日本経済新聞によれば、マンガ単行本(コミックス)の販売減の背景には海賊版マンガの横行があるのだという。

出版科学研究所は25日、2017年の出版市場が前年比7%減の1兆3701億円だったと発表した。前年割れは13年連続で市場はピークの半分に縮んだが、関係者を驚かせたのはその内訳だ。最後の砦(とりで)の漫画単行本(コミックス)販売が13%減と初めて2ケタの減少に沈んだのだ。苦境の背後には急速にはびこり始めた海賊版サイトの拡大がある。
出版、最後の砦マンガ沈む 海賊版横行で販売2ケタ減:日本経済新聞

出版社と出版取次(トーハン)による業界団体の出版科学研究所が1月25日に公表したデータを元にしたストーリーなのだが、いささか違和感を覚える。

マンガ出版の全盛期以降のこの20年は、アナログからデジタルへのシフト、物理媒体からインターネットへのシフトが進み、さらに4大メディアを始めとする限られたプレイヤーだけがコンテンツを発信していた時代から誰しもがコンテンツを発信できる時代へと変化してきた。「アナログ」「紙」の媒体への需要が低下していくのは必然といえる。

20年前と比べて、あるいは10年前、5年前と比べて、あなたがインターネットに繋がる頻度、時間はどう変化しただろうか。そこで費やされた時間や得られた体験は、伝統的なメディアを蝕むことになる。「アナログ」な「紙媒体」であるべき確固たる理由がないのであれば、より利便性の高いメディアに移行していかざるを得ない。

マンガ単行本の販売が2ケタの大幅減となった時期に、利便性の高い海賊版マンガサイトが広く知られてしまったのだから、結びつけたくなる気持ちも分からないではない。海賊版の悪影響を否定するつもりはないし、その存在を肯定するつもりもないが、海賊版というわかりやすい悪者をすべての元凶に仕立て上げることで、もっと重大な変化が見過ごされているのではないか、と思えてならない。

マンガ市場は落ち込んでいるのか?

紙のマンガ市場の推移を見てみると、1995年の6000億円弱の市場規模をピークに、年々縮小が続き、今や最盛期の半分ほどになっている。確かにこれだけを見れば、マンガ文化が滅びの道を歩んでいるという主張には説得力があるのかもしれない。しかし、市場全体を正しく理解するためには、右肩上がりで成長を続けるデジタルコミック市場を含めて把握する必要がある。

少なくともマンガ市場はこの10年、微減ながらほぼ横ばいで推移している。確かに紙は大きく売上を落としているのだが、それを補う形でデジタルが成長しており、レコード音楽などと比べれば、遥かにスムースにシフトしているといえる。

冒頭の日経新聞記事のロジックがズレているように思えるのは、海賊版マンガの横行がマンガ単行本の売上減の主因であるかのように伝えていることだ。少なくとも、市場規模だけを見れば「苦境」でもなんでもない。実際、このデータの詳細を掲載した『出版月報2018年1月号』(出版科学研究所)では以下のように分析されている。

コミックスの低迷は人気作品の完結、既刊本や映像化作品の不信、新規ヒット不足などが主な要因。一方、電子コミックへ年々読者はシフトしており、コミック離れが起きているとは必ずしも言えない。(p.4)

コミックス(単行本)を紙と電子合計で見ると、紙の市場が約13%も減少しているため、約3,400億円とほぼ前年並みの数字となる見通し。合算した市場規模は、14年3,138億円、15年3,251億円、16年3,407億円とここ3年は拡大している。15年以降、紙コミックスの落ち込みが急速に進んでいるのはデジタルへとシフトする読者が増えているためで、明らかなコミック離れとまでは言えなそうだ。(p.10)

デジタルシフトによる縮小以外の要因として、「人気作品の完結、既刊本や映像化作品の不信、新規ヒット不足」など構造的要因、マーケティング的要因を挙げている。少なくとも日経新聞で書かれているような海賊版サイトの影響は指摘されていない。

海賊版サイトの影響

もちろん、海賊版サイトの影響に触れていないわけではない。

17年の電子コミック市場規模は前年比17.2%増の1,711億円。依然伸びてはいるものの、過去作品をほぼすべて電子化し伸び悩む出版社もあるなど、踊り場に差し掛かってきた印象がある。また不正にアップロードされたマンガを無料で読ませる違法海賊版サイトやリーチサイトが大きな問題となっており、各社の売上に少なからず損害を与えている。[…] 業界のみならず、国レベルでの対策が急務となっている。(p.11)

その影響は、デジタルコミック市場の成長率鈍化の一因であるという。

とはいえ、電子書籍、電子雑誌も含め、電子出版市場全体の成長率が鈍化していることを考えると、現状での成長率のピークを超えたのではないかとも思える。『電子書籍ビジネス調査報告書2017』に掲載されているインプレス総合研究所の予測を見ると、2017年度以降は電子出版市場全体の成長率が鈍化することが予測されている。

「dマガジン」や「ブックパス」のような画期的なサービスや、単なる「紙面のデジタル化」の誘引力は次第に低下しつつあり、利用者を引きつける魅力的かつ革新的な試みでもなければ、この予測どおりに推移するのかもしれない。

