以下の文章は、電子フロンティア財団の「A Flourishing Internet Depends on Competition」という記事を翻訳したものである。
反トラスト法は古くから、独占がイノベーションを阻害し、価格で消費者を食い物にすることと認識してきた。ビッグテックに関連するところでは、主要企業が新規参入者を競合になる前に買収してしまう「キルゾーン(kill zones)」が、まさにイノベーションを損なう典型例といえる。一方で消費者への被害は、ビッグテック企業のサービスの多くが「無料」であるため、定量化が難しかった。だが、消費者への害を判断する基準を価格だけでなく、もっと広い視野で見れば、競争がインターネットエコシステム全体にもたらす恩恵がより鮮明になる。
インターネットが私たちの生活に登場してから数十年。それは未知の領域から、一握りの巨大企業が支配する世界へと様変わりした。政策立案者はこの変化に追いつけず、ビッグテック企業の利益をインターネット全体の利益と混同してきた。その結果、バランスの取れたエコシステムではなく、モノカルチャーへと突き進んでいる。巨大企業に集中した力を取り戻し、新たな成長の芽を育む豊かな土壌を取り戻さなければならない。
コンテンツモデレーション
コンテンツモデレーションを例に取ろう。専門家たちは決まって大規模なコンテンツモデレーションは不可能だと指摘する。Facebookは30億人を超えるアクティブユーザを抱え、100以上の言語に対応している。しかし、Facebookは米国企業であり、そのビジネスは主に英語圏で展開されている。コミュニケーションはどの文化でも、文脈に大きく依存する。たとえ各言語の専門家を雇用したとしても(実際はそうなってはいないが)、企業そのものが米国の価値観で動いている以上、おのずと限界がある。それゆえ、自らの文化や言語に根ざしたソーシャルメディアを選べることが重要になる。必ずしもそうしたサービスを選ばなければならないわけではないが、その選択肢があることに意味がある。
すでに小規模なフォーラムでは、その萌芽が見られている。2019年、編み物のパターンと糸に関する議論が盛んな編み物サイトRavelryは、サイト内の議論が有害化したことから、トランプ大統領(当時)に関する話題を全面的に禁止した。これに不満を持ったユーザたちは団結し、禁止されたコンテンツを別の場所で共有する道を選んだ。
競争環境があれば、FacebookやTwitter、YouTubeに理想のコンテンツルールを要求のではなく、自分の望むルールを持つサービスを選択できる。合衆国憲法修正第1条で保護されるすべての表現を求めるなら、それを実現するサービスを見つけられる。明確で一貫性のあるルール執行を望むなら、それも見つけられる。とりわけ小規模なプラットフォームなら、今の巨大企業たちとは違って、実際にルールを執行できるだろう。
製品の質
同様のことは、製品の質とプラットフォームの「メタクソ化(enshittification)」にも当てはまる。仮にFacebookのユーザが全員同じ言語を話していたとしても、価値観やニーズ、欲求まで同じとは限らない。しかしFacebookは米国企業として、英語と米国の文化規範に沿ってビジネスを展開している。現在のFacebookのフィードは、ユーザの エンゲージメントと滞在時間を最大化するよう設計されている。レコメンデーションアルゴリズムを好む人もいれば、従来型の時系列表示を望む人もいるだろう。だがFacebookには選択肢を提供する動機がない。なぜなら、その価値を提供する競合他社にユーザを奪われることを心配しなくていいからだ。できるだけ多くの人に、できるだけ多くの広告を見せることしか考えていない。そもそもFacebookには、ユーザが体験をカスタマイズできる機能が欠けている。フィードを時系列順に並べ替えたり、見知らぬ人の投稿を除外したりする機能もない。現行の広告重視のアルゴリズムを気に入っている人もいるかもしれないが、それ以外の選択肢を求める人々は望む製品を手に入れられない。
もう1つの顕著な例が、Google検索の質の劣化だ。今や陳腐な批判に聞こえるかもしれないが、登場したてのGoogleは、a)探しているものを的確に見つけられる、b)通常の言語で検索できる(望む結果を得るためにブーリアン検索を使う必要がない)という点で革新的だった。長年、Googleの真骨頂は、どんなにユニークな検索語句でも適切な結果を見つけ出す能力にあった。探しているものの中の特定のフレーズを覚えていれば、Googleはそれを探し当てることができた。しかし際限のない「成長」への執着から、Googleは質の高い検索結果よりも量を重視する方向へと舵を切った。検索結果の1ページ目は広告とスポンサーリンクで埋め尽くされるようになった。
