以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Ostromizing democracy」という記事を翻訳したものである。
「現実主義者」が「クズ野郎」の代名詞になっているのをご存知だろうか。たとえば「私は人種差別主義者ではなく、ただの『人種リアリスト』だ」という具合に。同じ「現実主義」は、民主主義そのものを否定するためにも使われている。自称「リバタリアン・エリート主義者」たちの間でだ。彼らは、社会科学によって民主主義が機能せず、そして機能しえないことが証明されていると言う。
あなたも、このイデオロギーの亜種に触れたことはあるだろう。我々の認知バイアスが熟議を不可能にしているだとか、「推論は真理を追求するようにデザインされたのではない。推論は議論に勝つように進化によってデザインされたものだ」とか。
あるいは、有権者は「合理的無知」であり、自分の一票には、誰に投じるかを考えるだけの認知的支出を正当化しうるほどの影響力がないため、政治についての情報を得ようとしないよう選択しているのだ、とか。
合理的な議論では我々の考えを変えることはできず、むしろ自分の大切な信念に固執するようになる「バックファイア効果」もその亜種だ。それに加えて、アッシュ効果もある。多数派からの圧力によって、たとえ彼らが間違っていることを知っていたとしても我々は考えを変えてしまうというものだ。
最後に、一般大衆は経済学をまったく理解していないという事実がある。「パイの大きさだけを気にすべきで、自分の取り分の大きさを気にすべきではない!」といった自明な真理について、平均的な市民と平均的な経済学博士の考えには大きな乖離がある。要するに、マヌケな市民どもは、富裕層がさらに金持ちになり、自分が貧乏になる経済であろうと、全体的に成長している限り良い経済だということが理解できないのだ!
だからこそ、「現実主義者」のピーター・ティールは、女性に投票権を与えるべきではないと考えている。ティールによれば、母親は経済学の「科学」をそっちのけにして、「子供を飢え死にさせてはならない」という感傷に流され、金持ちに課税する政治家に投票しがちだと言う。こうして我々は農奴への道を歩まされている。
https://www.cato-unbound.org/2009/04/13/peter-thiel/education-libertarian
他の現実主義者たちはさらに踏み込み、正統派(シカゴ学派)の経済学者に反対する者に投票権を与えるべきではないとさえ提案する。「サージ・プライシングに反対する者は選挙権を剥奪されるべきだ。エピストクラシー(智者政)では誰が決定権を持つべきかをこのように決めるべきだ」と。
このように、「リバタリアン」たちは様々な主張で民主主義の廃止を求めている。これらのリバタリアン・エリート主義者の中には、民主主義を市場に置き換えることを望む者さえいる。「市場は、民主主義には存在しない非合理性に対する効果的な『利用料』を課している」からだという。
また、新古典派経済学者の見解に関する知識テストに合格できる「ヴァルカン人」だけに投票を制限すべきだとの意見もある。もしこれが、「政治」への精通度と「負の相関」がある黒人や女性の有権者を減らす結果を招いたとしても、仕方ないのだと。結局のところ、これらのグループは「自分に本当に必要なものについて間違えている可能性がはるかに高い」からだと。
これらの議論といくつかの重大な誤りは、ヘンリー・ファレル、ヒューゴ・メルシエ、メリッサ・シュワルツバーグによるDemocracy Journal の優れた論文で繰り返されている(メルシエの研究は、自分の立場を強化したいリバタリアン・エリート主義者に誤って解釈・引用されることが多い)。
https://democracyjournal.org/magazine/68/the-new-libertarian-elitists/
この論文は、American Political Science Review に掲載された新しい学術論文の姉妹編で、著者らは政治学の新たな学問分野として「分析的民主主義理論」を提案している。
「分析的民主主義理論」とは何か。それは、集団的意思決定がいつ、どのように機能し、いつ間違うのかを体系的に研究することだ。なぜなら、リバタリアン・エリート主義者は完全に、全面的に間違っているわけではない。あるグループが悪い決定をする時もある。だがリバタリアン・エリート主義者は、その一片の真実から、自治は不可能であり、我々愚か者と感傷主義者は、我々自身のために、知的エリートの意思に従属させられなければならないという虚無主義的な民主主義全否定の極論を理論化しているのである。
