以下の文章は、コリイ・ドクトロウの「What the fediverse (does/n’t) solve」という記事を翻訳したものである。
独裁者はどれほど慈悲深くとも独裁者に変わりはなく、その気まぐれに右往左往させられることにも変わりはない。我々は、テック・プラットフォームのオーナーやリーダーに公正さや善良さを求める。だが、彼らがそうでないこと、時として破滅的な失敗を犯すことも覚悟しなければならない。
つまり、ティム・クックを信頼してインストールできるアプリとできないアプリの判断を(Apple自身による非同意的かつ継続的な監視をブロックするアプリをインストールできるかどうかも含めて)完全に委任したとしても、ある日クックがバスに轢かれて、後任にクソみたいなオルタナ右翼が就任するかもしれないことを覚悟しなければならない。
続いて降り掛かってくるのは、テクノロジーと法律の問題だ。もはや慈悲を期待できない独裁体制から逃れるためには、メディアやアプリ、データを手放さなければならないのか、という問題である。テクノロジーはそれらを移行できるように設計されているのか、法律はテック企業からあなたを守ってくれるのか、それとも脱獄・リバースエンジニアリング・スクレイピングなどを犯罪化してあなたからテック企業を守っているのか――その答え次第である。
我々はすでに茨の道を歩かされている。だが、ソーシャルメディアの場合、それがソーシャルであるがゆえに余計に難しい状況に置かれることになる。社会性は我々に新しく、悪辣なスイッチングコストをもたらした。別のソーシャルメディアに移行すべきか、移行するとしてもいつ、どこに移行すべきかといった合意形成はとんでもなく厄介で、そのことが人質に取られている。コミュニティ運営が失敗したからといって、コミュニティからは簡単には抜けられない。抜け出すことはすなわち、そこにいる大切な人たちとの別れを意味することになるのだから。
多かれ少なかれ、誰もがそのような経験をしてきた。参加者の1人が嫌なやつだからって、作家サークルを辞められるか? コミコンが捕食者(predator)に寛容だからって、コミコンに行くのを止めるか? Facebookに人種差別おじさんがウヨウヨしているからって、家族との繋がりを捨てられるか? レストランのオーナーがあなたを国外追放しようとする政治家の大口献金者だったからって、友人との夕食の予定をキャンセルするか?
長い人生、どこかでこうした集団行動の問題に煩わされる。極端な話、政府が恐怖政治を敷いていて、投獄や死の危険が迫っていることを知りながらも、そこにとどまり続ける人たちだっている。
https://www.theatlantic.com/books/archive/2022/12/the-oppermanns-book-holocaust-nazi-fascism/672505/
法人というのは利己的なナルシストで、ペーパークリップ・マキシマイザーの人工生命体がごとく、常に自己利益を追求する。それはもう虐待的なほどに。虐待者というものは被害者を操るために利用できるありとあらゆる社会力学に目ざとく、それゆえ、この不死身のコロニー生命体はソーシャルメディアをたいそう重用する。
ソーシャルネットワークに参加するユーザは対人関係によって接着され、どれほど虐げられてもなかなか離脱できない。虐待者はそれをいいことに、家族を人質にとる誘拐犯のように、相互の愛情を武器に変え、自分の利益に反することをさせるために利用するのだ。キャット・ヴァレンテの『おしゃべりをやめてモノを買おう:ソーシャルメディア砂漠を生き抜いた30年のサバイバル(Stop Talking to Each Other and Start Buying Things: Three Decades of Survival in the Desert of Social Media)』は、このテーマについて非常に示唆に富んでいる。今月読める最高のエッセイの1つだ。
https://catvalente.substack.com/p/stop-talking-to-each-other-and-start
ヴァレンテは、生まれながらのデジタル世代クリエイターのトップランナーである。彼女の社会生活はずっとオンラインで、執筆活動もそこから始まった。2009年にデビュー作『宝石の筏で妖精国を旅した少女』をウェブ上に無料公開し、2年後には多数の賞を受賞、マクミランからハードカバーが出版されることにもなった。
『おしゃべりをやめて』は、我々を互いに人質に変え、相互の愛情や小さな喜びをムチに作り変えたすべての強盗男爵への、辛辣で、断固たる批判にあふれた回想録である。
