以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「It was all downhill after the Cuecat」という記事を翻訳したものである。

Pluralistic

2001年のある日、私はサンフランシスコのマーケットストリートにあるラジオシャックに行き、「Cuecat」という、ネコというか、オトナのおもちゃというか、そんなカタチの携帯型バーコードスキャナを求めた。店員からCuecatを手渡され、少しめまいがするような気分で店を出た。1セントも払わずに済んだのだ。

Cuecatは素晴らしいアイデアで、最悪なアイデアだった。素晴らしかったのは、バーコードスキャナとバーコード読み取りソフトウェアをパソコン所有者に広めたことだ。この企業のマーケティングプランは、雑誌・新聞の広告や記事の横にバーコードを印刷し、読者がそれをスキャンするとデジタル版にジャンプできるようにするというものだった。同社はCuecatの普及に向けて数百万ドルを調達し、大量生産して、全国のラジオシャックで無料配布したり、『Wired』や『Forbes』の購読者に郵送した。

実に良いアイデアだったと思う(基本的には今日のQRコードの原型である)。だが最悪だったのは、このガジェットがあなたをスパイするということだ。それにメーカーからライセンスを受けた特殊なバーコードでなければ機能しなかった。さらにはWindows限定ときた。

https://web.archive.org/web/20001017162623/http://www.businessweek.com/bwdaily/dnflash/sep2000/nf20000928_029.htm

だが、メーカーがユーザを縛ることなんてできやしなかった。ピエール・フィリップ・クーパードとマイケル・ロスウェルという2人の野心的なハードウェア・ハッカーが、Cuecatを分解し、ROMを焼き、独自ドライバを作成したのだ。その結果、本やCD、DVDのバーコードをスキャンしてメディア目録を作ったり、食料品のバーコードをスキャンして買い物リストを作れるようになった。Cuecatはあなたのものになったのだから、どんな使い方をしたっていいはずだ。

Cuecat製造元のデジタル・コンバージェンス社は、この動きをまったく快く思わなかった。彼らは法律を盾にCuecastの代替ファームウェアをホストしていた複数のリポジトリを停止させ、CuecatのソフトウェアCDに付属していたライセンス条項を変更し、リバースエンジニアリングを禁止した。

http://www.cexx.org/cuecat.htm

デジタル・コンバージェンス社の対応は、現実問題としても、法律問題としても、まったく意味をなさなかった。当時はウェブホスティング会社が非常に多く、ユーザは複数のサーバにコードをミラーリングしていた。同社がそのすべてを追跡し、コードを削除するよう威嚇し続けるには数が多すぎた。

法律にしたって、そもそも贈答品にライセンス条項を課すこと自体どうなんだ? 開封もせず、ましてやコンピュータに入れることもなく捨てられたCD-ROMのライセンス条項に誰が拘束されるというのだろう?

https://slashdot.org/story/00/09/18/1129226/digital-convergence-changes-eula-and-gets-cracked

結局、同社は倒産して、残った在庫は一掃された。2000年代初頭はテック企業にはあまり良い時代ではなかった。ましてや、数百万のユーザが不当な取引をおとなしく受け入れてくれることを前提としたビジネスモデルのテック企業ならなおさらだ。

当時のテックユーザは、テック企業の株主を喜ばせる義務感など微塵も持ち合わせてはいなかった。株主が愚かなビジネスを支持したとしても、それは彼らの問題であって、われわれの問題じゃない。ベンチャーキャピタルは資本家なのだ。もし彼らが、必要に応じて与え、能力に応じて奪うことをわれわれに望むなら、ベンチャー“共産主義者”とでも名乗ればいい。

哲学者でCentre for Technomoral Futuresディレクターのシャノン・ヴァラーが昨年8月にこんなツイートをした。「現代テクノロジーが長いことユーザの操作と監視の悪循環に陥っていることについて、私が最も悲しく思うのは、私たちが新たなテクノロジーに感じていた喜びを徐々に殺していったことだ。METAやAmazonが製品を発表するたびに、未来は暗く、灰色に見えてくる」

そして彼女は続ける。「おそらくノスタルジーだけではない。私たちが本当に必要とし、求めるものが、テクノロジー企業から約束されることはもはやないのだ。ただただ、次なる監視が、次なるナッジが、次なるデータ・時間・喜びの消耗がもたらされるだけで」