リバタリアン政治学者がこのようなトリックを仕掛けるのは初めてではない。「コモンズの悲劇」という言葉を聞いたことがあるだろう。公園や海岸、森林など、誰も所有していないものを人々が共有しようとしたときに起こることを「現実主義的」に説明したものだとされている。この「悲劇」によれば、コモンズは「合理的」な行為者によって必然的に破壊される。彼らは、自分が過剰放牧し、汚染し、荒廃させなければ、他の誰かがそうするだろうと知っているので、我先にそうしてしまうのだ、と。
コモンズの悲劇は正しいように感じられるし、オフィスや学生寮の汚れたキッチン、公園のゴミなど、誰もが似たような経験している。しかし、1968年にギャレット・ハーディンが Science に発表した「コモンズの悲劇」というアイデアは、でっち上げだった。
ハーディンは、一部のコモンズが悲惨な結末を迎えたと主張しただけでなく、その悲劇は 必然 であり、さらに すべてのコモンズ がその悲劇を経験していると主張した。だが、それはすべてハーディンの頭の中で起こったことでしかなく、真実などではなかった。さらに、ハーディンは熱心な白人国家主義者であり、植民地化と大量虐殺を正当化するために、コモンズについての自身の「現実主義者」の説明を用いた。
結局のところ、植民地の人々は自分たちのコモンズを悲劇から守るための所有権を持ってはおらず、それゆえ彼らのコモンズはすでに破滅が約束されていたのだ。彼らの土地を奪い、そこにいた人々を殺した植民者たちは、実際には植民地の人々を彼らがもたらした悲劇から「救っていた」似過ぎない。
ハーディンはその後、我々の惑星を「人口過剰」から救うために、「劣等な」人々を大量絶滅させる「ライフボート倫理」のアイデアを開拓した(ハーディンは優生学者でもあった)。
ハーディンのコモンズに関する欠陥のある説明は、新古典派経済学を支えるイデオロギーである経済主義の問題点を示す好例だ。
https://pluralistic.net/2022/10/27/economism/#what-would-i-do-if-i-were-a-horse
エリー・デボンズは、経済主義をこう要約する。「もし経済学者が馬を研究したいと思ったら、彼らは馬を見に行ったりはしない。彼らは自分の研究室に座って、『もし私が馬だったらどうするだろう』と自問自答する」と。
ハーディンは自問した。「もし私がコモンズに頼っていたら、私はどうするだろうか」と。そして、現実主義者(つまり、クズ野郎)であるハーディンは、他の現実主義者が先にそうしなければ、自分がコモンズからすべてを盗むだろうと決めたのだ。
ハーディンはコモンズを見に行かなかった。しかし、全員がそうではなかった。
エリノア・オストロムは、成功し持続可能なコモンズの特性を研究した功績でノーベル賞を受賞した。彼女はコモンズを見に行ったのだ。
https://www.onthecommons.org/magazine/elinor-ostroms-8-principles-managing-commmons
オストロムは、成功するコモンズと失敗するコモンズを区別する状況、メカニズム、原則を体系化した。
分析的民主主義理論は、オストロムがコモンズに対して行ったことを、民主的な熟議に対して行うよう提案している。良い集団推論を生み出し、悪い集団推論に陥る落とし穴を避けるための方法、取り決め、状況、システムの経験的な説明を構築しようというわけだ。経済学者はこれをミクロ的基礎(microfoundations)と呼ぶ。個人間の相互作用を詳細に研究し、それから社会全体をどのように構造化するかについての「マクロ」な説明を生み出すのだ。
ミクロ的基礎がどのように大きな疑問に答えることができるのか、その例をいくつか紹介しよう。
- バックファイア効果:元のバックファイア効果の研究は偶然の産物だった。たいていの場合、十分なソースのある事実と良い議論を提示された人々は考えを変えることがわかっている。ただし、常にそうとは限らない。
https://link.springer.com/article/10.1007/s11109-019-09528-x
- 合理的無知:「合理的無知」理論の予測に反して、特定の問題に関心を持つ人々は、その問題について 非常に 知識豊富な「イシュー・パブリック」になり、候補者の立場を深く調査して反応する。
https://www.tandfonline.com/doi/pdf/10.1080/08913810608443650
合理的無知は蜃気楼のようなもので、人々に直接的かつ個人的に影響を与える政治についてアンケートを行うのではなく、漠然とした 政治についてのアンケートを行うことで引き起こされる。
