以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「Firing the refs doesn’t end the game」という記事を翻訳したものである。

私が誇り高き科学否定論者になり、それが私の命を救った話をしよう。
15年ほど前のことだ。ロンドン在住だった私の妻の仕事には、NHSではなく民間医師を利用できる健康保険の特典が付いていた。長らく慢性的な痛みに悩まされていた私は、何をしても良くならなかったので、これを機会に一流の専門医に診てもらうことにした。そうしてロンドンの高級医療街、ハーリー・ストリートの医師たちに電話をかけ始めた。
ほどなく、非常に高級な精神薬理学者のオフィスで朗報を告げられた。「オピオイドは安全です!」 これまで考えられていたよりもはるかに安全なので、今すぐ始めて一生涯毎日服用すべきだという。依存症の心配もない。問題はないんだと。彼は自分の助言を裏付ける査読論文の山を見せてくれた。
私はその科学を信じなかった。億万長者の製薬会社が自社製品の安全性と有効性について証拠を改ざんする陰謀を企てていると疑ったからだ。そして連中が金のために人を殺すのを防ぐはずの規制当局も、それに共謀しているのではないか——賄賂を受け取り、公職を離れた後の業界での高給ポストと引き換えに企業に便宜を図っているのではないかと考えた。
自分で調べてみることにした。インターネット上で私の陰謀論を裏付ける非主流の研究を引用している人々を見つけた。そして、慢性疼痛患者のオピオイドの常用の安全性と有効性を主張する、権威ある高インパクトファクターの査読付き一流学術誌よりも、これらネット上の見知らぬ人々の方が信頼できると判断した。自分の健康は自分で管理することにし、医師が処方して即座に服用するよう勧めた薬は受け取らず、その医師との関係も断った。
薬理学、依存症研究、医学のバックグラウンドがまったくないにもかかわらず、こうした判断をした。私にそうした判断をする資格があったわけではない。ただの科学否定論者だった——しかし、私は正しかった。
おそらくその判断が私の命を救ったのだろう。
それから10年後、また別の医療問題に直面した。新型コロナウイルスに効果があるとされる新種のワクチンを受けるべきかという問題だ。ワクチンを製造する企業は、オピオイドの研究を偽造したのと同じ業界に属していた。それを承認した規制当局も、オピオイドの安全性を認めたのと同じ機関だった。どちらもオピオイド危機を引き起こした失敗の責任を問われることはなかった。あの恥ずべき事件を可能にした手続きも、その手続きを歪めた構造も、まったく変わってはいない。そして今度も、これらの新薬に対する公式見解を疑う声が上がっていた。彼らは、ワクチンは人の生死など気にも留めない製薬業界の億万長者が作ったもので、完全に企業に取り込まれた規制当局に監視されているに過ぎないと主張していた。
結局私はワクチンを受け、その後も何度か追加接種を受けた。だが正直に言えば、オピオイドを疑う理由があったのと同様に、ワクチンを信頼する合理的な根拠など持ち合わせていなかった。どちらの科学的主張を評価する能力も持ち合わせておらず、そのことを十分理解していた。
これは客観的に見て恐ろしい状況だ。
我々は毎日、こうした生死に関わる技術的な問題を無数に判断している。
- このボーイング機は飛行に適しているか?
- 航空管制官は適切に訓練され、十分な人数がいて、休息も取れているか?
- アンチロックブレーキのファームウェアは高品質か?
- このレストランの衛生管理は、命に関わる病原体や汚染物質の混入を防ぐのに十分か?
- 子供の学校の教育理論は科学的根拠があるか、それとも単に標準テストの評価基準を満たすことだけを技能とする無知な人間を生み出しているだけか?
- 天井の梁の安全基準は信頼できるか、それとも今にも数トンの瓦礫の下敷きになって死ぬ間際なのか?
こうした問題は、熟練した研究者や専門家でさえ意見が分かれる。たったひとつの問題に確実に答えるには、複数の博士号に相当する知識が必要かもしれない。現実的には、こうした問題すべてに自分で信頼できる答えを出すことなど不可能だし、ひとつの問題さえ解決できない可能性が高い。
それが専門家が存在する理由だ。しかしそこで別の問題が生じる。では、どの専門家の意見を聞くべきなのか?
