以下の文章は、電子フロンティア財団の「Sen. Hawley’s “Bias” Bill Would Let the Government Decide Who Speaks」という記事を翻訳したものである。

Electronic Frontier Foundation

ジョシュ・ホーリー上院議員の「インターネット検閲への支援終了法案(Ending Support for Internet Censorship Act)」は、その名に反してインターネットの言論の自由を危機に晒そうとするものだ。この法案は、ユーザの発言を残すか削除するかというプラットフォームの決定を、連邦政府が政治的に偏向しているとみなした場合、政府機関がプラットフォームに対する法的保護を取り除くことを認めるという、米国憲法修正第1条に反した内容となっている。確かに主要プラットフォームはモデレーションポリシーとその実施に重大な欠陥を抱えているが、偏向を取り締まる政府機関を置くことは事態を悪化させるだけだ。

同法案の狙いは、第三者の表現・言論に対する責任からオンラインプラットフォーム、サービス、ユーザを守る通信品位法230条の保護を狭めることにある。230条は、仲介者が第三者の言論に対する編集、キュレーション、モデレーションを行っていようといまいと、その責任を免除している。230条がなければ、ソーシャルメディアは今日のかたちでは存在しえなかっただろう。ソーシャルメディアを通じて公表されるユーザの言論の量を考えれば、責任のリスクはあまりに大きすぎるのだ。同様に、大量のユーザの言論とメディアをホストするウェブサイトやアプリも存在し得なかった。

法案では、230条の免責を失うことになるのは、一定規模(米国内に300万人、全世界に3億人)以上のプラットフォームだとしている。対象となる企業がこの免責を取り戻すためには、連邦取引委員会(FTC)の監査を受け、ユーザの投稿を「政党、立候補者、または政治的見解に対してバイアスがかかった方法で」検閲していないことを「明確かつ説得力のある証拠によって」証明しなくてはならない。

プラットフォームの「偏向」を誰でも客観的に判断できると考えるのは愚かだ。とりわけ、政府機関にその判断を委ねるのは危険ですらある。

同法案の適用範囲が大規模プラットフォームに限定されていることから、その危険性が過小評価されている向きもある。しかし、それこそがこの法案の狡猾さでもある。230条なくして、Google、Facebook、Twitterは現在の支配的地位に上り詰めることはなかった。したがって(訳註:230条の保護を狭める)この法案は、将来的にこれら支配的プラットフォームの競合になりうる企業の成功を阻むことになるだろう。つまり政治家たちは、ソーシャルメディアプラットフォームを罰するために、ソーシャルメディア企業の支配を強化する法律を導入しようとしているのだ。議会が以前に230条を損ねようとしたとき、大手テクノロジー企業がこぞって支持したことを忘れてはならない。

政治に偏向の判断を委ねてはならない

ホーリー上院議員の法案が違憲であることは明白である。政府機関は、政治的見解を理由に、あるいは特定の政治的言論を好むという理由で、個人や企業を罰してはならないのである。どのような発言を許容し削除するかという判断は、本質的に政治的なのである。

では、「政党、立候補者、政治的見解に対して偏見のある方法で」とは具体的に何を意味しているのだろうか? プラットフォームはヘイトグループのプロパガンダを受け入れねばならず、政治的見解を表明するKKKの投稿を他のユーザに見せないようにすれば罰せられるということなのだろうか? 特定の宗教的信念を受け入れるサイトは、対立する信念を受け入れざるを得ないということなのだろうか?

ユーザが自らの意思で党派的モデレーション判断を受け入れている大規模プラットフォームはどうだろうか? たとえば、Facebookは情報共有・組織化のため左派活動家のプライベートグループを排除しなくてはならないのか? あるいは、そのグループの管理者に右派活動家も参加させるよう指示しなければならないのか? だとすれば、Redditは現大統領のファンのみを対象とする人気フォーラム「r/The Donald」を削除しなくてはならないのだろうか?

いずれの疑問にも、同法案は指針を示してはいない。にもかかわらず、FTC)にはプラットフォームの偏向的モデレーションを判断する強力な権限が与えられることになる。委員らの判断が、彼らを推薦した政党の意向を反映することは疑いようもない。同法案では、プラットフォームへの免責の付与に委員の過半数の同意を必要としているため、5人のFTC委員のうち3人の判断により、プラットフォームから免責を剥ぎ取れることになる。

この法案は、誰の言論をオンラインに残してよいかという決定を政府が下せるようするというものである。問題は、これが米国憲法において政府には許されていないということだ。トランプ大統領がソーシャルメディアの反保守的偏向を執拗に主張していることを考えれば、政府がいかにしてFTCに特定の偏向や検閲だけを取り上げるよう仕向けるかは理解できるはずだ。議会保守派はこの法案を支持する前に、これが未来の政権にどのように利用されうるかをよくよく考えなくてはならない。