モラル、プライバシー、セキュリティ
ビッグテックのサービスを避けたいと考える個人や小規模企業は少なくない。サービスの質が悪いとか、倫理的・道徳的な懸念があるという理由からだ。しかし彼らが巨大化すればするほど、その回避は難しくなる。例えば労働者への扱いに反対してAmazon.comでの買い物を控えても、コマース部門を資金面で支えているAmazon Web Services(AWS)の利用は避けられないかもしれない。Netflix、The Guardian、Twitter、Nordstromといった企業はどこも、Amazonのサービスに料金を支払っている。ミシシッピ州雇用保障局も2021年、データ管理をAmazonに移管した。Amazonを完全に避けることは事実上不可能なのだ。これは、賛同できない企業からビジネスを引き上げる「足による投票」が機能しないことを意味する。
競争の不在は、セキュリティとプライバシーをも危険にさらす。すべてが1社に集中すれば、悪意ある行為者や抑圧的な国家は望むものを手に入れやすくなる。誰もが依存するツールを1社が握っていれば、障害が起きた時の影響は世界規模に及ぶ。このデジタルモノカルチャーの危険性は、今年のCrowdstrike障害で露呈した。浅慮なアップデート1つが、世界中の様々な産業ネットワークを機能不全に陥れたのだ。個人レベルでも、中絶について話し合っていた母娘のFacebookメッセージが刑事捜査に利用された事例や、犯罪現場から一定距離内のすべてのデバイス情報の提供をGoogleに要求する「ジオフェンス令状」に、デジタルモノカルチャーの危険性が表れている。また、表現の場が少数に限られれば、当局による特定表現の取り締まりが容易になり、ゲートキーパーによるクリエイティビティの支配も強化される。
プライバシーと競争の関係を示す別の例が、Googleの「Privacy Sandbox」だ。Googleはこれを、ウェブ上での追跡に使われる「サードパーティCookie」を廃止するものだと謳っている。しかし実際には、追跡データの管理をGoogleの独占下に移行させただけで、広告独占の強化に役立つものでしかない。Privacy Sandboxは追跡をなくすのではなく、ブラウザ内で直接追跡を行い、広告主やウェブサイトが自前で行っていた追跡の代わりに、閲覧履歴から得られた情報へのアクセス料からGoogleが利益をあげられるようにしている。これはプライバシー強化どころか、データ管理の一極集中にほかならない。
AppleのApp Storeでも、Beeper Miniを巡って同様の構図が見られた。Beeper MiniはAppleとそれ以外の端末間でiMessageを通じたセキュアな通信を可能にし、暗号化されていない(つまりiPhone間ではない)メッセージを意味する悪名高い「緑のバブル」を解消するアプリだった。Appleの当初の意図は会話がセキュアでないことを示すデザインだったが、結果的に「iPhoneを持っていない」ことのスティグマとして機能し、iPhoneの購入を促すためのデザインを意味するようになった。Beeper Miniはメッセージをよりセキュアにし、緑のバブル解消のために新しい端末を買う必要性をなくした。これに対しAppleは、Beeper Miniを機能停止に追い込んだ。セキュリティより独占を選んだのだ。もしAppleが自らiPhone以外のメッセージもセキュアにする道を選んでいれば、話は違った。しかし実際には、ユーザ自身がメッセージをセキュアにすることを妨害しただけだった。
もちろん、競争は万能薬ではない。しかしプライバシーと同様、競争に重きを置くというのは、火災が起きてから消火するのではなく、防火に重点を置くことを意味する。いわば計画的な野焼きのようなものだ。新芽の成長を妨げ、かつてない規模の火災を引き起こしかねない枯れ草を、前もって取り除くのである。
A Flourishing Internet Depends on Competition | Electronic Frontier Foundation
Author: Katharine Trendacosta / EFF (CC BY 3.0 US)
Publication Date: October 18, 2024
Translation: heatwave_p2p
Material of Header image: Mohammad Ali, modified