答え:知る方法はない。
不可能だ。誠実で、専門知識を持った専門家でさえ間違えることもある。重大な技術的問題には、資格があり誠実に見える専門家同士の間でさえ、多かれ少なかれ意見の相違がつきものだ。どの専門家を信頼すべきかを判断することは、本質的に自分で問題を解決するのと同じくらい難しい。
しかし、こうした問題があるにもかかわらず、あなたはこの文章を読みながら生きている。なぜだろうか?
それはすべて「審判」のおかげだ。公共政策の場では、公的に説明責任を負う官僚たちが、あらゆる専門家の主張を聞き、検討し、(暫定的な)公式見解を発表する役割を担っている。これらの公務員は透明性のある手続きに従い、公開の場でコメントや反論を求め、公聴会を開き、利害関係者との非公開会議の内容も公表する義務がある。すべての主張と反論を集めた後、彼らは公開の場で理由を説明し、単に結論だけでなく、なぜある専門家の意見を他の専門家より重視したのかという根拠も示す。
「規制当局」と呼ばれるこれらの公務員の透明性義務はそれだけではない。彼らは利益相反を開示し、そうした相反がある場合には自ら判断から外れることも求められる。
さらに、このプロセス全体には複数のエラー修正システムが組み込まれている。規則が正しい手続きを踏まずに設定されれば、裁判所で異議申し立てができようになっているし、規制当局を抱える専門機関は、新たな証拠が出てきた場合に調査を再開する内部手続きも整えている。
こうした仕組みの目的は、私が、そして我々が知る誰であっても、調査し、理解し、検証できるようにするためだ。私はmRNAワクチンの安全性を評価するための細胞生物学の知識はないかもしれないが、ワクチン承認のプロセスを検証して、それが堅牢だったかどうかを確認する能力はある。規制の内容自体は評価できなくても、その規制が入っていた箱が四角くしっかりした段ボールでできていたかどうかは確かに判断できる。
https://pluralistic.net/2024/03/25/black-boxes/#when-you-know-you-know(邦訳記事)
だからこそワクチンの問題は非常に難しかった。オピオイド危機によってすでに手続きに重大な欠陥があることはわかっていたし、FDAも議会もオピオイド危機以降に改革を行わなかったという事実も、その手続きが明らかに欠陥をかかえていることを示していた。737 MAXに搭乗することについても同じことが言える。問題はボーイングが間違いを犯したことではなく、ボーイングが不正をしたことが発覚した後でさえ、FAA[連邦航空局]がボーイングに自分の宿題を自己採点させていることだ:
https://pluralistic.net/2024/05/01/boeing-boeing/#mrsa
私はジェット機のドアプラグに何個のリベットが必要かを説明できる資格はないが、ボーイングもそれを知らないことは明らかで、FAAもボーイングにこの問題をきちんと解決させる気がないことは明白だと自信を持って言える。
政治の場が陰謀論に毒されているのは偶然ではない。米国の与党は、健康や公安、国際政治、経済について、明らかに虚偽の主張を信じる陰謀空想家たちによって支配されている。彼らは同様の陰謀的思考に囚われた有権者によって選ばれたのだ。
これらの信念に注目するのは自然なことだが、それでは何も解決しない。共和党支持層が何を信じているかよりも、どのようにその信念に辿り着いたかのほうがはるかに重要だ。共和党の指導層――政治家、シンクタンク研究者、評論家、ニュースキャスターたち――は何十年もかけて専門機関を中傷し、同時に腐敗させ、その機能を劣化させることで、さらに中傷しやすくしてきた。
市場原理主義は「真実」は市場にあると主張する。もし皆がラジウム坐剤を(訳注:健康に良いと思って)使っているなら、政府があなたの尻に放射性廃棄物を詰めるなと命令する権限はない、というわけだ。
https://pluralistic.net/2024/09/19/just-stop-putting-that-up-your-ass/#harm-reduction(邦訳記事)
あるいは、レストランのシェフに手洗いの頻度を指示するのではなく、市場に決めさせればいい――レストランに手洗い手順を掲示させ、食事客が自分の消化器官で「投票」すればよい。腐敗した者に戦利品を! もちろん、政府にはその掲示内容が真実かどうかを判断する権限もない――それこそが修正第1条の存在理由ではないか? だからレストランに手洗い手順の掲示を義務付けても、政府はその手順について嘘をついたレストランに「看板警察」を派遣して、摘発することもない。
