TorrentFreakISPが自らを「土管」と称し、そのネットワークを通過するコンテンツを監視・管理しないのは、法的には賢明である。しかし、社会の感情が高まれば、その事実は真実ではなくなり、その態度は一瞬で覆されてしまう。問題は、情報アクセスに大きく影響する措置が、一面的な視点を持って実施されてしまうことだ。

これまでTorrentFreakでは、ISPが何の説明もなしにファイル共有プラットフォームをブロッキングしていることを長らく伝えてきた。

詳しく検証してみると、英国インターネット監視財団(IWF:Internet Watch Foundation)をはじめとする慈善団体が、児童ポルノがオンラインプラットフォームで発見した後、ISPと共同でブロッキングを実施していたことが明らかになった。

プラットフォーム全体のブロッキングは明らかに過剰な措置であり、私自身、数年前にこの点をIWFに指摘した。だが、実際にこうした人たち――つまり児童虐待者による児童ポルノのオンライン共有を防ぐために、来る日も来る日も目を背けたくなるようなコンテンツを見なくてはならない人たち――と話をしてみると、共感を覚えずにはいられないのも事実だ。

彼らがこうしたコンテンツに目を光らせてくれているおかげで、我々がそうせずに済んでいる。そうした活動は賞賛に値し、間違いなく彼らのおかげでインターネットはよりよい場となっているのである。

だが、こうした活動は検閲を導くものでもある。どの程度の検閲であれば許容できるのか、そうした検閲は社会にとって望ましいものなのか、そうではないのか、という見方は人によって異なる。ほとんどの人は、子どもたちを虐待する映像を検閲すべきでないとは考えないだろう。そこには犯罪だからという以上の理由が存在している。

では、ニュージーランドで無辜の男性、女性、子どもたちが虐殺された光景を撮影したビデオについてはどうだろうか。それも検閲されるべきなのだろうか。そうとは考えない英ミラー紙は、その映像を一面に掲載し、大きな非難を浴びることとなった。

一方、FacebookやYouTube、Redditをはじめとするプラットフォームは、検閲すべきか否かという問いに即座に答えを出した。これらのコンテンツはプラットフォームの利用規約で許可されたものではない、として削除に踏み切った。それを好ましいと思うか否かにかかわらず、それが決まりであり、プラットフォームにおけるルールなのである。

しかし、ここで大きな疑問が浮かぶ。権力者が、我々のためを思って、この恐るべき映像の閲覧を阻止することは許されるのだろうか。たとえそれが、我々の文明が直面する問題を理解するためのものだったとしても。

9/11の恐怖を理解するために、数千の人々の生死を映し出した国際ライブ放送を視聴する必要はあったのだろうか。我々は本当に、燃え盛るビルから見を投げ出す人たちの映像を見る必要があったのだろうか。その必要はなかったのだとしても、もはや手遅れである。その悲惨な映像は、今もYouTubeに残されている。

「9/11を忘れてはならない」という言葉に、誰もが同意するだろう。しかし、自分自身がそれを目にしたからこそ、忘れることができないのだ。

では、本当に私たちは、人々が悲嘆に暮れている理由を理解するために、無差別大量殺人の銃撃犯によるFacebookライブを目撃する必要があったのだろうか。それとも、過激主義者の宣伝を広めるべきではないという考えに基づいて、権力者に守ってもらうべきなのだろうか。

そうした権力にISPが含まれるのだとしたら、既にその答えは突きつけられている。広く報道されているように、オーストラリアとニュージーランドのISPはこの事件を受けて、インターネット上のあらゆるテロリストのビデオの(そのすべてを即座に削除できるわけではないにしても)ブロッキングを開始した。

Spark NZVodafone NZVocus NZは、裁判所命令によらず、MEGAやLiveleakをはじめとする一連のプラットフォームに対するブロッキングを自主的に実施したのである。

「私たちSparkのサイバーセキュリティチームは、テロリストによる恐ろしいコンテンツを配信するサイトに対処するため、夜を徹して最善を尽くしています。そうしたコンテンツが発見された場合、一時的なブロッキングを措置を講じ、そのコンテンツを削除するよう求める通知をサイトに送付しています」とSpark NZマネジメント・ディレクターのサイモン・ムッター氏は言う。

彼は巻き添え被害についても認め「サイトブロッキングによって、適法なインターネットユーザにも迷惑をかけている」ことを謝罪する一方で、この危機的状況に対処するための実利的な措置であるという。

ブロッキングの巻き込まれ被害はさまざまなかたちで生じているのだろうが、Spark、Vodafone、およびVocusは、IWFと同様に、善意にもとづいて、危機的な状況への対処に必要な措置としてブロッキングを実施したのだろう。

しかし問題は、ニュージーランドのISPが、このクライストチャーチの大量殺人事件を経て、窮地に立たされる可能性があるということだ。ISPがインターネット警察になろうとすれば、自らインターネット警察になりうることを一夜にして証明してしまったのだから。

特にVocusは、大きな矛盾を突きつけられることになるだろう。

昨年、Vocusは(訳注:海賊版トレントインデックスサイトの)パイレート・ベイへのブロッキング要請に対して「(訳注:メディア企業の)SKYの求めるがままにサイトをブラックリストに入れろという同社の要請は、横暴である言わざるを得ない。北朝鮮であればまだしも、ニュージーランドに期待すべきことではない」と述べている。

当時の声明では「インターネットの取り締まりは我々の仕事ではなく、SKYがすべきことでもない。あらゆるサイトが平等かつオープンに扱われなければならない」と明言していたのだ。

