以下の文章は、電子フロンティア財団の「Twitter and Interoperability: Some Thoughts From the Peanut Gallery」という記事を翻訳したものである。
Electronic Frontier Foundation
2019年の終わりに、Twitterのジャック・ドーシーCEOは、“Project Blue Sky”を打ち出した。これは、Twitterシステムに参加するユーザ(ないしユーザの代理となるツール)に現在よりも強力なコントローラビリティを与える、相互運用化・連合化・標準化されたTwitterのプランであった。我々は興奮した。これが相互運用可能な分散型ソーシャルメディアの世界への大きな飛躍を意味していたからだ。特に、ドーシーがマイク・マズニックの優れた論文「Protocols, Not Products」を引用していることに興奮が止まらなかった。
あれから1年以上が経ち、Twitterは分散型システムの展望を記した「エコシステムレビュー」で進捗を明らかにした。2021年のソーシャルメディアの役割は、2019年のそれとはまったく異なるものになる。我々は現在、これまでとはまったく違う世界に暮らしているのだ。各都市でロックダウンが行われ、米国では政治システムの正統性が脅かされ、ソーシャルメディアのモデレーション・ポリシーが国家にとって重要性を帯びる中で、連合化された分散型のインターネットがどのように機能するのかという問題は、今まで以上に重要性を、そして緊急性を増している。
賢き王 対 自治地域
ビッグテック・プラットフォームのモデレーション・ポリシーがまともだと思っている人はよもやいないだろう。とはいえ、テクノロジー企業のモデレーションに問題があることはわかっていても、何をすべきかというコンセンサスは得られていない。
大まかに言えば、2つのアプローチがある。1つはビックテック企業を修正するアプローチ。そしてもう1つは、インターネットを修正するというアプローチだ。
ビッグテックを何とかしなければならないと叫ぶ人たちは、暗黙のうちに、ネットがテクノロジー大手によって永遠に支配される運命にあることを既成事実として認めている。ビッグテックの修正というのは、王に賢き王であるよう、独裁者に慈悲深き独裁者であるよう求めることにほかならない。それゆえビッグテック修正論者は、プラットフォームのユーザとの関わり方、たとえば明快なモデレーション・ポリシーだとか、適正な手続き・透明性・説明責任のためのルールや構造を提案する。
対照的に、インターネット修正論者は、友人との語らいや政治運動の組織化、バーチャルスクールへの通学、商品やサービスの取引、政治的議論、芸術の共有をさまざまな方法で可能にするダイナミックなインターネットを望む。
我らはインターネット修正論者である。確かに、仮想空間はよく管理され、説明責任があり、透明性がある場であって欲しい。だが、もしそうでないときに、ユーザが行ける場が他にも存在して欲しいのだ。賢き王は理屈の上では素晴らしい。だが実際には、トンマな過ちを犯すのである。プラットフォームが間違った方向に進んだとしたら、ユーザはその場を離れるべきだ。しかしそれでいてなお、友人と連絡をとったり、作品を公開・販売したり、社会運動を継続できなくてはならない。
そこで相互運用性の出番だ。問題は、ビッグテック企業のCEOが数十億人のデジタルライフを統治する選択を間違うことではない。そんなことは誰にもできないという問題なのだ。
スイッチング・コスト:垣根を取り払う
Twitterは今日、たくさんの競合を相手にしている。もちろん、Facebookもその1つだが、「フェディバース(fediverse)」を構成する無数のMastodonやDiasporaのインスタンスも含まれる。もしTwitterのモデレーションが気に入らなければ、別のソーシャルメディアに移行することもできる。
だが、現実はそう単純にはいかない。たとえあなたがTwitterよりも他のソーシャルメディアのモデレーション・ポリシーを好ましいと思っていても、Twitterからは離れられない。あなたが繋がりたい人たちがみんな集まっている場所がTwitterなのだから。一方あなたが繋がりたい人たちも、あなたがそこにいるからこそTwitterを離れられない。いわば相互人質化が起こっているのだ。
経済学者たちはこれを「ネットワーク効果」と呼んでいる。Twitterに参加する人が多ければ多いほど、Twitterに参加すべき理由が増え、離脱が難しくなるのだ。だが、テクノロジストは別の言葉でこの現象を説明する。「ロックイン」だ。Twitterにリソースを投入すればするほど、離脱コストが増大するのである。経済学者はこのコストを「スイッチング・コスト」と呼ぶ。
ネットワーク効果は、高いスイッチング・コストによってロックインを生じさせている。
だが、このようにも考えられないだろうか。スイッチング・コストを低減すれば、ロックインを抑制し、ネットワーク効果を無力化できるのでは!?