海賊版の影響の度合いをどう見るかという点で意見の相違はあるのだろうが、今まさに途上にあるデジタルコミックの成長に水を差されては困るという懸念は理解できる。正規サービスが極めて貧弱な状況で(少なくとも正規サービスよりは遥かにマシな)海賊版サイトが恒常的に利用可能な状態は好ましいとはいえず、何らかの対策は必要である。

出版業界に身を置く者から、ブロッキングなどという「検閲」的手法の導入を求める声が上がるとは思えないが、より迅速に著作権侵害コンテンツを削除させるための枠組みを構築する必要はあるだろう。適正な権利行使すらままならない状況は著作権制度自体を支持する以上認めがたい(もちろん、過剰な権利の付与や不当な権利行使はもっと認めがたいが)。国境を超えて、権利者が正当な権利行使――民事的、(営利を目的としている場合には)刑事的措置を講じることができるよう、政府は外交努力を重ねるとともに、捜査能力の向上を図らなくてはならない。

しかし、海賊版マンガの流通を抑止したところで、マンガ市場のさらなる成長・拡大が狙えるかというとそうはならないだろう。この10年はデジタルコミックの成長により市場規模は維持されてきたが、ピーク以降の20年のスパンで見れば縮小傾向にある。下落に転じたのは海賊版マンガサイトが登場する遥か以前だ。2000年代初頭から中盤にかけて流行した海賊版P2Pファイル共有においても、既にCDやDVDでデジタル化されていた音楽や動画ファイルに比べると、アナログからデジタルへの変換が必要な紙のマンガの供給はそれほど目立つものではなく、ほぼPCのディスプレイ上でしか閲覧できなかったこともあり、一般的な需要もさして高くはなかった。さらに言えば、P2Pファイル共有を行うユーザ自体、著作権者に喧伝されていたほど多かったわけでもない。海賊版マンガへの熱量がもっとも高かったのは、主に海外のスキャンレーターだった時代だ。

しかし、サイバーロッカーがアップローダーにインセンティブが与えるようになると、スキャン機器の低価格化による供給増も相まって、ブログやフォーラムに海賊版マンガのリンクが集約され、次第に利用者が増えていったように感じる。そしてスマートフォンが普及するなか、「フリーブックス」や「漫画村」のような海賊版マンガサイトが作られ、注目を浴びていった。

アテンション・可処分時間の奪い合い

現在の海賊版マンガサイトに危機感を覚えるのはもっともであるが、マンガ市場の縮小が1990年代中盤からはじまったことを考えれば、すべてのコンテンツ産業が抱える問題――娯楽およびそのチャネルの多様化と飽和、アテンションと可処分時間の奪い合い――に正面から対峙し、克服することこそが求められているのだろう。

20年前にどのように娯楽を享受していたか思い出せるだろうか。ポケベルを手にしていた一部の若者たちがようやくPHS、ケータイへと流れ始めた時代。もちろん、そのケータイにはカメラもついていなければ、インターネット接続などまだだいぶ先のことだ。ゲーム機ではSFCとGAMEBOYが主流で、音楽では8cmシングルが多数のミリオンヒットを生み出し、ビデオレンタル店にはVHSが並んでいた。娯楽が徐々に多様化し始めた時期ではあるが、私たちはまだまだ可処分時間を持て余していた。テレビ、ラジオ、雑誌、新聞、書籍、マンガ、CD、ビデオ、ゲーム――限られた流通経路、限られたプレイヤーだけが、娯楽を広く提供することができた。

しかし今はどうだろう。インターネットが登場し、今や我々は常にインターネットに繋がり続けるスマートフォンを手にしている。きっとあなたは、その画面を通じて、テキストやイメージ、音楽や映像、ゲームなど、膨大な情報や娯楽を享受し、体験している。さらにそのスマートフォンは同時に、情報を広く発信するためのツールでもある。あなたが今、どこの馬の骨とも知らない私の書いたこの文章を読んでいること自体、20年前には考えられなかったことだ。そしてそれは、私が何かから、あなたの限られた可処分時間を奪っているということでもある。

20年前とは何もかもが変わってしまった。そして、その20年前を体験もしていなければ知りもしない、スマートフォンにばかり目を落とす若者たちが今やターゲットなのである。もちろん、20年前を経験したかつての若者たちも、いまやスマートフォンに夢中だ。


希少性の高まった消費者の可処分時間やアテンションを獲得するためには、それなりのコストを支払わなければならない。その上で、いかにしてそれらを獲得していくかという戦いになっている。

もっとも、その重要性は、出版社自身、特に大手はよくわかっているはずだ。これまでマンガ市場を支え続けてきたサイクルがそうだったのだから。

今そこにある危機

マンガ市場と一言にいっても、さまざまな区分が存在する。たとえば、冒頭で見てきたように「デジタルかアナログか」「紙か配信か」という見方。しかし、現状のマンガ市場を考えるに当たっては、もう1つ別の見方をしなくてはならない。「コミックスか雑誌か」だ。

Photo by 正和 (CC BY-SA 4.0)