大量殺人と著作権侵害とを同一視して、前者を軽視してよいと言いたいわけではない。無辜の人々が攻撃に晒されていることを考えれば、その優先度が高いことは言うまでもない。しかし、情報アクセスに大きく影響する措置が、一面的な視点を持って実施されていることもまた確かだ。

根拠となる法律がないにもかかわらず、ISPが自ら適切と考えるときに(あるいはそうでないときでも)インターネット警察として振る舞えることを証明してしまったのである。ISP自身がパンドラの箱を開いてしまったと言わざるを得ない。

議論を整理すると、問題の残虐なビデオをインターネット上に公開する行為は、ニュージーランドの法律に照らせば違法行為である可能性はある。しかし、政府でさえ、当初はその違法性について「ニュージーランド法のもとでは不適切な内容である可能性が高い」と述べるにとどめ、明言は避けていた。

その見解は月曜には変更された。ニュージーランドのデヴィッド・シャンク主任検閲官は、1993年フィルム・ビデオ・出版物分類法に照らして当該のビデオは「不適切」であり、従って違法であると発表したのだ。

振り返って考えれば、ISPがなぜこのような行動をとったのかは容易に想像できる。ニュージーランドは平和な国であり、殺害された市民(および残虐な銃撃により殺害された他の国の人々)の家族は、この絶望的な状況において可能な限りその尊厳を守られなければならない。

問題のISPは、その目的のために自らが積極的に貢献しうる立場にあると感じ、そうしなければならないと考えたのだろう。結局のところ、彼らは危難に際して、被害を受け、影響を受けているコミュニティに奉仕しているのである。すべての人々が小さな貢献を積み重ねることで、大きな違いを生みだすことができる。そのような集合的な取り組みは、間違いなく人間の持つ素晴らしい性質である。

しかし、広範なインターネット検閲に対抗するための障壁は、いまや大幅に弱められており、無数のグループがそれぞれに検閲して欲しいモノを抱えて列をなしている。上記の企業が、ISPがインターネット警察ではないと主張したところで、その立場を取り続けることはますます難しくなるだろう。

私個人の体験を言えば、Whatsappのコンタクトリストに登録されている2人のユーザから、件のビデオが送られてきた。同サービスを所有するFacebookがそれを防いでくれていれば、私は心を乱されずに済んだのかもしれない。しかしそれは、企業が私のコミュニケーションに介入することを意味している。我々は難しい選択を迫られているのかもしれない。

しかし、結局のところ、私には問題ではなかった。私は成人であり、自分の人生は自分で切り開けるのだから。

私はこのビデオを見ないことを選んだ(ネット上の詳細なテキストで、事件の凄惨さは十分伝わった)。そして、私の返信が、二度とそのようなものを受け取りたくはないという意図であったことを、2人の送信者が理解してくれることを望んでいる。もちろん、そのビデオをインターネット上で見つけようと思えば、誰であれ、10分以内に見つけることはできるだろう。しかしここで重要なのは、教育を受けた個人の選択であって、ISPの権力ではない。

ISPは人間の性質を変えるほどの力を持ち合わせてはいない。人間を変えることができるのは、自分自身の人生経験、教育、そして価値観だけだ。先週、凶行に及んだモンスターは、明らかにその領域において深刻な問題を抱えている。とはいえ、そのような恐怖を自分自身のために目にすることは、時にポジティブな効果をもたらすこともある。

2000年代のはじめごろ、私は(記憶が正しければ)Kazaaでダウンロードしたあるビデオを視聴した。喉を切り裂かれる兵士の映像だという。このビデオは私にとって、それまでに経験したことのない、愚かな暴力に対する嫌悪療法として作用した。その男性は極めて残虐な方法で命を断たれたが、その映像から得られた唯一の救いは、暴力と残虐行為はいかなる代償を支払ってでも防がねばならないという確固たる信念を持つに至ったことだ。

今週、あのビデオを見た多くの人が、私と同じように、ある種の悟りや前向きな影響を体験することを切に願う。たとえ今日にはそう思えなくても、いつかそうなってくれればと思う。だが、間違いを犯してはならない。ブロッキングにせよ、他の方法にせよ、検閲を実施したところで、歪んだ人たち、傷口に塩を擦り付けるオルタナ右翼の連中の心を変えることはできないのだ。

ISPが何らかのコンテンツをブロッキングしたとしても、確信犯に対しては常に無力だ。海賊版コンテンツの事例であれば、ニュージーランドに長期的な変化をもたらしうる唯一の方法を我々は既に知っている。しかし、先週の事件によってもたらされた恐怖は、内側から変えていかなくてはならない。

我々の歩みは個々人の選択によって進むものであり、その選択こそが、長期的に意味のある変化を生み出す唯一現実的な方法なのだ。殺人犯の動機が詳細に分析されると共に、なぜFacebookライブストリーミングの視聴者が、誰一人として虐殺を通報しなかったのかという点も十分に検証されねばならない。

検閲は、たとえ善意にもとづくものであったとしても、議論を巻き起こすのが常である。しかし、ニュージーランドのISPにとって、彼らがインターネット警察ではないと主張するのは、これまでよりずっと難しくなるのは間違いない。

不適切と感じるコンテンツを検閲させるべく、数多くのグループが列をなしている。だが、彼らが自らの目的のために検閲を悪用させないためのチャンスはまだ残されている。物事を冷静に捉える態度が優勢になり、教育と思いやりによって、こうした残虐行為が防がれることを望むばかりである。

ISPs: We’re Definitely Not the Internet Police, Until We Decide We Should Be – TorrentFreak

Author: Andy / TorrentFreak / CC BY-NC 3.0
Publication Date: March 24, 2019
Translation: heatwave_p2p
Header Image: Ali Morshedlou