今日、ウィル・ウィートンがTumblrでこれに応えた。「もはや、『これが私の人生をどう変えてくれるのか/良くしてくれるのか』という感覚はほとんどなく、『これを使うことを強いる世界でプライバシーと正気を保ち続けようとするなら、どれほど物事が複雑になるか』という絶え間ない恐怖に追い立てられている」。

https://wilwheaton.tumblr.com/post/698603648058556416/cory-doctorow-if-you-see-this-and-have-thoughts

ウィルは最後に、「コリイ・ドクトロウ、これを読んで思うところがあれば、ぜひ聞かせてほしい」と言った。

私は考えている。これはすべて、Cuecatに帰結するのではないか。

Cuecatが世に出た当初、賛否両論あった。それはどんなテクノロジーにも、いや、どんな製品・サービスにも言える。企業がどれだけバリエーションをそろえたって、ユーザがそのテクノロジーをどう使いたいのか、どう必要としているかなんて予想しようもない。貧しい人たち、グローバル・サウスの人たち、女性、セックスワーカーなど、企業がまったく価値を置かないユーザなんてはなから無視されている。

これは「ママにも使えるくらい簡単」というフレーズが特に醜悪な理由でもある。テクノロジーデザイナーの製品企画会議で、「ママ」のプライオリティや困難さが挙がることはない。「ママ」のニーズは、テクノロジーを習得・設定・適用させれば解決できることのほうが多いはずなのに。

https://pluralistic.net/2022/05/19/the-weakest-link/#moms-are-ninjas

(「ママ」よりも適切な例として、私は「ボスにも使えるくらい簡単」を提唱している。なんせ、あんたのボスはIT部門の社員を呼び出して、「なんでもいいから、とにかく動くようにしろ!」と喚き散らしているのだろう? 創意工夫なんかなくても、権力を振りかざして問題解決しようとするのがボスなんだ)

テクノロジーをテクノロジーユーザと切り離して理解することはできない。これは2004年に出版されたドナルド・ノーマンの『エモーショナル・デザイン(Emotional Design)』の重要な洞察である。同書では、すべてのテクノロジーの基本状態は壊れていて、テクノロジーユーザのなすべきタスクは、使おうとするもののトラブルシューティングだと論じられている。

https://pluralistic.net/2020/04/29/banjo-nazis/#cuckoos-egg

トラブルシューティングはアートであり、科学である。理路整然としたアプローチと創造的な飛躍の両方を必要とする。トラブルシューティングが難しくなるのは、イライラしたり怒ったりするほど、理路整然と考えたり、創造的になることが難しくなるためである。怒りは視野を狭め、動作と思考を鈍らせる。

ノーマンは『エモーショナル・デザイン』の中で、テクノロジーは美しく魅力的であるべきだと論じる。そうであるなら、たとえ機能しなくなったテクノロジーであっても、それを好きになって、視野を広く持ち、創造的にトラブルシューティングを行えるようになる。この『エモーショナル・デザイン』は、その内容だけでなく、誰の著書かという点でも注目を集めた。

ドナルド・ノーマンは、1998年に出版され大きな反響を呼んだ『誰のためのデザイン?(The Design of Everyday Things)』の著者でもあった。この本は、エンジニアやデザイナーに、形状よりも機能を優先させること、つまり、たとえ装飾をそぎ落とし、美学を損ねたとしても、うまく機能するものをデザインするよう説いていた。

https://www.basicbooks.com/titles/don-norman/the-design-of-everyday-things/9780465050659/

『エモーショナル・デザイン』では、ノーマンは美学とは機能性だと主張した。美学は、デザイナーの見落としや思い違い、盲点を修正するきっかけをユーザに与える。つまり、有能さと謙虚さを示すマニュフェストだったのである。

だが、デジタル技術がわれわれの生活に深く浸透するにつれ、設定可能な部分が増えるどころか、ますます少なくなっている。現代の企業は、Cuecatが失敗したやり方で大成功を収めてしまった。オンライン世界の統合がもたらしたのは、1つの検索エンジンと4つのソーシャルメディアサイトからリンクを削除されれば、99%のインターネットユーザにとって存在しないに等しい状況である。