人気作品が掲載されるマンガ雑誌に新連載や新人の作品を掲載することで、新たな作品やマンガ家を育てていく――そうしたリレーにも似たサイクルが、これまでのマンガ市場を支えてきた。しかし、人気作品の創出の柱であったマンガ雑誌の売上が激減の一途を辿っている。日本を代表する4大マンガ誌の発行部数を見ても、この20年で週刊少年マガジン週刊少年サンデーが半減、週刊少年ジャンプ週刊少年チャンピオンに至っては3分の1に減少した 週刊少年ジャンプ週刊少年チャンピオンは最盛期の3割程度にまで減少、週刊少年マガジンは最盛期の2割、週刊少年サンデーに至っては最盛期の1割にまで減少している。 [訂正: 3/30 0:18]

全国出版協会によれば1995年のピーク時には3357億円だったマンガ雑誌の売上は、2017年には953億円と3割未満にまで落ち込んでいるという。その一方で、1995年には2507億円だったコミックスは、2017年には3377億円と市場を拡大している。つまり、「苦境」に立たされているのはマンガ雑誌であり、コミックス市場はむしろ成長しているのだ。

上述したように、我々の生活スタイルは20年前とは様変わりした。可処分時間を持て余していた我々の日々の退屈を晴らしてくれたマンガ雑誌という存在が、現代の日常生活においてもはや必要とされなくなってきているということなのだろう。マンガ雑誌とともに育ってきた身として(一番好きだったのは週刊ヤングサンデーだ)、そう言うのには抵抗を覚えるが、しかしその需要が確実に減少を続け、鳴り物入りで登場したはずの人気少年週刊マンガ雑誌のデジタル配信もそれほど伸びていない状況を見るに、そのように結論するよりほかない。

マンガ雑誌低迷の一方でコミックが伸び続けていることを考えれば、マンガ雑誌のようなお仕着せの複数作品パッケージではなく、欲しい作品のコミックをダイレクトに手に入れたい、ということなのだろう。音楽デジタル配信がはじまった直後、アルバムが売れず、シングルばかりが売れるチェリーピッキングが問題視されたレコード業界を思い出す。

しかし、マンガ雑誌の需要減が及ぼす影響は、売上だけに留まらない。『出版月報2018年1月号』では、紙のマンガ単行本の低迷の理由として「人気作品の完結」、「新規ヒット不足」が指摘されているが、人気作品創出のサイクルがうまく機能しなくなるなか、過去の貯金(人気作品)を使い果たしつつある、と見ることもできる。

これについては、『デジタルコンテンツ白書2017』のなかで、ライター/マンガ産業アナリストの中野晴行氏は次のように指摘している。

雑誌の赤字を単行本の黒字で補うというこれまでのビジネスモデルも、単行本の売上が飛躍的に伸びるようなことがなければ厳しくなっている。そもそも単行本の売上を引っ張ってきたのが、雑誌連載から生まれたヒット作の単行本化だったわけで、雑誌の売上がシュリンクしている原因がヒット連載の減少とすれば、単行本の売上も連動して減少するのは当然の帰結だ。(p. 66)

レコード業界がテレビなどを媒介したヒット作、人気ミュージシャンの創出サイクルを失ったように、マンガ雑誌を媒介したマンガ出版業界のヒット作品、人気作家の創出サイクルも機能不全に陥りつつあるということなのだろう。

もちろん、出版社もそれに気づいていないわけではない。出版社各社がデジタルマンガ雑誌配信用にリリースする公式マンガアプリを見れば、新人の育成、売り込みに力を入れていることはよくわかる。だが、こうした公式アプリが、かつて娯楽が限られていた時代に少年少女を魅了したマンガ雑誌ほど魅力的であるかと問われれば、全くもってそうは思えない。せっかく配信を開始したマンガ雑誌と新人作品の導線も薄く、コインだのクレジットだのといったポイントサイトまがいシステムを持ち込み、読者に都度都度ストレスをかけ続けるようなアプリで、楽しんで漫画を読めるはずもない。あんなものが未来のマンガのかたちだとでもいうのだろうか。

ただ幸いなことに、紙のマンガ雑誌から離れたところで、新たなサイクルが生まれ始めている。たとえば、書店や出版社によるさまざまなキャンペーンや仕掛け、映像化といった戦略がヒット作品を生み出したり、ヒット作品の人気をさらに高めることに成功した。また、マンガアプリやソーシャルメディアで人気を集めた作品がヒット作品に成長してもいる。

さらに幸運なことに、インターネットにはゆるく繋がる熱心なマンガ(あるいはオタク)コミュニティが存在している。数十年に渡るマンガ同人誌の一次創作・二次創作のコミュニティも、早くからインターネットを活躍の場としてきた。読者の層が分厚いだけでなく、アマチュアの創作者人口も分厚いのだ。マンガ雑誌の売上が右肩下がりに落ち込もうとも、日夜大好きなマンガを熱心に語らい、生み出し、共有してきた人たちはたくさんいる。そうした人たちが、マンガ文化を支えている。

紙のマンガ雑誌が、継続性を持った日常的な娯楽でなくなっていくのはおそらく変えようがない。もはや現代の生活スタイルに合わないのだ。ならば、今考えるべきことは、紙の雑誌が担ってきた役割をいかにして今の時代にフィットした新しいかたちに生まれ変わらせるかだ。

