員と政府との質疑応答しか残されていない。つまり、インドネシア国民と市民社会団体は、懸念を表明し、意見を提出し、インドネシアで最も重要かつ影響の大きい法律の形成過程に参画する意味のある機会を与えられなかったということである。
8月はじめ、インドネシアのジョコ・ウィドド大統領は、刑法改正案について、採択前に国民の意見を募り、周知を徹底するよう閣僚に要請した。これは正しい方向への当然の一歩である。
あってはならぬ名誉毀損の刑事罰化
刑法改正案の最大の問題は、大統領、副大統領、政府、公権力、国家機関への名誉毀損や侮辱に禁固刑を含む刑事罰を設けようとしていることにある。名誉毀損法は一般に、評判の失墜から個人を保護することを目的とする。民事の名誉毀損法は、被害を受けた当事者が訴訟を起こし、謝罪や金銭的補償を求めることを可能にする。一方、刑事の名誉毀損法は、人びとを黙らせるためのハンマーとして用いられ、表現の自由を不当に制限する。
インドネシアは植民地時代から脱却しようとしているが、このような規制こそ反対意見や失望の表明を禁止するために、植民地時代に乱用されていたものだ。改正案にある大統領や副大統領への名誉毀損や侮辱を禁じる規定は、かつて女王の威厳を守るために振るわれてきた「不敬罪」と変わるものではない。インドネシア憲法裁判所は、この規定を「植民地時代のレガシー」と評し、表現の自由、情報アクセス、法的確実性の原則を侵害するものとして、違憲であると宣言した。刑事司法改革研究所のジェノベバ・アリシア・カリサ・シエラ・マヤ研究員は、EFFに次のように語っている。
「政府は改正案の不敬罪規定を存続させるために、この判決に異なる解釈を持ち込んでいるようです。最近、政府はこの条文(現在の218条)について、『名誉毀損』と『批判』を区別するためのガイドラインの説明を繰り返しています」
国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、タイの不敬罪を批判し、表現の自由と政治的批判にもたらされる萎縮効果を強調した。だが、政府高官やインドネシア王室が関与する公益性の高い問題を取材したインドネシア人ジャーナリストに名誉毀損罪と不敬罪が武器として用いられている。
たとえば、2020年3月、liputanpersada.comのモハマド・サドリ編集長は、地方政府の道路建設プロジェクトを批判した記事によって2年間の禁錮刑を言い渡された。またアムネスティ・インターナショナルは昨年、中部ジャワ・スラカルタのセベラス・マレ大学の少なくとも7人の学生が、ウィドド大統領の訪問時に、地方農民の支援、汚職対策、パンデミック下における公衆衛生の優先を訴えるポスターを掲げ、逮捕された事件を報告している。こうしたたくさんの事例は、公職者に対する名誉毀損や侮辱の刑事罰の成文化が、インドネシアにおける表現の自由や政治的批判をさらに萎縮させていることを示すものである。
確かに、国際人権法は、名誉を攻撃されない権利を認めている。たとえば、1948年の国連世界人権宣言の第12条は、「何人も、自己の名誉および信用に対する攻撃を受けることはない」と規定している。1966年の市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)第17条は、「名誉および信用に対する不法な攻撃」から保護し、ICCPR第19条は、表現の自由を制限する合法的根拠として「他人の権利または信用の尊重」を挙げている。
だが、表現の自由が絶対的なものではないとしても、国際人権基準では、表現と意見の自由はいかなる社会にとっても不可欠であり、必要かつ狭義の制限しか課されるべきでないとしている。
国連人権委員会の一般的意見34は、名誉毀損の非犯罪化を求めており、「刑法の適用は最も深刻な場合にのみ認められるべきであり、懲役刑は決して適切な刑罰ではない」と指摘している。さらに、名誉毀損法、特に刑事の名誉毀損法は、真実を抗弁として考慮すべきであり、「批判の対象に対する公共の利益は、抗弁として認められるべきである 」とも述べている。
公人批判を処罰してはならない
国際人権スタンダードでは、公人や国家元首への批判の制限は、とりわけ自制が求められている。国連人権委員会の一般的意見34では、国家は「軍や行政などの機関への批判を禁止すべきではない」とされている。また、実際の悪意がなく、誤って公表された公人に対する事実無根の不法な記述については罰せられるべきではない、とも述べられている。
「2021年政治家・公人と表現の自由に関する共同宣言」では、たとえ公人が不快に思ったり、公人を不当に批判する発言であっても、政治的発言は高レベルの保護を享受すべきであると強調されている。最後に、2022年の表現の自由に関する国連特別報告者報告書は、公人が「より高度な国民による監視を期待し、批判に応じるべきである」とも強調している。
2017年のインドネシアに対する前回の国連人権理事会の普遍的・定期的レビュー(UPR)のレビューサイクルでは、多くの勧告が刑法改正案の問題のある条項の見直しまたは廃案に集中した。だが、刑法とインドネシア政府は、情報・電子取引(IET)法で、ネット上の名誉毀損罪の罰則を倍にし、6年以下の禁錮刑という刑事罰を規定した。この規定は公益性を例外としておらず、表現や意見の権利を不当に制限するものである。
SAFEnetエグゼクティブ・ディレクターのダマール・ジュニアルトは、EFFは次のように語っている。
「インドネシアはICCPRを批准しているにも関わらず、刑法とITE法の名誉毀損条項のほとんどは残されたままです。さらに、新たな刑法改正案には、冒涜に関する複数の条文が含まれていて、大統領や政府、公人への名誉毀損や侮辱を犯罪化する規定が盛り込まれています。このような規定は、インドネシアの表現の自由を攻撃し、危機をもたらすでしょう」。
SAFEnetの2021年デジタル権状況報告書によると、インドネシアではIET法の問題の条項に基づいて30件以上、38人が刑事事件で起訴され、およそ60%が人権擁護者、活動家、学者、ジャーナリストを標的にしている。そのうちに2件は、Indonesia Corruption Watch(インドネシア汚職ウォッチ)の2人の研究者が、大統領首席補佐官と、イベルメクチンの流通を担う製薬会社幹部との関係を明らかにしたものである。また、Lokataruのハリス・アズハル、KontraSのファティア・マウリディヤンティの2人の人権擁護者が、パプア紛争に絡んで人権侵害が指摘される金採掘事業者と高級閣僚との関係を暴露したことで、名誉毀損罪に問われてもいる。さらに、グリーンピース・インドネシアの代表が、プレスリリースでインドネシア大統領を森林破壊問題で批判したとして、警察に通報されたりもしている。
結論
インドネシアの人権状況は、この10年でさらに後退した。新たな刑法改正案は、表現の自由・集会の自由・情報アクセスをさらに容易に侵害できるようにするものである。インドネシア国民は人権を尊重されねばならない。インドネシア政府はこの刑法改正案を撤回し、包括的で意味のあるパブリック・コンサルテーションを実施し、国際人権基準に準拠した新たな刑法改正案を起草すべきである。
Indonesia’s New Draft Criminal Code Restrains Political Dissent | Electronic Frontier Foundation
Author: Meri Baghdasaryan / EFF (CC BY 3.0 US)
Publication Date: August 23, 2022
Translation: heatwave_p2p
Material of Header image: JahlilMA (CC BY-SA 4.0)
インドネシアのこれまでの言論統制の状況については、JETROの「ジョコ・ウィドド政権下で進むインドネシアの言論統制(水野 祐地)」で解説されていて、とても参考になった。