では、これを紐解いていこう。ベルリンはかつて壁で分断されていた。壁の東側の人たちは出ていくことを許されていなかった。出ていくことは、すべてのものを、愛するすべての人たちを捨てることを意味していた。脱出に成功しても、会うことも、話すことも二度とできなくなるかもしれない。壁は巨大だったが、それは東ドイツの人々を縛るもっと大きなシステムの目に見える部分に過ぎなかった。ソフト面での制約――それまでの生活を捨てることで生じる社会的・物質的コスト――は、脱出を躊躇させるほどに大きかったのだ。
それに比べて、今日ベルリンから、たとえばパリに移動しようと思ったら、パリまで電車に乗る、それだけだ。もしパリが気に入ったなら、家財道具一式(家電も含めて!)をベルリンから持ってくることもできる。それでいて、ベルリンの友達とビデオ会議やテキスト、メールでやりとりすることもできる。パリの住まいに空き部屋があれば、週末にベルリンの友人を泊めてあげることだってできる(空き部屋がなければソファに寝かせとけ)。故郷のラジオやテレビだって見れるし、ベルリンにいたときと同じように毎日ベルリンの日刊新聞を読める。最終的に、しっくりこないなと思ったら、またベルリンに引っ越せばいい。
こうしたスイッチング・コストの低さのおかげで、多くの人がどこか別の場所にお試しで住めるのである。大学進学で引っ越しをして二度と戻ってこない人もいれば、ワーホリに行った先の街に恋して骨を埋める人もいる。もちろん、気が変わって帰国してくる人も多い。彼らには選択肢があるのだ。彼らはフルコミットする前に新生活を試せるし、フルコミットしたあとでも、以前の生活を完全に帳消しにする必要もない。以前の生活に片足を置きつつ、新しい生活にもう片足を置けるのである。ジャングルのツタ渡りのようにアチラコチラに、しかし、次のツタをしっかりと掴むまでは、それまで握っていたツタを手放さなくても良いのだ。
だが、ひとたびソーシャルメディア・プラットフォームにコミットすると、あなたはデジタルの壁に囲まれてしまう。あなたがメッセージやアドレス帳を持ってプラットフォームを離脱できるようになったのは、ごく最近のことだ(それもEUが規制に着手してしぶしぶ、このわずかばかりの自由にコミットするようになった)。
プラットフォームが嫌がっているのは、あなたが壁を飛び越えて入ってきて、メッセージを受け取って、また外に飛び出してしまうことだ。Facebookはこれまで幾度も、Facebookを含む複数のサービスのメッセージを集約する代替インターフェースを開発しただけの人々を訴えたり、脅してきた。Facebookユーザが、好きなように友達と対話できるようにするというアイデアは、同社にとっては過ぎた考えなのだ。Facebookを離脱した人たちがその後も友人たちと会話したり、グループ内のメッセージを読める世界を、同社が許容するとは思い難い。
壁に囲まれた庭(walled garden:閉じたプラットフォームの意)とベルリンの壁との類似性はまだある。かつて東ドイツ政府は壁の存在意義について、脱出を防ぐためにあるのではなく、むしろ東ドイツのライフスタイルに憧れた西側の人々の流入を防ぐためにあるのだと主張していた。そして今日、Facebookは、相互運用性をブロックしているのはプライバシー略奪者からサービスを守るためであって、ユーザを内部に囲い込むためではないと主張している。
プラットフォームではなく、インターネットを修正せよ
Facebookの主張は一理ある。そんなに説得力があるものではないが、一理あることは確かだ。結局のところ、同社はプラットフォーム上の悪しき言説――違法な言説に限らず、偽情報やデマ、ハラスメント、不快なコミュニケーションや脅迫的コミュニケーションなど――と戦うよう全方位から圧力を受けている。プラットフォームに接続する方法が増えれば増えるほど、悪さをする方法も増えるのだ。