少なくとも、現状の公式アプリがその新しい形でないことは確かだ。あれが読者に最高のマンガ体験を届けるツールだと思っているマンガ出版業界人はどれだけいるのだろうか。胸を張ってそうだといえないものが、読者を引きつけられるはずもない。また、一度購入したはずのデータを、パッケージを変えただけでもう1度購入させるというような、アナログ時代の物理的制約をデジタル時代に不必要に持ち込むなどということをしてもうまくいくことはないだろう。出版社の都合の押し付けではない、最高の体験を読者に提供することが求められている。

Netflix、Spotify、Steam――マンガ以外のコンテンツに目を向ければ、さまざまなプラットフォームがインターネット時代の成功を収めている。そこから学べることもあるだろう。もちろん、マンガならではの要素もある。マンガ文化が生み出してきた過去の遺産、育ててきたマンガ家、熱量を持ったたくさんのファン、作品の数年、ときに十数年におよぶ継続性など、たくさんの強みをもっている。それを活かして、いかにしてファンのマンガ愛に応えるか、いかにしてマンガを語ってもらうか、そのための仕組みもチャレンジになる。また、出版社ごと、雑誌ごと、あるいは作品ごとに細分化された戦略が、果たして読者にとって有意義な戦略であるのか。コミックやマンガ雑誌というパッケージングがデジタル世界において本当に意味のあるパッケージなのか、あるいは両者の区別に意味はあるのか。改めて考え直すべき点は多いだろう。紙の時代のあり方を前提とせず、現代の読者が快適に楽しめるあたらしいかたちを模索してなくてはならない。

同時に、映像業界、音楽業界、ゲーム業界が、新興プラットフォームにイニシアチブを奪われたことも教訓にしなくてはならない。過去のビジネスモデルに執着して出し惜しみを続ければ、いずれ出し抜かれる。それまで待つか、それとも自ら踏み出すか。

もちろん、簡単ではないことは重々承知している。しかし、まさに王道マンガが描いてきたストーリーではないか。立ちはだかる強大な壁に立ち向かい、かつて戦ってきた仲間たちと手を取り合い、そして勝利する。自らが魅せてきたストーリーを、自らが体現する。ワクワクする展開だ。

再び海賊版サイトについて

マンガ出版がより大きな課題を抱えているのだから、海賊版マンガサイトなんて大した問題ではない、なんてことを言うつもりはない。努力不足のくせに海賊版サイトを批判するなということでもない。

しかし、真に海賊版マンガサイトがマンガ文化を滅ぼすほどに問題なのであれば、ビジネスの問題と切り離して考えている場合ではない、ということだ。確かに海賊版サイトに対処するための特効薬などは存在しない。しかし、以前のエントリにも書いたように、海賊版を超える利便性、体験を提供する有料の正規サービスは、無料の海賊版に勝る。

無料に勝てるはずがない、と思いこんでいる人もいるだろう。しかし、それは違う。Spotifyは1億5900万人のメンバーを抱えているが、そのうち7100万人がプレミアム(有料)ユーザだ。フリープランでも、プレイリスト再生、広告、スキップ制限などはあるが、全カタログにアクセス可能だというのに。もっといえば、Spotifyで聞かれている曲の大半は、おそらくYouTubeの何処かに存在している。でも、誰がわざわざYouTubeで探して聴くというのか。タダでなんとかしようと思えばできるのに、もはやできない。一度快適な世界に浸ってしまえば、不便な世界には戻れないのだ。


これは逆にも当てはまる。海賊版サイトが快適であれば、それよりも不便な正規サービスなど利用できなくなってしまう。不幸なことに、これは海賊版サイトがなくなったところで解決する問題ではない。一度体験してしまった以上、もはや後戻りはできないのだ。歩みの遅い出版社が悪いというわけではない。事実としてそうなってしまったというだけのこと。

いくら恨み節を吐こうとも、いくら海賊版サイトを呪おうとも、時計の針を巻き戻すことはできない。海賊版サイトを抜きにしても、もはや変わってしまった世界で、マンガ文化を支える重要な役割をどのように担うことができるのかを考え、かたちにしなくてはならない。それを実現してこそ、出版社の次世代のビジネスモデルが、ひいてはマンガ文化のあたらしい持続的なサイクルが生み出されるのではないだろうか。

自らが滅びる未来を予言しておきながら、自らは変わりたくないというのでは、それは自ら滅びの道を歩んでいることにほかならない。

今そこにあるもっと大きな危機

もうちっとだけ続くんじゃ……。

残念なことに、現実はもっと複雑だ。マンガだけを考えれば、おそらくデジタルシフトと、利便性の高いサービスの提供で生き残ることはできるだろう。しかし、ことはそう簡単にはいかない。ほとんどの出版社はマンガだけを出版しているわけではないのだから。


紙の出版市場のこの20年間の推移を見ると、書籍が3割強の減少であるのに対して、雑誌は5割以上も落ち込んでいる。出版科学研究所の統計では、マンガ単行本も雑誌の区分に含まれるのだが、その落ち幅が400億円程度であることを考えれば、マンガ雑誌を含む雑誌全体がどれほどシュリンクしているかおわかりいただけるだろう。また、電子出版市場の大半はマンガが占めており、大半の雑誌はいまだ紙が主戦場だ。そして、その雑誌の販路は書店である。