アプリの世界はさらに深刻で、たった2つのアプリストアからアプリを削除されれば、実質的にそのアプリはこの世から追放されてしまう。一方のモバイルプラットフォームは、技術的・法的な障壁によってアプリのサイドロードを事実上不可能にし、もう一方は強奪的な戦略と欺瞞的な警告を巧みに使いこなす。

要するに、現代のクーパードとロスウェルが、クソみたいなテクノロジーを正しく動かそうと決意したとしても――つまり監視や独自の制限を取り去り、歓迎される機能だけを残そうとしても――メーカーの寛容さに頼らなければ実現できなくなったのである。もしメーカーがアドオン、改造、プラグイン、オーバーレイを好まなければ、著作権侵害、不正アクセス防止法、特許権侵害、商標権侵害、サイバーセキュリティ法、契約法、その他ありとあらゆる「IP」を振りかざして脅し、問題とされたコードを簡単に削除させることができてしまう。

https://locusmag.com/2020/09/cory-doctorow-ip/

こうした法律の多くは、悲惨なまでの重罰を科す。たとえば「アクセスコントロール」を回避して、ある機器のソフトウェアを変更できるツールを配布すれば、50万ドルの罰金と5年の禁固刑(DMCA第1201条)だ。

もしCuecatのメーカーがファームウェアにDRMの薄皮をかぶせていたなら、クーパーとロスウェルに刑務所送りにしてやると脅すこともできただろう。Cuecat事件から20年以上に渡る「IP」の発展は、ジェイ・フリーマンが「ビジネスモデル侮辱罪」と呼ぶ、事実上の新たな法体系を生み出した。

自社製品の再構成を文字通り犯罪化する権限を企業に与えたことで、すべてが変わってしまった。Cuecatの時代には、ユーザの利益に反する製品を計画する企業の会議では、「ユーザの意に反する機能を削除させないためには、どういう工夫が必要か、どうやってコードを難読するか」という難問を詰めなければならなかった。

だが、ビジネスモデル侮辱罪の世界では「ユーザがわが社の製品からより多くの恩恵を得られるよう支援する人々を誰であれ文字通り刑務所送りにできるので」そのような議論は不要になった。その代わりに「我々のサービスを離脱したり、製品を乗り換えようとする不誠実なユーザにどのような罰を与えられるか」が議論されるようになった。

言い換えれば、「私たちに不満を持つユーザが私たちの製品を使い続けるように、私たちの製品のスイッチングコストを可能な限り高めるにはどうすればよいか」ということだけを追求するようになったのである。たとえば写真プロダクトを計画していたFacebookは、意図的にユーザの家族写真の唯一のリポジトリとなるよう設計した。FacebookユーザがG+に移行するのを防ぐために、その写真を人質にしようとしたのだ。

https://www.eff.org/deeplinks/2021/08/facebooks-secret-war-switching-costs

企業は、ユーザを守るためにロックイン戦略が必要なのだと主張する。「我々の囲まれた庭に移動してください。そこは要塞で、その胸壁にいる屈強な戦士たちが、荒野を徘徊する山賊からあなたを守ってくれるのです」。

https://locusmag.com/2021/01/cory-doctorow-neofeudalism-and-the-digital-manor/

だが、この「封建的セキュリティ」は、要塞の領主に恐ろしい誘惑をもたらす。一度あなたが城壁の中に入ってしまえば、要塞を刑務所に変えることも容易なのだから。城壁の中で被る代償が、離脱する際の代償よりも小さい限り、企業はあなたを容赦なくいじめぬくことができる。

企業が自社の決め事を覆すことを許さないのは“あなたのためなんだ”という話はまったく疑わしい。企業は製品がどのような形であなたの期待を裏切るかなど予測できないからだ。デザインチームは、あなたがその時々に味わっている苦労をあなたほど知らない。

企業が慈悲深い独裁者であろうと真剣に考えていたとしても、第一幕に暖炉の上に置かれた銃は第三幕までに暴発する運命にある。要塞の支配権がテクノ封建主義者の手にある限り、あなたを傷つけることで得られる利益の誘惑は、遅かれ早かれ、どんな「企業倫理」をも打ち負かしてしまう。