この物語は、1990年代初頭のヴァレンテの少女時代から始まる。孤独な彼女の命をつなぎとめていたのは(訳注:パソコン通信サービスの)Prodigyだった。早熟な作家であったヴァレンテは、他のProdigyユーザとペンフレンドになった。なかには年配の大人もいたが、せいぜいヤングアダルトと会話していると思っていたらしい。こうした人間関係が彼女の世界を広げ、高揚感を与え、豊かにしていった。
彼女はある日、父親が読んでいた新聞にProdigyの記事が掲載されているのを目にする。「PRODIGY曰く:おしゃべりをやめてモノを買おう」という見出しだった。彼女は仰天した。1991年当時、Prodigyで売られていたイカれた福袋を買いたくても、12歳の彼女にはインターネットマネーを送金する術はなかった。それに、そもそもお金もなかった。
「スクリーンからモノを買う手段を見つけなければ」、Prodigyのオーナーが「大切な唯一無二の居場所」を奪い去ってしまうという事実は、彼女には衝撃的で、とてつもなく恐ろしいものに思えた。そして、それは事実でもあった。Prodigyは消え失せ、若き日のキット・ヴァレンテは大切な人たちとのつながりを全て失った。
その後、このパターンはあらゆるオンラインコミュニティで繰り返された。「話すのをやめて、モノを買おう。タダでコンテンツを提供するのをやめて、特権に金を払おう。恐怖の正体を暴くのをやめて、その恐怖をもっと煽ろう。コミュニティづくりをやめて、儲けるために誤情報をばらまこう」。
もっとはっきり言えばこうなる。「インターネットを楽しむのをやめろ。ネットはお前を楽しませるものではなく、お前から金を搾取するためのものだ。世界に美しさやつながりを見出すのをやめろ。孤独こそが利益を生み、支配を容易にするのだ。人間であることをやめろ。私たちに本当に必要なのは、定期的に買い物をしてくれる心を持たないボットだけだ」。
ヴァレンテはこの病理をオンラインコミュティの何世代にも渡ってたどり、そうしてLivejournal(LJ)に行き着いた。ロシア反体制派の大規模コミュニティだったLJは、ロシアの政府系投資家に食い込まれたことで、コミュニティが掌握され、締め付けが強まっていった。反体制派は互いに人質に取られ、相互監視・支配システムが形成されていった。
ヴァレンテと友人たちは、LJの人質化の巻き添えを食らうことになった。もちろん、ロシアの反体制派のほうがひどい目にあったのだろうが、それでも辛い経験だった。LJは「信頼できる人脈やメタなつながりを通じてオーディエンスを増やしていく」無数のクリエイターのホームだったのだ。
重要なポイントは、LJの毒殺(poisoning)が「マイナーではあるが文化的に影響力のあるコミュニティの解体を、より効率的に、より迅速に、より目立たないように再現するためのテクニック」のテンプレートを作り上げたことにある。
このテンプレートは、オルタナ右翼、サッド・パピーズ、ゲーマーゲーター、そしてその後継運動によって完成されていくことになる。
https://camestrosfelapton.wordpress.com/debarkle/
こうしたトロールたちは、企業・法人のような利益追求型の社会病理に動機づけられているわけではないが、企業とは共生関係にある。
ヴァレンテは企業コミュニティのライフサイクルを次のように整理している。
Ⅰ. インターネットに興奮し、ウェブサイトを作る。
Ⅱ. ユーザが自社ストアに興味がないことに気づき、ソーシャル機能を追加する。
Ⅲ. チャット、ブログ、メッセージなど、「ユーザがサイトを使う理由を自ら作り出せるような」客寄せパンダ機能を追加し、「モンスターではない人間が安心して自分を表現でき、サイトを素敵だと感じられる」ようにモデレーションを行う。
Ⅳ. サイトが機能し、ユーザは「無料のツールで互いに繋がり、学び、孤独を感じず、時には名を上げられる」ようになる。
Ⅴ. サイトのオーナーはユーザに「おしゃべりをやめて、モノを買う」よう要求する。
Ⅵ. ユーザたちが作り上げたコミュニティから余剰価値を全て引き出すための収入源として「ソーシャル」が利用されるようになり、ユーザはサイトに幻滅していく。
Ⅶ. 怒れるオーナーはユーザを侮辱し、サイトを広告で埋め尽くし、モデレーターを解雇し、論争を煽って広告を売るための「エンゲージメント」を生み出そうとする。そしてユーザデータを販売する。広告主が嫌がる周縁化されたコミュニティを粛清する。資本を集め、コミュニティ機能を有料化し、搾取に勤しむがあまり来たるべきトレンドを見逃す。
Ⅷ. 「誰もが怒っている」状態になる。
Ⅸ. 「そこに集う人々を、大企業や愚鈍な億万長者、専制的な政府機関――つまり、サイトのコミュニティがそのつながりを通じて革命を起こすことを恐れている連中――に売り渡す」