マンガ流通がデジタルに移行してしまえば、これまで書店の売上を支えていた多数のマンガ単行本が本棚から消えることになる。販売委託制度により返品が可能で、再販制度によって価格競争は行われていないものの、娯楽の多様化によって書店、特に小規模の書店は苦境に陥っていることを考えれば、マンガの売上減を許容できるほどの体力は残されていない書店も少なくはなく、生き残れたとしてもますます状況は厳しくなってしまう。

これは単に書店が潰れるというだけの話ではない。書店を通じて、紙の書籍、雑誌を販売し、今も依存している出版社にとっても厳しい状況が待っているということでもある。特に厳しいのは雑誌だ。最大の販路である書店があるからこそ、出版社は雑誌事業を継続できている。それが難しいとなれば、もはや紙の雑誌は立ち行かなくなってしまう。しかも、出版社の中には雑誌の売上に大きく頼る企業も少なくなく、集英社や講談社などの大手出版社も売上に占める雑誌の割合は大きい。



上述の中野氏も、マンガのデジタルシフトの鈍さは、書店対策に由来すると指摘する。

これまで出版社は電子化、特にマンガ雑誌の電子化には消極的な姿勢を取ってきた。電子化によって紙のマンガ雑誌の売上が減ることも理由の1つだが、電子版が紙版を補うと考えれば特に問題はない。

大きな理由は書店対策だった。中小の書店いわゆる「町の本屋」は雑誌とマンガへの依存度が高い。電子化によって雑誌の購読者が紙から電子に移行すれば、書店にとっては死活問題になる。さらに、紙の雑誌の減少は出版流通にも大きな影響を与える。本という商品は多品種小量販売が特長である。この流通の要になってきたのが定期刊行される雑誌だった。雑誌とともにトラックで全国に運ぶことで、数千部の単行本も全国津々浦々に配本できたのだ。雑誌がなくなれば新たな配本方法を確立しなければならなくなる。書店、取次はこれまで出版を支えてきた存在だ。出版社としてもこれだけはなんとかして死守しなければならない、と考えてきたのだ。

単にマンガだけの話に留まらず、書店、さらには日本の配本体制、書籍・雑誌流通、そして出版社のこれからにも影響しうるというわけだ。しかし、制度的、構造的に強い独占性や保護を与えることで公共性を担わせるという仕組みをもってしても、さらに大きな構造・環境の変化によって機能不全を起こしている。いまさらデジタルデバイスなんて使いこなせないという人がいる一方で、いまさらスマートフォンやインターネットを捨てることなんてできないという人もいる。そして前者は減る一方で、後者は増える一方だ。

そのような状況に及んでも、出版業界は「紙を守る」という叶わぬ願望を抱き続けているように思える。もちろん、紙の需要がなくなるとは思っていない。ただ、その将来的な需要に夢を見すぎではないかと思わないでもない。

残念なことに、インターネットにおいてほとんどのテキストメディアは旧来の紙メディアほどうまくいってはいない。強いブランド力を持つ媒体であってもネットでのマネタイズに苦心し、かといって新興ウェブメディアがビジネス的に大成功しているかといえばそういうわけでもない。あらゆる情報がフラットに扱われうるインターネットの世界において、参入障壁の低いテキスト情報は、情報の質による差別化が難しいということでもあるのだろう。さらに、紙メディアの時代に、情報にではなく、媒体にお金を支払ってきたという感覚がそれを難しくしているようにも思える。

いずれにしても、雑誌のデジタル化によるマネタイズは、「dマガジン」や「ブックパス」のような読み放題サブスクリプションサービス、一部の新聞・雑誌では多少の成功を見せているものの、全体に適応しうる画期的なソリューションがあるわけでもない。だからこそ、たとえマンガのデジタル配信がうまくいっていても、出版全体のデジタルシフトには積極的になれないというわけだ。

マンガのデジタルシフトを遅らせれば、書店を、書籍を、雑誌を、ひいては出版社を守ることができる――意地悪な見方をすれば、マンガを犠牲にして出版社を守ろうとしているとも見えてしまう。

もちろん、そんな状況でも、出版社はマンガのデジタルシフトを進めてきた。止むに止まれずという側面もあるのだろうが、昨年にはデジタルコミックが紙の単行本の売上を上回るまで成長している。今、その流れを加速させなければならないのだが、やはり腰が引けているように見えてしまう。デジタルシフトは避けがたく、いずれ紙は途絶える運命にあることを感じつつも、できるだけ長生きさせられないかという願望にも似た思いを抱いてしまう、というところかもしれない。

しかし、紙の復権というのも考えにくい。確かに現時点では、一覧性や閲覧性、携帯性、保存性、所有感、優越感、手触り、紙ならではの表現、デジタル・ディバイド等、紙の利点が感じられる場面、その利点を強く感じる層もまだまだ少なくはない。そうした紙メディアの利点を否定するわけではないが、紙メディアで表現される必然性の薄い情報が淘汰されていくことは間違いない。スマートフォン(や次世代のネットワーク・デバイス)が日々の生活に入り込み、あらゆる情報が飽和していく世界で、いつまでも紙の利点が紙の不便さを補い続けられるはずもない。現に、出版(雑誌)不況というかたちで現れているのだから。

もはや撤退戦の段階に入っているといっても過言ではないだろう。紙の需要減はどこかで下げ止まるのだろうが、多少の揺れ戻しはあれども、当面は減少が続いていくのは間違いない。