問題は偏向ではなく、検閲である

ホーリー上院議員の法案は、ソーシャルメディアが反保守的に偏向しているという長年はびこっているミームに根ざしたものだ。ホワイトハウスは先日、ソーシャルメディアプラットフォームの偏向に関する調査を実施したが、その目的はインターネット大手が保守派を不当に扱っているというトランプ大統領の主張を補強することにある。米国議会は昨年、プラットフォームのモデレーションのあり方を議論する公聴会を開いたが、その大部分はダイアモンド&シル (Facebookから検閲されたと主張する保守コメンテーター)の議論に費やされた。

実際のところ、ソーシャルメディアが組織的に保守派を不当に扱っているという証拠はほとんど示されていない。オンライン検閲の最も悪質な事例を引き起こしているのは、政治的偏向ではなく、プラットフォームの安易なモデレーションポリシーである――たとえば、過激主義を抑止する規則に基づいて、シリアの活動家が収集していた人権侵害の記録を削除したYouTube、政府関係者に通報メカニズムを悪用され、反体制派の投稿を削除したFacebook 、ヌードフィルターにより無辜のイラストを検閲するTumblrのように。米国内のソーシャルメディア偏向議論では、こうした問題はほぼ無視されている。ホーリー上院議員の法案が成立したところで、FTCがこうした問題に積極的に対処するようになるとは思い難い。

ソーシャルメディアプラットフォームは、その意図の有無にかかわらず、モデレーションポリシーによって罪のない人々を黙らせないようにしなくてはならない。そのために必要とされているのは、政府機関がプラットフォームの偏向を評価するという高度に政治化されたシステムではなく、明確で透明性のあるルール、不適切なモデレーション判断への異議申し立て手続きのような良識的な取り組みである。

我々がこれまで複数の法廷助言書で論じてきたように、インターネットユーザにとっては、モデレートされたプラットフォームとモデレートされていないプラットフォームの双方が存在することが最も望ましい。いずれも、あらゆる言論のオープンなフォーラムともなりうるし、特定の関心、オーディエンス、ユーザの感性に合わせて調整されたプラットフォームともなりうる。この法案は、後者の存在を脅かすことになる。

230条はプラットフォームのモデレーションを妨げてはならない

ホーリー上院議員の法案は、230条の役割に関する誤情報キャンペーンに後押しされたものだ。ホーリー議員をはじめとする複数の政治家は、現行法の下では、プラットフォームは合衆国憲法修正第1条に基づく表現の自由を制限する権利か、彼らを保護する230条の免責のいずれかを選択しなければならないと繰り返し主張してきた。しかし実際には、いずれかを選択しなくてはならないわけではない。プラットフォームは、第1条に基づいて自らの判断によってオンラインプラットフォームをモデレートする権利を持つと同時に、230条によってユーザの活動に対する大半の責任から保護されているのである。いずれかではない。両方である

実際、議会が230条を立法したのは、プラットフォームによる特定表現(当時、議会が焦点を当てていたのは性的なコンテンツ)のフィルタリングを妨げる法律上の障害を取り除くためでもあった。インターネット黎明期のネット言論に関する2つの重要な訴訟で、裁判所は(註:ネット掲示板を運営する)Prodigy社に対する名誉毀損の訴えを認める一方、Compuserve社に対しては認めなかった(訳註:判決の日本語訳)。裁判所は、 Prodigyが「攻撃的な」メッセージや「悪趣味な」メッセージを削除していたこと(訳註:つまりモデレーションを実施していたこと)を理由に、たとえコンテンツに関する知識を有していなかったとしてもユーザの投稿に責任を負う、と判断した。

そのため、この判決が業界のオンライン・モデレーションを阻害しうることに気づいたクリス・コックス、ロン・ワイデン両下院議員が1995年に、現在230条として知られる「インターネットの自由と家族の擁護法案(Internet Freedom and Family Empowerment Act)」を提出したのである。

ホーリー議員の法案は、インターネットを230条以前の状態に引き戻そうというものであり、ハラスメントや虐待の抑止に向けてユーザ保護の取り組みを進めるオンラインプラットフォームを罰するものである。確かに、プラットフォームはこうした取り組みを進めるなかで失敗を犯し、しばしば無辜の人々を黙らせている。だが、その取り組みを阻止する裁量を政府に与えたとしても、問題が解決することはない。

230条は、オンラインの言論の自由と結社の自由を保護する上で、歴史的に重要な役割を果たしてきた。そのなかには、特定の政治的見解に基づいて組織されたオンラインコミュニティに参加する権利も含まれる。ソーシャルメディアに「中立」という客観的基準を強制することは不可能であり、それを口実に政府に権限を与えてしまえば、オンラインの言論にとてつもない脅威がもたらされることになるだろう。

Sen. Hawley’s “Bias” Bill Would Let the Government Decide Who Speaks | Electronic Frontier Foundation

Author: Elliot Harmon (EFF) / CC BY 3.0 US
Publication Date: June 20, 2019
Translation: heatwave_p2p
Material of Header Image: Ricardo Gomez Angel