Ⅹ. 「時間、心、労力、愛情、事業、人間関係を投資した」人々が風とともに去っていく。企業の株主は気にも留めない。
Ⅺ. 数年後、商業的圧力によりサイトが崩壊したという真実の物語が明らかになる。誰も気にも留めない。
Ⅻ. コミュニティを破壊して大儲けした人々は裕福になり、その富を「イカれたクソ右翼」に投じる。「クソ右翼は税金なんていらないと言ってくれるし、あぶく銭は税金が大嫌いだから」。
このパターンは、無数のプラットフォームで繰り返されてきた。ヴァレンテはその例として、「Prodigy、Geocities、collegeclub.com、MySpace、Friendster、Livejournal、Tumblr」、そしてもちろん「Twitter」を挙げる。
ただ、Twitterは他とは異なる。第一に、Twitterはメタクソ化(enshittify)したプラットフォームとしては、最大かつ最重要なものだった。第二に、Twitterはそれ以前の小規模なプラットフォームに比べて、そのメタクソ化はあまりに急激だった。
だが第三に、そして最も重要な点は、Twitterのメタクソ化が利益のみを目的としてないことだ。一般に、プラットフォームが衰退していく過程では、企業の搾取とトロールの残虐さが共生するのに対し、Twitterのメタクソ化はそのオーナー――企業搾取マシンの反社会的操舵手で、有害・悪質なナルシスト――によって推し進められているのである。
ヴァレンテはマスクの非商業的な欲求をこう表現する。「支配し、傷つけたいという強く、飽くなき欲求。与えることによってではなく、奪うことで力を誇示する… (彼の)ヴァイラルな独我論は、自分自身の未分化な自己以外のものの存在に耐えられず、説得や誘惑、議論によってではなく、他の選択肢を根絶することで伝播していく」。
とはいえ、すべてのプラットフォームがこのように劣化していくわけではない。たとえば、ヴァレンテはDiarylandを挙げる。オーナーのアンドリューは、彼が「ちょっとしたものを作るのが好き」だったカナダの子どもだった1999年にDiarylandを立ち上げて以来、そこに集まった数百万人のコミュニティを売り渡したことは一度もない。アンドリューはその明かりを絶やさぬよう月に2ドルをユーザに請求している。
ヴァレンテがDiarylandとアンドリューを称賛するのはもっともだ。実際、彼女のエッセイはすべて正しい。いや、「ほぼすべて」と言うべきか。彼女はこうも言っている。「ジャッカルが辿りついた瞬間、それはまさに次のオアシスに最初の新しい椅子を置くべき瞬間なのだ」。
私は間違っていると思う。少なくとも不完全だ。ウェブ初期の多様性と、ユーザとそのコミュニティにフォーカスした物語は、コミュニティが不可欠な存在となり、崩壊まで苦しめられ、パーツとして売り払われるという自然のサイクルだけの物語ではない。
ウェブ初期の強さは、その相互運用性にあった。初期のウェブは、ProdigyやAOLなどの箱庭(walled garden)だけが成功を収めていたのではなく、本質的な変革の場でもあった。初期のウェブは無数の小さな企業や趣味の人たち、ユーザグループから構成され、それぞれが同じ標準プロトコルを使って、インターネットに居場所を作っていた。半透膜を通してそれぞれのコミュニティが、そしてあらゆるものが繋がっていた。すべてにおいてそうではなかったとしても。
離脱の権利とリーチの自由(誰もが対話したい相手と対話できるという原則)は、いずれも技術的自己決定に重要である。いずれも不完全で不十分だが、その両方があればこそ、貪欲あるいは貪欲な捕食に対して強力な歯止めとなる。
https://pluralistic.net/2022/12/19/better-failure/#let-my-tweeters-go(邦訳)
インターネットは当初から、コモンズを築こうとする人々と、それを囲い込もうとする人々との戦いの場だった。覚えているだろうか。ウェブがFlashというリンクのできないプロプライエタリな塊に引きずり込まれ、広告のブロックもミュートも(許可がなければ)一時停止すらできないことに、我々が怒り狂っていたことを。
あるいはBlackbirdを覚えているだろうか。Microsoftが最初はダイヤルアップサービスとして、後にWindowsベースのFlash的なものを使って、何度も何度もインターネットを囲い込もうとしていたことを。
https://en.wikipedia.org/wiki/Blackbird_(online_platform)