出版業界にとっての理想的なシナリオとしては、デジタルへの移行を可能な限り遅らせ、紙メディアの衰退を全力で抑えつつ、ある時点で均衡させ、出版社、書店、取次という旧来のプレイヤーを守りつつ、出版市場を維持するというところなのだろう。しかし、その実現は極めて難しい。もちろん、針の穴を通すような緻密な戦略を実現させれば、絶対に無理だとは言い切れない。ただそのためには、グランドデザインや具体的な戦略、状況に応じた複数のプランと柔軟な方向転換が必要になるのだが、果たして現在の出版業界にそれは可能なのだろうか。

Photo by Mark Bonica (CC BY 2.0)

Netflixが赤い封筒からの脱却プランを実行に移しはじめたのは2007年1月(サービスを分離したのは2011年)、Spotifyがサービスを開始したのは2008年秋のことだ。もはやそれから10年以上が経過している。いずれも何度も逆境に晒されながらも、消費者の生活スタイルの変化を取り入れつつ、世界的なサービスにまで成長した。映画業界、レコード業界にとって扱いづらい相手ではあるが、いまや必要不可欠なビジネスパートナーとなっている。

残念なことに、出版業界にそのようなパートナーはまだ存在していない。時代への歩み寄りを拒否し続けてきたツケでもあるのだろう。日本においても、新古本や漫画喫茶、電子書籍、Google Books、自炊/自炊代行、図書館――自らのコントローラビリティの及ばない領域に足を踏み入れるものがあれば、途端に「出版が滅びる」と声高に叫んで排除を試み、自らを聖域化してきた。その結果、パラダイムシフトが必要とされている時期に、消極的にデジタルシフトに乗り出すという絶望的な状況に陥っている。その段階に至っても、紙の維持を第一に考え、デジタルでも自らが主導権を握りつつ持続可能なビジネスモデルを構築したいというのであれば、まさに「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということになるのだろう。もっと辛辣に言えば、そのような考えはもはや現実逃避に過ぎない。それができるなら、このようなジリ貧には陥ることはなかったはずだ。

幸か不幸か、いまや作家の「表現」を世に出すための役割は、伝統的な出版社だけが担えるというわけでもない。たとえ出版社が滅びたとしても、プラットフォームやエージェントなど、その役割を担う存在は登場するだろう。そして需要がある限り、何かしらのかたちで供給され続ける。紙の出版社が、紙に縛られないパブリッシャに取って代わられるというだけの話だ。足枷がない分、むしろ風通しがよくなるのかもしれない。たとえそうなったとしても、マンガという表現を愛する人が存在し続ける限り、マンガ文化が滅びることはないだろう。

「検閲」を望む出版社

さて、本当はこの辺でまとめて終わる予定だったのだが、出版業界が海賊版サイトのブロッキングを求めて水面下でロビー活動を進め、政府官房長官が「サイトブロッキングを含め、あらゆる方策の可能性を検討している」と明言するとあっては、触れない訳にはいかない。

これまで述べてきたように、出版社が海賊版サイトの脅威を声高に叫んでいるのは、マンガ文化を守るためという以上に、デジタルシフト、パラダイムシフトに対応できず、余裕のなくなった出版流通、出版業界を守りたいがためであろう。その目的のために、ブロッキングという名の「検閲」にすがろうとしている。

確かに、海賊版マンガサイトは、第三者による著作権侵害であるという口実を悪用して、削除要請にも応じず、海賊版コンテンツから利益を上げている。そして、出版社の調査能力、警察の捜査能力では、その背後にいる人物までたどり着けない、あるいは十分な証拠を掴むことができない。大本を断てないのであれば、利用者のアクセスを塞げばいい――ブロッキングを求める声は、そうして醸成されていったのだろう。

かつて(もちろん今でも)出版社は、違法ダウンロードの対象にテキストやイメージを含めるよう求めていた。当然、その方向で対処できないかとは考えたはずだ。しかし、現在の海賊版マンガサイトの多くは、海賊版コンテンツをサイト上に表示しているのであって、ダウンロード(複製)をさせているわけではない。違法ダウンロードの対象にテキストやイメージを含めるだけでは効果はなく、ストリーミング(キャッシュの取得あるいは表示行為そのもの)を違法化しなくてはならなくなる。つまり、私がここで著作権を侵害する文章なり画像を差し込めば、それを表示させたあなたを逮捕できるようにする、ということだ。

さすがにそれは現実的ではない。だからブロッキングはどうか、ということなのだろう。しかし、「ブロッキングはテキスト/イメージのストリーミング違法化よりもマシ」と言えるほど、生易しい手段ではない。ブロッキングは情報統制であり、検閲である。

もちろん、ブロッキングを求める側は、そんなに大したものではないと考えているのだろう。あくまでも、違法行為によって多大な損害をもたらし、国内からはいかなる対処もできないと判断されたウェブサイトをのみブロッキングするのだ、と。ブロッキングに至るまでには厳格な要件を課し、安易に適用されないようにする、と。