だが、我々は自らに問いかけなくてはならない。ハラスメントやヘイトスピーチ、あるいは不愉快な経験をしたにも関わらず、なぜ人々は巨大なソーシャルメディア・プラットフォームに固執し続けるのだろうか。それは、ロックインによる相互人質化と、ソーシャルメディアの移行にかかる高いスイッチング・コストのためである。友人がいるから、あなたはそのソーシャルメディアを利用し続けている。そして、その友人たちは、あなたがそこにいるからそのソーシャルメディアを使い続けているかもしれない。友人(ミュージシャンであればオーディエンス、企業であれば顧客)とのつながりを失うコストは、競合ソーシャルメディアに移行するメリットを超えているのだ。
相互運用性はそうしたコストを低減し、移行を容易にしてくれる。具体的には、管理者があなたの納得できるポリシー――たとえば「ヘイトスピーチ」や「ハラスメント」、「無礼」などの定義が自分の基準に合っている――を執行する小規模なプラットフォームに乗り換えられるようになる、ということだ。
そして決定的なのは、仕事仲間や友人とのつながりを失うことなく、そして、あなたがフォローする刺激的で楽しい(あるいは腹立たしい)誰だかわかんない人や、刺激的で楽しい(あるいは腹立たしい)あなたをフォローしているファンとのつながりを失うことなく、ソーシャルメディアを移行できるのである。
相互運用可能な世界にあっても、我々はプラットフォームにより良いルールを採用し、進展させていくよう促していかなければならない。しかし、プラットフォームに失望したときには、別の選択肢がある。もしインターネットを(選択肢を回復することで)修正できるなら、プラットフォームの修正はそれほど急務ではない。
相互運用性のデメリット
相互運用性にはデメリットがある。今日のインターネットを支配する巨大で独占的なプラットフォームが、その力をより良い方向に行使すれば、良いことが起こる。たとえば、あるプラットフォームが厳格なプライバシールール(透明性レポート、ユーザデータへの第三者アクセスの禁止、ユーザデータの販売やマイニングの禁止、政府によるコンテンツ削除要請に対する高度は法的基準など)を採用し、実際にそのルールに従えば、何億人、何十億人ものユーザがその恩恵を受けられる。
分散化された相互運用可能なインターネットでは、何十億もの人々に一度に影響を与えるようなポリシー執行は極めて難しい。これがポイントである。
そして、ユーザが社会的なつながりを維持したまま簡単にプラットフォームを乗り換えることができるならば、有害な表現や望ましからざる表現を望む人たちは、それを容認するプラットフォームに集うことになる。
だが、望ましからざる表現と違法な表現は区別されなければならない。米国憲法修正第一条を掲げる米国では、ほとんどの表現が(差別主義者の暴言のような忌むべき表現であろうと)適法であり、一部のコミュニケーション(たとえば児童ポルノや非同意ポルノなど)がそうではない、ということになっている。
オンラインコミュニケーションが中央化された現代では、適法な表現であっても、インターネットの大部分から削除されてしまうことがある。FacebookやTwitterがある言葉やフレーズの使用、リンクの掲載を禁止したとしても、ユーザの大半にはほとんど影響はないだろう。そうした禁止措置が望ましいと感じられるなら、素晴らしいことだとすら思うかもしれない。だが、次第に明確になってきているのは、政治的イデオロギーに関わらず、多くの人がビッグテックの編集的判断を懸念し始めているということだ。
分散化された相互運用可能なインターネットには、明確なトレードオフが存在する。あなたを混乱・動揺させるような表現を排除するようプラットフォームを動かす力を失うことになる一方で、表現ポリシーが自分に合っているオンラインコミュニティに移行することができるようになり、それでいて自分とは異なる表現ポリシーを望む人との対話も続けられる。
とはいえ、これまでだって、プラットフォームが新しい表現ポリシーの導入を求める我々の要求に応じてきたわけではない。