だが、標準プロトコルは、企業に強力なネットワーク効果をもたらす。誰もが標準に準拠し、あらゆるものがほかのものとコミュニケーションできるようになれば、ユーザを箱庭に誘い込むことは難しくなる。Microsoftは大企業のバイヤーと交渉して、自社製品を全社員に使わせ、さらにはライバル製品との互換性を破壊して、他ベンダーの製品を使うことを困難にした。そうしてユーザを強制的に箱庭に押し込めたのだ。個人の端末で会社の電子メールにアクセスできなかったり、会社の文書を編集できなくなれば、会社で使っているのと同じ製品を使う強力なインセンティブが働くことになる。
一方、Appleもユーザを箱庭に誘い込み、その中であれば何だって安全でうまくいくと約束した。ドングルや部品、修理やアプリから利益をせしめるため、ユーザへの権力を存分に利用した。
両社はほかの企業と同じように、獰猛なレントシーカーである。だが最終的にはインターネットに屈服した。TCP、そしてブラウザをOSにバンドルするようになった。それでも、独自のブラウザ拡張と汚い手口(Microsoft)、モバイルロックインと汚い手口(Apple)を駆使して、両社ともウェブを囲い込もうとすることをやめようとはしなかった。とはいえ、長年にわたりウェブは真にオープンなプラットフォームだったのである。
オンラインコミュニティの囲い込みは、もっと幅広いテクノロジーの囲い込みにつながった政策を理解しなくては、なかなかに理解しがたい。反トラスト法の執行を停止する決定(とりわけ、Microsoftの反トラスト法違反事件で控訴しなかったGWBの決定)は、プラットフォームを無制限の成長を許した。そうして、強力なライバル企業を買収したり、赤字を他部門に補填させての不当廉売で、競合を潰していったのである。
Googleは自ら成功する製品を作り出すことはできないが、他社の成功事例を買収し、モバイル、ビデオ、サーチバー管理、広告技術など、ウェブの支配を確固たるものとしていった。
これら企業は、コミュニティの虐待者たちに、適法にリバースエンジニアリングできないアプリ、オペレーティングシステム、ブラウザの「標準」という基板を与え、そして「ビジネスモデル侮辱罪」政策を強化・拡大するロビー活動を促した。
https://www.eff.org/deeplinks/2017/09/open-letter-w3c-director-ceo-team-and-membership
こうした法律や技術がなければ、企業は離脱の権利やリーチの自由を阻むことはできなかっただろう。だが、こうした法律や技術によって、ユーザたちが築き上げたコミュニティを自分たちでコントロールするツールを与えようとする人たちを排除するよう、企業は政府に要請できるようになった。
これらの法律や技術は、ネットワーク効果を開放のためのツールから束縛のためのツールに変えてしまった。以前は、どれほど大きく、どれほど悪質な企業であろうと、標準を無視することはできず、それに合わせなければならなかった。だが現在、ネットワーク効果は我々全員を箱庭に押し込めるためのものなのである。
このデジタル封建主義は、心配と安全という言葉で取り繕われている。箱庭の領主は、外部の脅威から我々を守る要塞を気づいた慈悲深き君主なのだとうそぶく。だがいずれ、我々をそこから逃すまいと牢獄を築いた蛮族に過ぎないことを我々は思い知ることになる。
https://doctorow.medium.com/how-to-leave-dying-social-media-platforms-9fc550fe5abf
ここでフェディバースの話をしよう。フェディバースの基板はActivityPubという標準で、ほぼすべてのアプリケーションをサポートできるオープンで相互運用可能な基板を作ろうとした変人たちがデザインしたものだ。大企業はそのようなものに見向きもせず、傲慢にも夢物語だと切って捨てた。つまり、ActivityPubは設計者が意図したとおりに、狡猾な独占企業が仕掛けたブービートラップから解放されたものなのである。
フェディバースで最も有名なMastodonは、マスクの傲慢さと搾取から逃れるためにTwitterとそこでつながっていた大切な人たちから離れる決断をした人々の受け皿として爆発的な成長を遂げた。マスクは元Twitterユーザが他のサービスで落ち合うことができないようすることで、決して簡単ではない決断をさらに難しいものにしようとした。彼はTwitterを離脱する経験を、「屋根の上のバイオリン弾き」ラストシーンのアナテフカの村人たちの永遠の別れのようなものにしたかったのだろう。
https://doctorow.medium.com/how-to-leave-dying-social-media-platforms-9fc550fe5abf