しかし皮肉なことに、その主張自体が、要件が緩和されていくことを体現している。日本でもすでに「児童ポルノ」を対象としたブロッキングは行われているが、重大な人権侵害を抑制するための「緊急避難」として許容されているものであり、著作権侵害を理由としたブロッキングは許されないということになっていた。しかし、出版社が求めているのは、児童ポルノだけではなく、我々の著作物を守るためにブロッキングの要件を緩和してくれ、ということだ。「我々も同じように被害を受けている。なぜ著作権にだけ認められて、我々にブロッキングによる救済はないのか」という声が上がるのは時間の問題でしかない。その時、出版業界は沈黙するだろう。著作権だけにブロッキングを認める理由など存在しないのだから。

そして「こども」のため、「女性」のため、と倫理的に反対しがたいお題目のもとに、ブロッキングは進められていくだろう。そして「社会への悪影響」を防ぐため、ゆくゆくは「国防」「治安維持」のためにブロッキングが行われることになる。政府にとっては、表現の自由を守護し、検閲に対抗してきた出版業界からブロッキングの懇願が行われているのだから、実にありがたい口実といえよう。

情報のゲートキーパーを置くということ

もちろん、これはウェブサイトのブロッキングだけに留まらない。インターネットという仕組みにおいて、情報の送り手と受け手との間に情報のゲートキーパーを置くというアイデアは、「インターネット上のあらゆる情報流通は管理可能である」という考えをもたらす。適法か違法かという基準によって行われるブロッキングは、いずれ適切か不適切かという基準によるフィルタリングへと姿を変える。

現に著作権ブロッキング先進国の英国では、デジタル・エコノミー法に基づき、全国規模でのポルノ等、未成年者に不適切なウェブサイトのフィルタリングの実装を目前に控えている。国内ISPがポルノ等サイトへの国内からのアクセスを原則遮断し、公的身分証の提示を求める厳格な年齢認証システムのもとに、いわば成人の情報アクセスを例外的に認めるという仕組みである。また、不適切なサイトとみなされたウェブサイトは厳格な年齢認証ソフトウェアの導入が義務づけられる。インターネット先進国の英国がこのような措置を講じれば、英国外のウェブサイトであろうとも対応を迫られることになるだろう。英国からのアクセスをブロックされたくなければ、従わざるを得ないのだ。

不適切な情報は遮断ないしゾーニングされてしかるべきなのだから、このような流れは致し方ない、と思う人もいるだろう。だがそれは「不適切」と考える基準が一致している、あるいは妥協できるからそう思えるだけのことだ。視点を変えてみよう。中国政府が「不適切」と考える情報は遮断されてしかるべきか。民主国家に暮らす人びとにとって、その基準は到底受け入れられるものではないだろう。しかし、いまや世界有数の経済大国、消費大国は、インターネットにおけるビジネスにとって無視できる存在ではない。インターネットのあらゆるサービスがその基準に従うか、拒否するかの選択を迫られている。そして、その基準を突っぱねれば魅力的な中国という市場を失うことになる。現に、リベラル傾向の強いシリコンバレー企業でさえ、中国市場への参入するために、情報の検閲、意にそぐわない記述の書き換え、プライバシー情報への侵襲を許そうとしている。

さらに、民主国家においても、表現規制を求める声が高まりつつある。この数年、Brexitや米大統領選挙、欧州のさまざまな選挙で蔓延したフェイクニュースなどの虚偽情報(disinformation)やジャンクニュース、選挙干渉、そして最近にわかに注目を集めているDeepfake / fakeporn、著作権フィルタリング、売春強要(性的人身売買)、ヘイトスピーチ、テロリストによるプロパガンダ、さらには強権国家によるソーシャルエンジニアリング的なサイバー攻撃など、我々の情報環境をめぐる問題が噴出し、インターネットの情報流通に制限をかけるべきとの主張も強まっている。もちろん、民主国家である以上、表現の自由を侵す「検閲」であってはならない。そこで、情報流通を制限するゲートキーパーの役割を、ソーシャルメディアなどのプラットフォームやISPに求め、政府が主体となる検閲ではなく、民間企業による自主的な情報制限ということにして、政府の責任を回避しようとしている。

今年1月に施行されたドイツのヘイトスピーチ規制法――大手ソーシャルメディアに対し、投稿されたヘイトスピーチを24時間以内に削除することを義務づけた法律――はまさにその典型だ。もちろん、ドイツではヘイトスピーチは犯罪である。しかし、その判断は司法が担うべきであり、民間企業に法執行機関による取り締まりを代理させるべきではない。ましてや、ヘイトスピーチと表現の自由によって守られる言論の区別など容易にできるものではない。しかし、そのような判断の問題や技術的実装、取り締まりのコストを度外視して、「適切に」取り締まることを義務づけてしまえば、フォールスポジティブ(適法なコンテンツを違法なコンテンツを判断して削除してしまうこと)よりも、フォールスネガティブ(違法なコンテンツを見逃してしまうこと)を避けるべく、オーバーブロッキング(過剰削除)に舵を切ってしまう。実際、ドイツのヘイトスピーチ規制法も、施行からわずか3日で、風刺雑誌『タイタニック』のツイッターアカウントが凍結されるという結果を招いている(のちに復旧)。