専門機関の信頼性と有効性の両面に対するこの双子の攻撃は、Loper Bright判決で頂点に達した。最高裁は専門機関の規則制定能力を骨抜きにし、水から航空宇宙まであらゆる分野の詳細な安全規則を、前世紀に法律を学んだ高齢者が大半を占める議会が作れるという期待を示した。
https://pluralistic.net/2024/11/21/policy-based-evidence/#decisions-decisions
陰謀論は次のような世界の必然的な産物だ:
a) 複雑で生死に関わる技術的問題を解決しなければならないのに;
b) 自分ではその問題に答える資格がなく;
c) 本来ならそうした問題を代わりに判断するはずの審判を信頼できない。
陰謀論は二次的に何を信じるかという問題だ。本質的には、どのようにその信念に至ったかという問題である。陰謀論は事実の誤りではなく、認識論の誤りなのだ。
我々は真の認識論的空虚の中に生きている。そこでは真実がますます売りに出されている。
こうした背景の中で、Doge[政府効率化省]はダーティビジネスを続けている。Dogeの専門機関への攻撃は残念なことに強い支持を得ているが、それも無理はない。多くの専門機関が何の責任も問われることなく不適格さを公然と示してきたのだから。これらの審判がみな買収されているという物語を売り込むなど朝飯前だ。
もちろん、事実はそうではない。ほとんどの規制当局者――キャリア公務員――は本当に仕事に誇りを持っている。彼らはあなたが食料品店でリステリアやジアルジアで腸をやられることなく買い物できるように、あるいは飛行機が軍用ヘリと衝突しないように、子どもたちが標準テストに合格する方法だけでなく本当の知識を身につけて卒業できるように願っている。悲劇なのは、これら誠実で熟練した規制当局者の善意だけでは、実際にあなたの幸福を守る政策を生み出すには不十分だということだ。
マスクは米国行政機関の切実な問題を解決しようとしているのではない——彼はそれを破壊したい。審判を解雇したい。なぜなら審判がいなくなれば、ルールなしでゲームを続けられるからだ。それこそが権威主義的プロジェクトへの支持を得る絶好のやり方だ。「国家はもうあなたを守らない(そもそも守ったことがあったかも疑わしいが)。でも私なら守ってあげる」と。
彼らは審判を解雇し、「明日まで生き延びる」というゲームをカルビンボールに変えようとしている。ルールが誰かの言い分次第で変わる「ノミック」というゲームに。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nomic
マスクとトランプは驚くことになるだろう。彼らはルールが億万長者の仲間たちと彼らに富をもたらす企業だけを縛っているという歪んだ認識を持っている。しかしこれらのルールの最も重要な効果の一つは、労働運動を制限することだった。全国労働関係法は労働組合の組織化と闘争性に非常に厳しい制限を課していた。トランプが事実上全国労働関係委員会を機能停止させた今(民主党委員を違法に解雇し、定足数を失わせた)、すべては振り出しに戻った。
https://pluralistic.net/2025/01/29/which-side-are-you-on-2/#strike-three-yer-out(邦訳記事)
トランプは米国の機関が部分的に目的に適っていないと主張することで公職を得た。それについては(珍しく)嘘をついていなかった。嘘だったのは、それを修正したいという意思だ。トランプは公正な審判を望んでなどいない。審判のいない世界を望んでいる。トランプ主義に打ち勝つためには、我々の機関は完璧だったという見て見ぬふりをやめなければならない。「米国はすでに偉大だった」などと主張するのではなく、その欠点に正面から向き合い、それを修正する計画を明確に示す必要がある。
https://pluralistic.net/2023/06/16/that-boy-aint-right/#dinos-rinos-and-dunnos
Pluralistic: Firing the refs doesn’t end the game (12 Mar 2025) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: March 12, 2025
Translation: heatwave_p2p