以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Every internet fight is a speech fight」という記事を翻訳したものである。
私がLocus Magazineに寄せた最新のコラム「Hard (Sovereignty) Cases Make Bad (Internet) Law」は、オンライン上で表現の自由と国家主権が衝突するとき、我々はどう考えるべきかについて論じたものである。
https://locusmag.com/2024/11/cory-doctorow-hard-sovereignty-cases-make-bad-internet-law/
このテーマは絶え間なく我々の前に現れる。実は、このコラムを書くきっかけとなったのは、ブラジルの裁判所がTwitterに対して一時的なブロッキング命令を発したことについて、「これは純粋な国家主権の問題であって、表現の自由とは無関係だ」という意見を見かけたことだった。
そんなばかな話があるだろうか。コミュニケーションの手段を規制するということは、必然的に表現の自由の問題を孕んでいる。また、世界規模のプラットフォームをめぐる問題であれば、当然のことながら国家主権も関わってくる。
そうでない場合など考えられるだろうか?
では、インターネット上の争いがすべて表現の自由と主権の両方に関わるとすれば、我々はどちらの側に立つべきなのか? 私の答えは明快だ。人権の側に立つべきである。
2013年、エドワード・スノーデンは、米国政府が世界中を違法に盗聴していたことを暴露した。これが可能だったのは、世界が米国のビッグテックに支配され、すべてのデータが米国内で処理されていたからだ。これらのテック企業は密かにNSAと共謀して、違法な監視(「Prism」プログラム)に携わっていた。しかしNSAはテック企業すら裏切り、さらに「Upstream」というプログラムを実行して、テック企業の目を盗んでスパイ活動を行っていたのである。
スノーデンの暴露を受けて、世界中の国々は動き出した。自国民のデータを国内サーバに保管することを義務づけるデータローカライゼーション規則を次々と制定したのだ。これが人権の問題であることは明らかだろう。自国民のデータを米国の諜報機関から守ることは、国民のプライバシーを守ることであり、それはすなわち表現の自由を守ることでもある(監視の目を意識していては、誰も自由に発言できない)。
そういう意味で、民主主義的なEUがデータローカライゼーション規則を制定したのは、人権を守るために国家主権を行使したということになる。
ところが、同様の規則を制定したのはEUだけではなかった。ロシアも同様の措置を講じた。国家主権の観点から見れば、その理由は明確である。2010年代から米露は敵対的な関係にあり、その後も悪化の一途をたどっている。ロシアが自国のデータをNSAの手の届く場所に置きたくないのは、米国が自国民のデータをGRU(軍参謀本部情報総局)の手の届く場所に置きたくない理由と変わらない。
しかし、ロシアの人権状況は、EUや米国とは比べものにならないほど劣悪だ(もっとも、EUや米国も人権尊重の模範とは言えないが)。ロシアがデータローカライゼーション政策を推進した背景には、確かに正当な国家主権の観点はあった。だが同時に、反体制派を特定し、嫌がらせや投獄、拷問、殺害を行うという不当な国内監視の意図も隠されていたのだ。
このように考えると、答えは自ずと見えてくる。国家主権は確かに重要だが、人権の方がより重要だ。両者が衝突する場合、我々は人権を優先すべきである。
別の例をあげよう。タイには不敬罪という法律がある。これは汚職まみれの王室への批判を禁じるものだ。外国人がタイの人々と協力して、王室の汚職報道のブロッキングを回避しようとすれば、それはタイの国家主権を侵すことになる。しかし、それは同時に人権を守る行為でもある。
https://www.vox.com/2020/1/24/21075149/king-thailand-maha-vajiralongkorn-facebook-video-tattoos
サウジアラビアでも王族への批判は法律で禁止されている。外国人が女性の権利活動家たちの表現活動を支援すれば、それはサウジアラビアの主権を侵すことになる。しかし、それもまた人権を守る行為なのだ。
https://www.bbc.com/news/world-middle-east-55467414
つまりこういうことだ。「主権は重要だが、人権はそれ以上に重要である」。