Mastodonへの注目が高まるにつれて、新たな精査の目が向けられ、分散型、連合型のシステムの利点や欠点についてさまざまな議論が行われている。たとえば引用ツイートの役割。Mastodonのコアな開発者たちは(訳注:引用ツイートが)反社会的な攻撃を助長するとして消極的な姿勢を示す一方で、Black Twitterからは健全な言説に不可欠だとの声も上がっている。
https://www.tbray.org/ongoing/When/202x/2022/12/21/Mastodon-Ethics
とはいえ、引用ツイートはもともとTwitterの機能ではなかった。当初ユーザたちは、他人のツイートやテキスト、URLを貼り付けて引用ツイートを実現していた。やがてTwitter社が引用ツイートの有用性を見出し、採用したことで公式の機能となったのだ。
これと同じように、Mastodonのコア開発者がMastodonのコアコードベースに引用ツイートを追加するかもしれない。たとえそうならなかったとしても、話はそれで終わらない。Mastodonは自由ソフトウェアであり、オープンスタンダードで構築されているため、誰でも自分のMastodonインスタンスにこの機能を追加できる。もちろん自分でやってもいいし、誰かにお願いしてやってもらってもいい。
誰もがお金やコーディングのスキルをもっているわけではない。巨大な営利企業に自分のニーズに合わせてサービスの再構築をさせられるほどの社会的影響力を持ち合わせているわけでもない。「コーディングできる人」と「コーダーにお金を支払える人」と「テック企業が耳を傾けてくれる人」は重複するところもあるが、同一の集団でもない。
つまり、Twitterは同社が必要と判断すれば引用ツイートを導入してもらえる場であり、Mastodonはコア開発者が必要と判断すれば、あるいは自分で追加できるスキルやリソースがあれば、引用リツイートを導入できる場ということになる。
さらに、Mastodonのコア開発者があなたの好きな機能を除去する決定をしても、あなたや友人たちは、その機能を維持した独自のMastodonサーバを立ち上げることができる。誰かのサーバを使うよりは難易度が高いが、以前の状態に戻すようにTwitterを説得するよりはずっと簡単だ。
Mastodonサーバを自前で運用することのリスクについても熱い議論が交わされている。批判者の言い分を聞いてみると、公開サーバの運営者は背中に大きなターゲットマークを背負うことになり、早晩民事訴訟やFBIとの対応に追われることになるという。
まったくもってそうではない。米国には仲介者責任(つまり、ユーザの行為に対してあなたが負うべき責任)を制限する法律がある。「ビッグテックへの贈り物」とさかんに言われているCDA230を耳にしたことがあるかもしれない。確かに、インターネットがビッグテック企業だけで構成されているのであれば、そうなのだろう。だが、もしあなたが自分と自分のコミュニティのために月5ドルでMastodonインスタンスをホスティングしているのであれば、その法律はあなたも守ってくれる。
実際、公開サーバの運営は多少のリスクを伴うものの、そのリスクは比較的小さく、比較的簡単なコンプライアンスの実践によって軽減ができる。EFFのコリーヌ・マクシェリーの記事で非常にわかりやすく解説されている。
https://www.eff.org/deeplinks/2022/12/user-generated-content-and-fediverse-legal-primer
最後に、MastodonがTwitterの代わりになるのか(あるいは、そうなるべきなのか)についても議論が続いている。今週、ジェシー・ブラウンはCanadaland Short Cutsポッドキャストで、Mastodonを使うのも、GabやParlerやPostを使うのも大差はないという間違ったアイデアを丁寧にまとめ(つつ、残念なことにそのアイデアを支持し)ていた。
https://www.canadaland.com/podcast/843-god-save-the-tweets/
これは何もかも間違っている。たとえGabやParlerやPostの運営者をどれほど信頼していたとしても、TwitterやFacebookとまったく同じリスクに晒されていることに変わりはない。リーダーが変わったり、心変わりしてしまえば、コミュニティがメタクソ化されてしまうことにもなりかねない。そうなれば、ヴァレンテが述べたように、コミュニティは風と共に霧散し、別の場所で再構築しなければならなくなるだろう。