封建的セキュリティのもとでは、企業のリーダーシップが一歩でも間違えれば、あなたの守護者は瞬く間にあなたの拷問者へと変貌する。

12年前にAppleがiPadを発表した際、「私がiPadを購入しない理由(おそらくあなたも買うべきでない)」という論考を公表し、アプリストアがユーザに敵対するのは不可避であると予言した。

https://memex.craphound.com/2010/04/01/why-i-wont-buy-an-ipad-and-think-you-shouldnt-either/

今日、Appleは「外部サービスを使用」するアプリを「当該サービスの利用規約で明示的に許可されている」場合を除いて禁止している。言い換えれば、Appleは開発者が他社の株主を不快にするツールを提供することを、それがAppleユーザを喜ばせるかどうかにかかわりなく、明確に禁止しているのである。

https://developer.apple.com/app-store/review/guidelines/#intellectual-property

注意すべきは、Appleの開発者契約の5.2.2項には、「法的強制力のある利用規約に違反してはならない」と書かれているわけではないということだ。単に「EULA(使用許諾契約)に違反してはならない」とだけ書いているのである。EULAは不可解な法律用語のゴミ溜めのようなもので、強制力のない、非倫理的な条項がふんだんに盛り込まれている。

Appleはしばしば、あなたのためだといって他社を怒らせることがある。たとえば、iOSにワンクリックでトラッキングを防止できる設定を導入し、Facebookに数か月で100億ドルもの損害を与えた。

https://www.cnbc.com/2022/02/02/facebook-says-apple-ios-privacy-change-will-cost-10-billion-this-year.html

だがAppleは、独自の広告ネットワークを拡大して利益を得ようとするビッグプランを持ってもいる。AppleユーザがAppleの広告をブロックする広告ブロッカーを選択しようとしたら、Appleはそれを許可するのだろうか。

https://www.wired.com/story/apple-is-an-ad-company-now/

アプリストアの問題は、あなたのコンピューティング体験が「キュレーション」されていること――つまり、あなたが信頼する主体が保証するソフトウェア・コレクションを生み出せるか――ではない。問題は、あなたがほかの選択肢を選べないこと――プラットフォームからの離脱に、ハードウェアの交換、新たなメディアの購入、友人、顧客、コミュニティ、家族との別れなど、高いスイッチングコストがかかること――である。

企業があなたを守るという主張を利用して、あなた自身――あなたがとりかねない、株主の利益を損ねるような選択――から身を守れるのであれば、そうしないことを期待するのは救いがたいほどにナイーブである。

ソーシャルメディアであれ、車であれ、トラクターであれ、ゲーム機であれ、歯ブラシであれ、オーブンであれ、我々のツールはますますデジタル化している。

https://www.hln.be/economie/gentse-foodboxleverancier-mealhero-failliet-klanten-weten-van-niets~a3139f52/

そして、こうしたデジタルツールは、Cuecat的なモノではなく、アプリ化しつつあり、企業は「IP」を利用して、誰が、どのように競争できるかをコントロールできるようになった。実際、ブラウザはますますアプリ的になってきている。

2017年、W3Cはコンセンサスが得られないままにDRMスタンダードを発表するという暴挙に出た。W3Cはそのスタンダードをリバースエンジニアリングしてアクセシビリティ機能を追加したり、プライバシーの欠陥を修正する人々を保護するための提案を却下していた。

https://www.eff.org/deeplinks/2017/09/open-letter-w3c-director-ceo-team-and-membership

修理する権利や、テクノロジーユーザがベンダーの選択を覆せるようにする政策に目覚ましい進展がみられる一方で、企業にユーザをコントロールする権限を与える強力な規制の流れがある。著作権フィルターなどの議論を呼ぶ手段から、児童性的虐待資料(CSAM、いわゆる“児童ポルノ”)の遮断のように広く支持されているアイデアまで、大企業がユーザを取り締まり、悪しきものを防ぐことが期待されているのである。

