以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Tech’s benevolent-dictator-for-life to authoritarian pipeline」という記事を翻訳したものである。
テック業界の「権威主義への転向」は誰の目にも明らかだ。テック企業の経営者たちは、トランプ、オルバン、ミレイ、ボルソナロのような独裁者を支持し、サンフランシスコを民兵が巡回する、テックブロの利益を最優先するアパルトヘイト国家に作り変えようとしている。
https://newrepublic.com/article/180487/balaji-srinivasan-network-state-plutocrat
優れた思想家たちがこの現象の意味するところを論じており、彼らの考察に大いに刺激を受けている。
https://www.programmablemutter.com/p/why-did-silicon-valley-turn-right
常連読者なら知っているだろうが、私は右翼思想の定義の収集を趣味にしている。
https://pluralistic.net/2021/09/29/jubilance/#tolerable-racism
その定義の一つに、「保守主義者とは強盗に襲われたリベラリストのことだ」という古びたクリシェがある。これを真に受けてはいないが、ある匿名の格言と組み合わせると興味深い意味合いを帯びてくる。「保守主義者は子供時代のシンプルな時代を懐かしむが、当時の生活がシンプルだったのは時代がシンプルだったからではなく、彼らが子供だったからだ」。
仮にあなたがテック企業の創業者で、かつては従業員も仲間で、労使関係について声を荒らげることもなかった世界に生きていたとしよう。しかし、声を荒げるようになったのは労働者が「ウォーク」になったからではなく、スタートアップで奮闘していた頃は皆が対等な立場にあり、そもそも労使関係など存在しなかったからかもしれない。また、以前は漠然と「社会正義」を支持していたテック企業の創業者が、今では特権と向き合えと迫られて困惑しているとすれば、変化したのは人々ではなく、むしろ自分の持つ特権の大きさなのだろう。
言い換えれば、「反動的なテック経営者とは、友人たちを雇用したものの、彼らが一転して労働組合を結成し始めたリベラルなテック経営者のことだ」。さらにこうも言える。「テック企業の創業者たちはスタートアップを運営していた頃の方がシンプルだったと言うが、彼らのスタートアップが引き起こす社会的害悪について真剣に問われなかったのは、そのスタートアップがまだ社会にとってどうでもよい存在だったからだ。一方で、今や大企業となったそれは数百万人の生活を破壊している」。
「私が進歩的運動を去ったのではなく、彼らが私を置き去りにしたのだ」という、よくある反動的な言い訳は、表面的には正しくても本質的に間違っているのかもしれない。もし以前はあなたの商業活動について進歩派の仲間から咎められることがなかったとすれば、ハッカーハウスでコードを書いていた頃はその活動に社会的な意味がなかったからだ。しかし、数百万のユーザと数千人の従業員を抱える今では、その活動は社会に重大な影響を及ぼすようになっている。
私はドットコム以前からテック業界にいた。当時の我々は、誰もが我々と同じように楽しめるようにと、フロッピーディスクを山のように抱えて家々を訪れ、TCP/IPやPPPネットワークソフトウェアをインストールし、BBSやISPへの接続方法を教えて回ったものだ。
我々の中には、その熱意をオンラインへの接続、デジタルプレゼンスの構築、他者とのつながりを可能にする企業の立ち上げへと向けた者もいた。一方で、.ORGの精神を持ち、ストックオプションや大金を手にする機会を逃しながらも、アクティビズムやNPOに人生を捧げた者もいた。最終的に異なる道を歩むことになったとはいえ、我々のほとんどは同じ出発点に立っていた――このインターネットというものがいかにクールかを熱っぽく語り、誰もがそこに飛び込めるよう手助けする、情熱に満ちた若者として。
.ORGと.COMの世界にいた仲間の多くは、その後、組織――企業とNPOの両方――を立ち上げた。それらは今やインターネットインフラの重要な一部となっている。クラシファイド広告プラットフォーム、オンライン百科事典、CMSやパーソナル出版サービス、重要なフリー/オープンソースプロジェクト、標準化団体、サーバー間ユーティリティなど、枚挙にいとまがない。