では、Locusのコラムのきっかけとなった2つの出来事に話を戻そう。億万長者でTelegramのオーナーであるパベル・ドゥロフがフランスで逮捕された件と、同じく億万長者のイーロン・マスクが運営するTwitterがブラジルでブロックされた件である。
これらの出来事をどう理解すればよいのだろう? まずはドゥロフの件から見ていこう。フランス政府が彼を逮捕した正確な理由は、まだ明らかになっていない(ナポレオン法典を基礎とする法体系は、時として理解しがたい)。ただ、少なくとも一つの理由として、Telegramにフランスの法律を守らせるという目的があったことは確かだ。その法律とは、削除要請を受理し、それに対応する国内代理人を置くことを企業に求めるものである。
もちろん、すべての削除要請が正当なわけではない。たとえば、サックラー家の弁護士が、大量殺人の罪を負うクライアントへの批判を削除するよう求めてきたなら、それは明らかに不当な要求だ。その一方で、正当な削除要請も確かに存在する。漏洩した金融情報、児童性的虐待資料、非合意ポルノ、現実の脅迫など、削除すべき対象は少なくない。ただし、ここでも問題は単純ではない。これらのコンテンツをオンライン上から排除すべきという点では広く合意があるかもしれないが、具体的な事例がこれらのカテゴリーに該当するかどうかとなると、意見が分かれることも多い。
これは、一見すると線引きが最も明確に思える児童性的虐待資料のカテゴリーでさえ当てはまる。
https://www.theguardian.com/technology/2016/sep/09/facebook-reinstates-napalm-girl-photo
ましてや、doxxing(個人情報の暴露)のような他のカテゴリーになると、その判断ははるかに難しくなる。
https://www.kenklippenstein.com/p/trump-camp-worked-with-musks-x-to
とはいえ、すべての削除要請が正当ではないからといって、すべての削除要請が不当だということにはならない。企業が事業を展開する国に国内代理人を置くべきという考えは、必ずしも抑圧的なものとは言えない。路上でハンバーガーを売る人が規制当局に連絡先を登録しなければならないのなら、9億人のユーザを抱えるグローバルな通信ネットワークを運営する企業が、なぜそうする必要がないというのだろう?
ただし、国内代理人の設置要件には別の顔もある。それは人権侵害の布石として使われる可能性だ。国内代理人を求める国は、暗に企業の従業員や代理人を自国の警察権力の手の届く範囲に置くことを要求しているのである。
データローカライゼーションが、他国の無法な諜報機関からデータを守る手段にも、自国の無法な諜報機関にデータを差し出す手段にもなり得るように、国内代理人の要件も諸刃の剣だ。法の支配を守る手段(正当な削除要請のための窓口を設ける)にもなれば、法の支配を損なう手段(ユーザの権利を守ろうとする企業への圧力として人質を取る)にもなり得るのである。
ドゥロフとTelegramの場合、問題はさらに複雑さを増す。Telegramは自社を暗号化メッセージングアプリと謳っているが、それは半分しか真実ではない。グループチャットは暗号化されておらず、個人間のメッセージでさえ、暗号化機能は使いづらく、その品質も疑わしい。
この点は重要な意味を持つ。フランスは他の多くの国々と同様に、暗号化メッセージングに対して何十年も戦いを挑み続けている。それは完全な的外れだ。なぜなら、悪意ある者(なりすまし犯、ストーカー、産業スパイや外国のスパイ)には効くが、善意ある者(正当な令状を持つ警察)には効かないような暗号化メッセージングツールなど、存在しようがないからだ。エンドツーエンドの暗号化メッセージングを弱体化させようとする試みは、必然的に世界中のユーザを危険にさらすことになる。しかも、暗号化メッセージングツールの禁止だけでは目的は達成できない。有用なインターネットサービスの大部分をブロックし、コンピュータやスマートフォンに強制的にスパイウェアをインストールし、app storeのようにインストール可能なソフトウェアを厳しく制限する必要に迫られる。
https://pluralistic.net/2023/03/05/theyre-still-trying-to-ban-cryptography/
このような文脈で見ると、フランス政府がドゥロフを拘束し、削除要請に対応するための(それ自体は合理的な)最低限の国内代理人を求めたことは、一見すると国家主権と人権の利害が一致しているように見えるかもしれない。