ここには2つの問題がある。第一に、もし我々が企業に対して、ユーザをコントロールすべきだ(つまり、プラグインやMOD、スキン、フィルタなどの実行を遮断せよ)と言うのなら、ユーザをコントロールすべきではないとは言えないのだえる。つまり、あなたはマーク・ザッカーバーグにもっと仕事を任せたいのか、それともマーク・ザッカーバーグに仕事をさせないようにしたいのか。

https://doctorow.medium.com/unspeakable-8c7bbd4974bc

もう1つの問題、つまり暖炉の上に置かれた銃の問題もある。大企業にユーザをコントロールする力を与えれば、その力を悪用しようとする内なる圧力に直面することになる。これは仮定のリスクではない。Facebookの最高幹部は、Onlyfansから離脱したパフォーマーをテロリスト監視リストに追加し、ほかのプラットフォームを利用できないようにする見返りに、Onlyfansからわいろを受け取ったとして告発されている。

https://gizmodo.com/clegg-meta-executives-identified-in-onlyfans-bribery-su-1849649270

私はテロリスト監視リストを好ましいとは思っていない。だが、Facebookにテロリスト監視リストを管理させたことは明らかに間違いだ。だが、Facebookの「信頼できる報告者」としての地位は、Facebookのモデレーションの取り組みから直接的に育まれているのである。この教訓は、Appleと広告の問題と同じである。企業が我々の利益のために行動することがあるからといって、我々が常にその企業を信頼すべきとは限らないのだ。

話をシャノン・ヴァラーの「現代テクノロジーが長いことユーザの操作と監視の悪循環に陥っていること」の起源と、それが「私たちが新たなテクノロジーに感じていた喜びを徐々に殺していったこと」、そしてウィル・ウィートンの「『プライバシーと正気を保ち続けようとすれば、どれほど物事が複雑になってしまうか』という絶え間ない恐怖」に戻そう。

テック業界のリーダーたちは、あのスバラシイ時代からバカになったわけでも、残酷になったわけでもない。テクノロジー業界は、昔も今も、軍産複合体のために大量破壊兵器を作り出してきた人々であふれかえっている。PCを作ったIBMは、ナチの強制収容所の集計マシンを作った会社である。

https://en.wikipedia.org/wiki/IBM_and_the_Holocaust

我々は、テック業界の投資家やリーダーをもっと悪い連中に置き換えたわけではない。もともと同じ人たちなのである。我々は彼らにより多くのことをさせるようになっただけだ。競合他社をすべて買収させ、買収できなければ法律を駆使して市場から締め出すことを許した。そうしてユーザにスイッチングコストを抑制するツールを提供したり、ユーザの意に反する不当な機能を遮断したりする競合まで排除されてしまったのである。

我々は「ビジネスモデル侮辱罪」を生み出し、次世代のCuecat作成者たちに、自社本部の壁を越えて、ユーザの家庭や競合他社のオフィス、我々のオンライン言論を支配する一握りの巨大テックサイトにまで手を伸ばし、それぞれの場所で彼らの商業的欲望を邪魔する者を締め上げることを許した。

だからこそ、巨大テック企業に相互運用性を課そうというプランが刺激的なのだ。Facebookの問題は「話したい人たちが便利な場所に集まっている」ことではないし、アプリストアの問題は「企業が私が使いたいであろうアプリを適切に判断している」ことでもない。

問題は、これらの企業があなたの側に立ってくれないとき、その“壁に囲まれた庭”から出るために途方もなく高い代償を支払わなければならないことなのだ。そこで登場するのが相互運用性である。相互運用可能なFacebookがあれば、大切な人々へのアクセスを犠牲にすることなく、ザッカーバーグの支配から逃れることができる。

https://www.eff.org/interoperablefacebook

Cuecatはクールだった。だが、それを作った連中はクソだった。相互運用性があれば、あなたはクールなガジェットを手に入れつつ、(訳注:そのガジェットを作った)クソどもに失せろと言えるようになる。我々はこの数十年もの間にその能力を次第に失っていた。それゆえ、クールに見える新たなテクノロジーに興奮しなくなった。それゆえ、我々は恐怖を感じるようになったのだ。クールなテクノロジーは、要塞に見せかけた牢獄に我々を誘い込むためのエサに過ぎないと知ってしまったのだから。

(画像:Jerry Whiting, CC BY-SA 3.0, modified)

Pluralistic: 20 Oct 2022 It was all downhill after the Cuecat – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow

Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: October 20, 2022
Translation: heatwave_p2p
Material of Header image: Hasan Almasi

カテゴリー: AntitrustMonopoly