これらはすべて善意の独裁として始まった。デジタル時代の新しい課題に直面したバーチャルな隣人たちを助けようとする個人的なプロジェクトとして。善意を持ったこれら善良な人々は、確かに良い仕事をした。彼らのプロジェクトは重要なニーズを満たし、成長を続け、デジタル世界にとって構造的に不可欠な存在となった。「仲間のプロジェクトを皆で手伝う」という段階から、「仲間の重要なミッションを手伝うものの、有給スタッフや重要なステークホルダーもおり、仲間は『優しい終身の独裁者(BDFL)』として監督している」という段階へと変わっていった。
それは理にかなっていた。これらのプロジェクトを、ナプキンの落書きからインフラストラクチャへと育て上げた人々は、他の誰よりもそれを理解し、多くを犠牲にしてきた。彼らが管理者として据えられることは自然な流れだった。
しかし、彼らがその後にとった行動、「BDFL」としての権力をどのように行使したかが、大きな違いを生むことになる。人は誰しも不完全な存在で、合理化によって間違った選択へと導かれかねず、後悔するような行動へと駆り立てる不安を抱えている。我々の行動が――仲間からの社会的評価や批判、ボランティアの幸せを保つ必要性、ユーザの大量流出やコードのフォークのおそれによって――チェックされているうちは、これらの不完全さは結果によってバランスが取られる。
独裁者は必ずしも他の誰よりも判断を誤りやすいわけではない。善意の独裁者は確かに存在する。本当に善のためにその力を使いたいと思うからこそ権力を保持している人々だ。そういった人々が、あなたや私よりも感情的だったり、自分を追い込みやすいわけではない。しかし、(善意であるか否かを問わず)独裁者であることは、そうした衝動に屈するのを防ぐ歯止めなしに存在しうることを意味する。さらに厄介なことに、数百万人が依存する大規模かつ構造的に重要な企業やNPOの独裁者(これも善意であるか否かを問わない)である場合、その過ちは極めて重大な結果をもたらす。
これがBDFLの仕組みが悪い方向に向かう理由だ。正式な制約から自身を解放することで、失敗によって最も重大な影響を受ける人々が、失敗を防ぐためのガードレールを最も持たない状況に置かれることになる。
善を成し、他者がオンラインで安全で満足できるデジタルな居場所を見つけられるよう手助けすることを目指した人々が、怒りを感じ、追い詰められていると感じるようになるのも不思議ではない。そのような感情を抱えた状況で、「優しい」独裁者たちが、「私は何をすべきか知っている。もし他の皆が、10分前に思いついたくせにこれぞ世界で最も重要なことだというチンケな主張で私を煩わせるのをやめてくれれば、私はそれを実行できるのに」という本音を抱えた現実世界の独裁者たちに共感するようになったとしても、驚くには値しない 。
とはいえ、一部のBDFLがチェック・アンド・バランスを備えたコミュニティ運営のプロジェクトへと移行していった過程を見るのは興味深い。私はしばしば、Wikipediaの BDFL で自称リバタリアンのジミー・ウェールズが、ある奇妙なアイデアから世界史的な現象へと育て上げたプロジェクトを、一人の人間によって、それが彼自身であろうと、支配されるべきではないと(正しく、そして彼の永遠の功績として)決断したことについてよく考えている。
(ジミーは、リバタリアンで、親切で、他人の世話を焼くので、政府が我々に親切にさせ、互いの世話をさせる必要はないと考えている――ジョン・ギルモアやペン・ジレットもそうだが。)
https://www.cracked.com/article_40871_penn-jillette-wants-to-talk-it-all-out.html
ジミーのウィキメディア財団への権限移譲は、他のBDFLたちにも希望を与えるものだ。重要な立場に就いても個人的な不満に押しつぶされて現実のファシストに共感するのではなく、むしろ、人々があなたに多くを要求する理由は、あなたが――意図して、そして並々ならぬ努力を払って――世界に対して超人的な注意と配慮を払う必要がある状況を作り出したからであり、その状況を公平に解決し、自身の功績を後世に残す唯一の方法は、その力を広く共有することであって、非難を受けずに振るえる権利を要求することではない、と理解できる成熟さと自己認識が可能であることを、彼は証明してみせたのだから。
Pluralistic: Tech’s benevolent-dictator-for-life to authoritarian pipeline (10 Dec 2024) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: December 10, 2024
Translation: heatwave_p2p