- 「マイサイド」バイアス:ある集団に強く帰属していても、その集団からの「誤ったメッセージ」に矛盾する良い証拠を得れば、それをフィルタリングできる。
https://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674237827
- 同調バイアス:多数派の見解が非現実的な場合、多数派が少数であった場合、または多数派が善意を持っていると認識されていない場合、人々は多数派のコンセンサスを拒否できる。アッシュ効果は「フォークロア」であり、確かに多数派の意見を否定すると社会的制裁に直面する場合には多数派の意見に同調すると 言う かもしれないが、それは彼らが考えを変えたことを意味しない。
https://alexandercoppock.com/guess_coppock_2020.pdf
だが、分析的民主主義理論にはまだまだ大きな課題がある。以下のトレードオフを含め、熟議がいつ機能し、いつ失敗するのかについて、具体的に調査しなければならない。
- 「社会的快適さと反対意見を表明する快適さ」
https://sci-hub.se/10.1016/S0065-2601(05)37004-3
- 「共有された共通基盤と、ある程度の既存の不一致」
https://sci-hub.st/10.1037/0022-3514.91.6.1080
- 「集団サイズと多様性を代表する必要性」
https://www.nicolas.claidiere.fr/wp-content/uploads/DiscussionCrowds-Mercier-2021.pdf
- 「同調圧力と認識的評判への懸念」
https://academic.oup.com/princeton-scholarship-online/book/30811
現実主義は、観察に見せかけた願望に過ぎない。マーガレット・サッチャーのような現実主義者は、新自由主義に「代案はない」と主張したが、彼女が言いたかったのは「代案を考えるのをやめろ」ということだった。ハーディンは、一部のコモンズが悲惨な結末を迎えたと主張しただけでなく、コモンズの悲劇は避けられないと主張した。我々は公共財を生み出そうとすることさえすべきではないのだと。
オストロム・メソッド(自分のように考える人がいたらどのように機能するかを自問するのではなく、実際に何かがどのように機能するかを研究すること)は、これに対する強力な解毒剤だが、それだけではない。サイエンス・フィクションをとても強力にしているのは、あるシステムが異なる社会的な取り決めの下でどのように機能するかを問う能力だ。
実にラディカルな提案である。そのガジェットが何をするかだけでなく、それが 誰のために 何をし、誰に対して 何をするかを尋ねるのだ。それこそがラッダイト運動の基盤だ。ラッダイト運動はテクノロジー嫌悪でテクノロジーを拒絶するものとして中傷されているが、それは常にそのテクノロジーの特定の経済的取り決めに対する社会的拒否でしかなかった。もっと言えば、ラッダイト運動は、孤児院から子供を誘拐し、「子供でも扱える」ほど簡単な機械で、子供を死ぬまで働かせるという考えを拒否したのだ。
https://pluralistic.net/2023/03/20/love-the-machine/#hate-the-factory
SF作家の中には、熟議ツールによってどのような新しい民主的制度がもたらされるかを想像することで、大きな進歩を遂げている作家たちがいる。ルサンナ・エムリスの2022年の驚くべき小説「A Half-Built Garden」は力作だ。
https://pluralistic.net/2022/07/26/aislands/#dead-ringers
ささやかでも私もここに貢献していると思いたい。私の次回作「The Lost Cause」は、根本的には、グリーン・ニューディール後の修理グループ、海を渡る無政府資本主義的なテクノ・ソリューショニスト、そして恐怖を与える白人国家主義者民兵団の間で、競合する集団の意思決定論の物語だ(11月に発売予定)。
https://us.macmillan.com/books/9781250865939/the-lost-cause
Pluralistic: Ostromizing democracy (04 May 2023) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: May 04, 2024
Translation: heatwave_p2p