だが、フェディバースはそうではない。Mastodonではたった2回のクリックで、自分のフォロワーとフォローする人たちをすべてエクスポートできる。別のサーバでアカウントを作れば、2回のクリックだけで、そのフォローやフォロワーをインポートできる。コミュニティを売り払う決断をしたサーバ管理者に支配されることなく、コミュニティをそのままバックアップし、復元できるのだ(なお、投稿もエクスポートできる)。
https://codingitwrong.com/2022/10/10/migrating-a-mastodon-account.html
とはいえ、執拗なMastodonサーバのオーナーが、データのエクスポートをさせず、ユーザを即座に追い出してしまう可能性があることも事実である。とはいえ、そのような行為はGDPRやCCPAなどの州法に抵触することは間違いない。
プライバシー法の強化は、ユーザの権利向上にもつながる。一方で、CDA230条を廃止してしまえば、大手サービスの企業オーナーたちは、周縁化された人々のコンテンツの検閲にトリガーハッピーになるだろうし、そのような事態に陥っても、そうした集団が自分たちでサーバを安全に運営することはほぼ不可能になる。
人々が互いに責任を負いながら自らのコミュニティを構築することは、ヴァレンテの絶望を癒やすものだ。企業の捕食とメタクソ化のサイクルに際限はなく、コミュニティを大切にする人たちは何度も何度も追放される運命にある。
そして、コミュニティの連合(federation)――つまりコミュニティの間に半透膜を作り、コミュニティを破壊しようとする人々のサーバのブロックし、志を同じくする人々のメッセージを歓迎し、不安がるアライのために媒介的な役割を担うこと――は、Twitterが我々の「一つの大きな会話(one big conversation)」の唯一の方法であるというブラウンの懸念に応えるものである。
この「一つの会話」という点で、ブラウンはカテゴライズを誤っている。連合メディアをスタンドアロン・メディア(たとえばTwitterの代替としてのPostなど)と混同しているのだ。連合メディアは一つの大きな会話を形成しているが、アルゴリズムが弱い信号を増幅しないために、ユーザがつながりたいと表明した人々の言論を表示し、お金やアルゴリズムによってあなたの会話に誰かを割り込ませないというだけだ。
ヴァレンテのような人たちにとって、連合は魅力的な妥協点と言えるだろう。ヴァレンテは、「起業家」がコミュニティの労働力を利用して価値を築き、その価値を吸い取ってはコミュニティの抜け殻を放置するという終わりのないサイクルに、当然のように怒り、疲弊してきたのだから。
また、企業のあらゆる力に疑念を抱く私のような反トラスト・アドボカシーにとっても、望ましい前進である。だが、連合は小さな政府を目指すリバタリアンにも歓迎されるはずだ。国家の唯一の仕事は契約の執行だけだと考えていても、実際にその役割を果たすには十分な規模と力を持った国家が必要となる。企業が大きくなればなるほど、企業を正直でいさせるためには国家も大きくならざるをえない。
大きな賭けではある。ヴァレンテが書いているように、ネット上に花開き、残虐さと搾取によって根絶やしにされたデジタルコミュニティは、気遣いと情熱の素晴らしいオアシスだった。彼女はこう言っている。「モノを愛そう。人を愛そう。小さなもの、おかしなもの、新しいものを愛そう」。
「互いにペンフレンドになろう。話そう。共有しよう。歓迎しよう。気遣おう。そして、ただ動き続けよう。軽快でいよう。たぶん、インターネットを少し巻き戻して、ブログや分散型グループ、テッキーなお遊び、現実のしきたり、クローゼットの中にサーバを置く現実主義者に立ち返らなきゃいけないんだろう」。
「弱い者を守ろう。小さなものを作ろう。エレクトリックブルーのアイシャドウをつけよう。朝食を写真に取ろう。『ツイン・ピークス』をとことん分析しよう。怒ろう。革命を起こそう。自分が『バッフィー』のどのキャラなのか考えてみよう。皮肉屋になるな。喜びを失うな。私たちであれ。私たちこそが、夜の帳に明かりを灯し続けるものなのだから」。
(Image: Cryteria, CC BY 3.0; Heisenberg Media, CC BY 2.0; modified)
Pluralistic: What the fediverse (does/n’t) solve (23 Dec 2022) – Pluralistic: Daily links from Cory Doctorow
Author: Cory Doctorow / Pluralistic (CC BY 4.0)
Publication Date: December 23, 2022
Translation: heatwave_p2p