しかし、ドゥロフが運営するのは(少なくとも建前上は)暗号化メッセージングツールであり、それはフランス政府が長年にわたって敵視し、今なお非難し続けている類のメッセージングツールである。そう考えると、人権の観点からは深刻な懸念が浮かび上がってくる。
Telegramの暗号化が疑わしく、使いづらく、提供する通信の大部分には適用されていないという事実は、この懸念をわずかに和らげるに過ぎない。では、この問題についてどう考えるべきだろうか? Locusのコラムでは、次のようにまとめた。
- Telegramは合法的な削除要請に応じる仕組みを持つべきだ。
- そうした要請は人権と法の支配を尊重したものでなければならない。
- Telegramは暗号化にバックドアを設けるべきではない。たとえ
- フランス政府がそれを命じたとしてもだ。
- 主権は重要だが、人権はそれ以上に重要である。
では、マスクの件はどうだろう? ドゥロフの場合と同様に、ブラジル政府はマスクに対して、公式の削除要請に対応するブラジル人代表者の任命を求めた。確かに前政権下でブラジルの民主主義は後退したが、現政権は概して人権に好意的である。ブラジルが国内代理人を人質として利用しようとする兆候は見られず、外国企業に国内代理人の設置を求めること自体にも本質的な問題はない。
マスクの対応は、彼らしい傲慢なものだった。ブロッキング命令を出した裁判官を攻撃し、暴力への扇動をほのめかす発言を行ったのである。
ブラジル政府の対応は複数の側面を持っていた。全土でのブロッキング命令に加え、VPNを使ってブロックを回避しようとするブラジル人への処罰も示唆した。これらの措置が人権に関わる重大な問題をはらんでいることは明らかだ。Twitterを利用するブラジル人の大多数は、ただ正当な表現活動を行っていただけの人々であり、マスクとブラジル政府の争いに巻き込まれた犠牲者となったのである。
さらに深刻なのがVPNの禁止だ。これはプライバシー保護技術全般への攻撃であり、Twitter問題をはるかに超える影響を及ぼしかねない。しかも、VPNの禁止を実効的なものにするには、徹底的なネットワーク監視と、app storeやインターネットプロバイダに対するVPNツールのブロッキング命令が必要となる。これは明らかに行き過ぎであり、正当化できる措置とは言えない。
しかし、ブラジル政府はもう一つの手段も用意していた。米国とは異なり、ブラジルの企業法は事業主の有限責任を厳しく制限している。そこでブラジル政府は、Twitterが国内代理人の指名命令に従わないことを理由に、マスクの他の企業にも罰金を科すと宣言したのだ。SpaceXとTeslaへの罰金という脅しを突きつけられ、マスクはついに折れた。
つまりこういうことだ。ブラジルには、Twitterに国内代理人の指名を求める正当な主権上の利害があった。その目的を達成するために、ある程度問題のある手段(ブロッキング命令)、極めて問題のある手段(VPNユーザへの脅し)、そしてまったく問題のない手段(マスクの他企業への罰金)を組み合わせて使用したのである。
コラムではこう結論づけている。
- Twitterは合法的な削除要請に応じる仕組みを持つべきだ。
- そうした要請は人権と法の支配を尊重したものでなければならない。
- Twitterの遮断はブラジルのユーザの表現の自由を損なう。
- VPNの禁止はブラジルのすべてのインターネットユーザに悪影響を及ぼす。
- しかし、VPNを禁止しなければTwitterの遮断も実効性を持たない。
インターネット政策をめぐる争いは、常に国家主権と表現の自由の双方に関わっている。そして両者が衝突する場合、我々は主権よりも人権を優先すべきだ。主権はそれ自体が目的ではない。人権の促進に資する限りにおいて善とされるのである。
言い換えれば、「主権は重要だが、人権はそれ以上に重要である」。
(Image: © Tomas Castelazo, www.tomascastelazo.com/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0; modified)
Pluralistic: Every internet fight is a speech fight (06 Nov 2024) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: November 6, 2024
Translation: heatwave_p2p