では、違法な表現についてはどうだろうか? 詐欺、非同意ポルノ、深刻な暴力の扇動はどうなるのか? 無論、こうした表現が違法であることに変わりはなく、裁判所や捜査機関(大抵は私人も含む)は、こうした違法な表現を広めるためにプラットフォームを利用する人々を罰する法的権利を有している。さらに、表現の種類やプラットフォームの共犯関係によっては、プラットフォーム自体が犯罪表現の責任を負うこともある。
相互運用可能な世界では、あるコミュニティにおいて許されない表現をそのコミュニティのメンバーが決定できる。いかなる場所においても許されない表現は、(国民の圧力に屈した巨大企業ではなく)民主的に選出された議員によって決定される。
また、相互運用可能な世界では、我々のプライバシーをプラットフォームに守ってもらうことはできない。だが、現在支配的なプラットフォームがプライバシーの点で優れているとは、とてもじゃないが言えない。プライバシーの保護はプラットフォームの善意ではなく、プライバシー法(たとえば、長らく足踏みしている連邦プライバシー法)によって守られなくてはならない。
誰しも表現の好きや嫌いはある。たとえ目や耳にしなくとも、それが存在すること自体が苦痛に感じられる「不愉快な表現」をそれぞれに抱えている。あるというだけで耐え難いのだ。その耐え難さについて広く社会的なコンセンサスが得られれば、児童ポルノのように法律で禁止される。だが、そうしたコンセンサスが得られないのだとしたら、我々一人ひとりがその耐え難さを背負っていかなければならない。
Twitterのユニークなポジション(2番手)
Twitterのユーザ数は3億4000万人に上る。これは大きな数字だ。
かたやFacebookのユーザ数は26億人。
マーク・ザッカーバーグが気づかせてくれたように、Facebookのモデレーター人員数は、Twitter社の総社員数を凌駕している。ならば、ザッカーバーグがFacebookが禁止すべき表現のルールを求めているのも不思議ではない。そのルールは、Facebookのモデレーター部隊をもってしても遵守することはできないのだろうが、同時にFacebook以外のすべてのソーシャルメディアも遵守できはしないのだ。その結果、Facebookの競合他社が駆逐されていくことになる。そうして我々は、どのような表現が許容され、許容されるべきではないかというFacebookの判断に永遠にとらわれることになる。
Twitterは大規模だ。だが市場リーダーに比べれば、文字通り桁違いに小さい。確かに大量のリソース、資本、ユーザを抱えてはいるが、この領域を支配する巨人に簡単に飲み込まれたり、追い出されてしまうほどの差がある。
この状況は、Twitterをユニークな立場に立たせている。野心的で、高度に技術的なことをするには十分なサイズであり、リスクに冒すには十分に不安定なポジションにあるのだ。
これまでのところ、「Project Blue Sky」は絵に描いた餅に過ぎず、Twitterが自ら掲げた目標に応えられるかどうかはわからない。だが、楽観論が(必然的に)不足する緊張した時代のなかで、相互運用可能なソーシャル・インターネットがこれまで以上に待望されているのは間違いない。ソーシャルメディア企業は我々と同じように間違いを犯す。しかし、膨大なユーザをロックインするソーシャルメディア企業の失敗は、我々の誰しもが犯しかねない失敗よりも深刻な影響をもたらすのである。テクノロジー企業により良い判断を求めるのは間違いではないが、彼らの避けがたい失敗の結果を低減することのほうが遥かに重要であり、そのためには彼らの力を奪わなくてはならない。相互運用性は、企業の役員室から、いじり屋(tinkers)や協同組合、非営利団体、スタートアップ、そしてサービスを利用するユーザへと力を移行させるのである。
Twitter and Interoperability: Some Thoughts From the Peanut Gallery | Electronic Frontier Foundation
Publication Date: January 25, 2021
Translation: heatwave_p2p