フォールスネガティブに罰則を設け、フォールスポジティブには配慮のみを求めているのだから、当然の帰結といえるだろう。

出版業界は有害図書指定を自ら引き受けられるのか

出版業界は、そんな検閲を望んでいるわけではない、と言うだろう。あるいはもっと利己的に、我々はそのような際どい表現を扱っていないので関係ない、と高を括ることもできる。あくまでも行き過ぎた市井の人びとの表現が取り締まられるだけだ、と。

もちろん、「インターネット上のあらゆる表現は管理可能である」という考えは、そのような甘えを許さない。

暴力的であってはならない、銃や刃物を表現してはならない、血を見せてはいけない、性的であってはならない、こどもが被害にあってはならない、猟奇的であってはならない、差別的であってはならない、下品であってはならない、タバコを描いてはいけない、薬物を扱ってはならない、歴史的な英雄を馬鹿にしてはいけない、文化を盗用してはならない、あるいは(友達に)国境はないと嘘を教えてはいけない――あらゆる方面から飛んでくる「不適切だ」という声に応えなくてはならない。もちろん、そう言われたくないがために、今よりもさらに厳格な自主規制基準を設け、業界全体で厳格なレーティングを行わなくてはならなくなるだろう。当然、マンガ家が描こうとする表現は、そうした自主規制や掲載メディアのレーティング(とマーケティング戦略)によって歪められることになる。それは単に表現そのものに限定されず、物理媒体の義務的ゾーニングに及ぶことも想像に難くない。もちろん、そのような表現や媒体へのアクセスも厳格な認証が必須となるだろう。

ブロッキングを望もうが望むまいが、そのような圧力が強まっていくことに変わりはない。しかし、インターネットにゲートキーパーを置き、情報流通の管理を当然のこととして容認する社会にあっては、そうした圧力に抗うことは容易ではない。ましてや、その流れを主導した業界となればなおさらだ。

著作権ブロッキングの導入は、表現規制、情報統制への偉大なる一歩を刻むことになる。それを望んでいるのが、表現規制と戦い続けてきた出版業界だというのだから、皮肉なことだ。

残念なことに、私たちが暮らす社会はとても感情的だ。さらに残念なことに、ネガティブな感情がドライブする力はとてつもなく強い。社会を震撼させる事件や出来事が起これば、後先を考えずに悪者と感じられる存在を封じ込められそうな手段にすがろうとしてしまう。これまで出版業界は何度も、そのような感情に突き動かされた批判を浴びてきたはずだ。その歴史を忘れてはならない。

最後にもう1度、海賊版サイトについて

著作権者が自らの権利を行使して、自らの権利を侵害する海賊版コンテンツを削除し、海賊版サイトを潰す――そのことに異を唱えたいわけではない。YouTubeのようなCGMならともかく、漫画村のような海賊版サイトは「はるか夢の阯」のような自作自演のリンクサイトだろう。そのようなサイトが閉鎖に追い込まれ、その運営者が責任を問われることには異論はない。そして、そうできない状況が好ましくないということも共有できる。

しかし、それができないからといって、ブロッキングという検閲に頼るというのは、まったくもって許容できない。上述したように、表現にとって「地獄への道」を舗装することになるのだから。

確かに、ブロッキングによってある程度のアクセスは遮断できるだろう。しかし、「MANGA議連」会長の古屋圭司衆議院議員のいう「2017年12月から2018年2月までの3ヵ月間の『漫画村』訪問者数がのべ4億5千万人」のうちどれだけが正規のサービスを利用するようになるのだろうか。菅義偉官房長官への質問の際、ニコニコニュースの七尾功記者が挙げた「作者側の損失は4000億円を超える」とも言われる試算額のうちどれだけを市場に取り込めるというのだろうか。

著作権ブロッキングが行われた。海賊版サイトへのアクセスが減った。マンガ家の収入は変わらず、出版社の収益は減少を続けた。そして、ブロッキングの範囲が拡大したという事実だけが残された。そして、「不適切」と判断されたコンテンツがインターネットから隔離、削除され、表現全体が萎縮していく――そんな未来のためにブロッキングを認めてよいのか。

根本的原因を取り除くことなくブロッキングなどという手段に頼ったところで、逆効果にしかならない。すでに著作権ブロッキングやジオブロッキングを回避するためのサービスが世界中にあふれている。あるいはさらに捜査の手が届きにくい世界もある。需要に応えることなくアクセスを遮断したところで、そのようなサービスや世界に燃料を注ぐだけにしかならず、問題はさらに深刻化することになる。

ブロッキングなどという解決にならない策にすがるのではなく、根本的解決である読者の需要に応えることこそが、出版業界に求められている。そしてそれは、海賊版対策のみならず、出版業界自体の持続可能性にも繋がるのだ。

時間はそう長くは残されていない。近いうちに、中国のテンセントあたりが日本(アジア全域)のコンテンツ市場を狙ってくる。それまでに対抗しうるだけの基盤を構築できなければ、そこでタイムアップだ。体力の失われた日本の出版業界に、投資や市場の規模感がまったく異なる「異世界」の新興プレイヤーと戦えというのも酷な話だ。とはいえ、考えようによっては、デジタル出版市場を独自コンテンツに注力する新興プラットフォームに明け渡すことで、従来の出版社は選択の余地なく紙に専念できるともいえる。求められる役割を担えないのであれば、ほかのプレイヤーが担う。それだけのことだろう。

Header Image:latteda / CC BY 2.0